第六話 この国のふつう (四)
四 何を渡したいか
「物じゃなくてもいいんですか」
前の席の子が尋ねた。
「かまいません」
先生は答えた。
「作った物でも、見つけた方法でも、覚えたことでもいいです」
子どもたちは、それぞれ紙へ目を落とした。
すぐに鉛筆を動かす子もいれば、天井を見ながら考えている子もいる。
隣の子は、紙の真ん中へ大きく書いた。
《病気を治す方法》
「誰に渡すの?」
航が小さな声で尋ねた。
「病気の人」
「どの人?」
「将来だから、まだ分かんないよ」
その子は気にせず、文字の横に白い建物を描き始めた。
前の席の子は、
《水を少なくして野菜を育てる方法》
と書いている。
後ろからも、書いたものを読み上げる声が聞こえた。
「新しい乗り物」
「動物の言葉が分かるAI」
「小さい子が遊べる場所」
「ずっと残る歌」
先生は机の間を歩きながら、一人ずつ紙を見ていった。
「誰に渡したいかも、思いついた人は書いてください」
航は鉛筆を持った。
誰に何を渡したいか。
すぐには思いつかなかった。
将来したいことなら、一つあった。
紙の真ん中へ書く。
《ハルと散歩する》
書き終わると、隣の子がのぞき込んだ。
「それ、誰に何を渡すの?」
「ハルに散歩を渡す」
「散歩は渡す物じゃないよ」
「ハルはうれしいよ」
「でも、次の人に残らないじゃん」
航は、自分の書いた文字を見た。
「毎日できるよ」
「それは、航がすることでしょう?」
「うん」
隣の子は少し考えたあと、自分の紙へ戻った。
先生が航の机のそばへ来た。
「何を書きましたか」
航は紙を見せた。
「ハルと散歩する」
「ハルは、森川くんの犬ですね」
「うん」
「将来も、一緒に歩きたいんですね」
航はうなずいた。
「でも、渡すことじゃないって」
先生は、もう一度紙を見た。
「将来したいこととしては、よく分かります」
先生は少し考えた。
「今日の問いで考えるなら、最近作った物や、覚えたこともありますか」
航は、公園に置かれた板と車輪を思い出した。
「おじいさんと、犬の車を作ってる」
「犬の車?」
「歩くのにつかれた犬を乗せるの」
「それなら、必要な犬へ渡せそうですね」
先生はそう言って、次の机へ移った。
航は、紙の下へ書いた。
《犬の車を作る》
隣の子がそれを見る。
「それなら合ってる」
航は二つの文を見比べた。
《ハルと散歩する》
《犬の車を作る》
下のほうが、今日の授業には合っているらしい。
けれど、犬の車を何台も作りたいわけではなかった。
作り方を、誰かへ教えたいとも思っていない。
老人と板を測り、車輪を回している時間が楽しかっただけだった。
航は消しゴムを持った。
《ハルと散歩する》
の上へ押し当てる。
一度こすると、文字が薄くなった。
もう一度こすると、《ハル》の一部だけが残った。
最後にそこも消した。
残ったのは、
《犬の車を作る》
という文字だけだった。
授業が終わると、航は課題用紙を教科書の間へ挟んだ。
《犬の車を作る》
その上には、消した文字の跡がうっすら残っている。
家へ帰ると、美紀は食卓で布を広げていた。
「おかえり」
「ただいま」
航は鞄を置き、ハルの首輪を取った。
「公園行ってくる」
「宿題は?」
「おじいさんに聞いてみる」
「何を?」
「犬の車のこと」
美紀は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は尋ねなかった。
「暗くなる前に帰ってきてね」
「うん」
公園へ着くと、老人はベンチの後ろで作業をしていた。
地面には、板と車輪を組み合わせたものが置かれている。
前に来たときより、四角い囲いが増えていた。
「車になった?」
航が近づく。
「まだだ」
「もう車みたいだよ」
「犬が乗れて、押して動かなければ車じゃない」
老人は、地面に置かれた二本の棒を指した。
「今日は、押すところをつける」
航は片方を持ち上げた。
「どっちが右?」
「合わせてみろ」
二本の棒は、先が少しだけ外側へ曲がっている。
航は車体の後ろへ置き、持ち手になるほうを握ってみた。
左右を入れ替えると、腕を無理に寄せなくても持てるようになった。
「こっちだ」
「そうだ」
航が棒を押さえ、老人が留め具を締める。
反対側も同じようにつけ、最後に二本の棒を横棒でつないだ。
「押してみろ」
航は持ち手を握った。
前へ押すと、車体は少し進み、右へ曲がった。
「まっすぐじゃない」
「車輪を見ろ」
左右の車輪を回すと、片方だけが早く止まった。
「こっちが固い」
「締めすぎだ」
老人が留め具を少し緩める。
航がもう一度押すと、さっきよりまっすぐ進んだ。
それでも、少しだけ右へ寄る。
「まだ曲がるよ」
「次に直す」
「今日やらないの?」
「どこが悪いかは分かった」
老人は道具を片づけ始めた。
航は、持ち手のついた車を横から見た。
まだ犬が乗る場所は固い板のままだった。
それでも、最初に板と車輪だけが置かれていたときより、ずっと車に近づいている。
ハルが鼻を近づけた。
「まだ乗っちゃだめだよ」
航が言うと、ハルはその場に座った。
航は鞄から課題用紙を取り出した。
「おじいさん」
「なんだ」
「この車、誰に渡すの?」
老人は紙を見た。
《将来、誰に何を渡したいですか》
その下に、
《犬の車を作る》
と書かれている。
「必要な犬が使えばいい」
「どの犬?」
「まだ決めてない」
「決めてないのに作るの?」
老人は、作りかけの車へ目を向けた。
「決めてなくても作れる」
「学校では、誰に何を渡すか書くんだよ」
「なら、分からんと書けばいい」
「それじゃ宿題にならないよ」
老人は持ち手を軽く押した。
車体が少し右へ曲がりながら進む。
「まず、車にする」
「できたあとに考えるの?」
「考えたければな」
「考えなかったら?」
老人は車を止めた。
「車が一台できる」
航は、作りかけの車を見た。
誰に渡すかは決まっていない。
将来も作るかは分からない。
それでも、次に来れば、右へ曲がるところを直せる。
「ぼくも、車になるところを見たい」
「なら、次も来い」
老人と一緒に車をベンチの後ろへ運ぶ。
持ち手が増えた分、前より運びにくかった。
ハルは、その横を何度も振り返りながら歩いた。
課題用紙には、《犬の車を作る》と書かれたままだった。
けれど航が次も来たいと思ったのは、誰かへ渡す物を作るためではなかった。
右へ曲がる車が、まっすぐ進むところを見たかった。




