第一話 新しい街 (三)
三 話したい日
車が走り出した。
窓の外を、搬送機と自動運転車が行き交っている。
航は最初こそ窓へ顔を寄せていたが、すぐにハルの敷物を踏まないよう、足の置き場を変えることに夢中になった。
道路も車も、以前の国と大きくは変わらない。
店の前では荷物が自動で積み下ろされ、歩道の清掃機が人を避けながら進んでいた。
やがて航が、通りの一角を指した。
「人がいる」
器を並べた店に、女性が一人立っていた。
客が器を手に取り、女性へ何か尋ねている。奥では包装機が動いていたが、二人はしばらく話を続けていた。
直人もそちらを見た。
「対面で売っているんですか」
「毎日ではありません。あの人は、器を作った人でもあります。店に出たい日だけ、あそこに立っています」
「出ない日は?」
「注文されたものを送っています」
航は少し考えた。
「じゃあ、今日は話したい日なんだ」
「そうかもしれませんね」
客が器を一つ持ち上げると、作り手の女性も同じ器へ手を添えた。
車はそのまま店の前を通り過ぎた。
店を過ぎると、車は少し速度を落とした。
道沿いの長い壁を、数人が刷毛で塗っている。
脇には塗装機が置かれていた。故障している様子はなく、材料の容器だけを運んでいる。
年配の男が、若い人の手元を見て刷毛の角度を直した。少し離れたところでは、別の女性が色見本を壁へ当てている。
直人はそちらへ身体を向けた。
「機械は使わないんですか」
「下地は機械で済ませています。仕上げは、自分たちで塗りたいそうです」
「仕事として?」
「活動として参加している人も、近所から手伝いに来た人もいます」
「どこからが参加者で、どこからが手伝いなんです?」
「材料や安全を任されている人は、記録されています。今日だけ塗りに来た人は、名前を残さないこともあります」
若い人が塗った部分を、年配の男が指で示した。
すると、色見本を持っていた女性が何かを言った。男は刷毛を下ろし、二人で壁から離れた。
「責任者は、あの男性ですか」
「塗り方を教えているのは、あの方ですね」
「全体の責任者は?」
「安全を確認する人と、材料を管理する人は別にいます。色を決めた人も、また別です」
もう一度、壁の前を見る。
誰か一人が全員へ指示を出しているようには見えなかった。
航はすでに別のものを見つけていた。
「あの人、寝てる」
大きな木の下で、男が靴を脱いで横になっていた。
片腕を枕にし、顔には薄い布をかけている。足元には飲み物の容器が一つ置かれていた。
直人は少し身を乗り出した。
「具合が悪いんでしょうか」
「支援を求める通知は出ていません」
「反応がなかったら?」
「危険があれば、近くの支援AIが声をかけます」
「では、ただ寝ている?」
「そうみたいですね」
男を見たまま、直人は言った。
「夜の活動をしている人かもしれませんね」
「そうかもしれません」
女性はそれ以上付け加えなかった。
「気持ちよさそう」
航が言った。
男は寝返りを打ち、顔にかけていた布を少し直した。
美紀が窓の外を見たまま尋ねた。
「誰かに、そろそろ起きたほうがいいと言われないんですか」
「起こしてほしい時刻を決めていれば、声がかかります」
「決めていなければ?」
「起きたくなったときに起きます」
美紀は少し黙った。
「何をしている人か、聞かれたりは?」
「本人が話したければ」
「話したくなければ?」
「眠っている人を起こしてまで、聞くことではありませんから」
車は木の横を通り過ぎた。
直人は振り返った。
男はもう、枝の陰に隠れて見えなくなっていた。
美紀は前を向いたまま、自分の膝へ両手を重ねていた。
車は住宅区画の入口で止まった。
直人が先に降り、美紀へ手を差し出す。
美紀はその手を借りて立ち上がったが、車を離れると自分で歩き始めた。
航とハルが続く。
「この車、待ってるの?」
航が振り返った。
「待ちません。必要になったら、別の車が来ます」
扉が閉まり、車はそのまま走り去った。
住宅区画には、形の違う家が並んでいた。
庭に花を植えた家もあれば、土のままの庭もある。開け放した作業場で木を削っている人の横を、清掃機がゆっくり避けて通った。
美紀が一度足を止めると、直人も黙って歩調を落とした。
「大丈夫?」
「うん。家を見てただけ」
再び歩き始めた美紀が、家々を見渡す。
「私たちの家は、ここから近いんですか」
「もう少し先です。移住前に選ばれた三軒のうち、庭と一階の寝室がある家ですね」
美紀が隣を見た。
「これ、あなたが選んでくれた家よね」
「一階で寝られるほうがいいと思って」
「うん。ありがとう」
返事の代わりに、直人は少し先の家並みへ目を向けた。
「この家は、売ることはできないんですよね」
「はい」
「空いている部屋を、ほかの人に貸すことは?」
「できません。住居を使う権利を、ほかの人へ貸して通貨を受け取ることは認められていません」
「誰かを泊めるのは構わない?」
「もちろんです。一緒に暮らすことになれば、同居する方として登録します」
「どれくらい住み続けられますか」
「皆さんが暮らしている間は、皆さんの家です。こちらの都合で、急に別の人へ渡すことはありません」
「住まなくなれば返す」
「はい」
家々の玄関先には椅子が置かれ、窓辺には飾りが並んでいた。庭の木には、子ども用の遊具が結びつけられている。
そのとき、ハルが道の脇へ入り込んだ。
航がリードを引いたが、犬は一本の大きな木の根元から動こうとしない。
幹のそばに、小さな札が立っていた。
名前と、生まれた年、亡くなった年。それ以外には何もない。
女性が足を止めた。
「お知り合いですか」
美紀が尋ねた。
「私を育ててくれた人です。母ではなく、近所に住んでいた人ですが」
直人は木を見上げた。
「何をされた方なんですか」
「特別な役目があったわけではありません。子どもを預かったり、具合の悪い人に食事を届けたりしていました」
「活動として?」
「いいえ。本人は、登録するほどのことではないと言っていました」
「記録を残そうとはしなかったんですか」
「周りの人が何度か勧めました。でも、自分の名前を付けて残すようなことではない、と」
女性は札へ目を落とした。
「そういうところは、最後まで変わりませんでした」
直人も根元を見た。
土は整えられ、幹の周りには水を通すための浅い溝が掘られている。
「それでも、これだけの木が残っている。ずいぶん慕われていたんですね」
「亡くなったあと、近所の人たちで植えました」
航が幹を見上げた。
「この人が植えたんじゃないの?」
「ええ」
「じゃあ、みんなが植えたかったから?」
「ええ。私も植えました」
女性は幹へ手を触れた。
「近くを通ったときは、ときどき水をやります。ほかの人も勝手にやっているので、重なることもありますけど」
航は根元の土を見た。
「水、多すぎない?」
「今のところは大丈夫みたいです」
ハルが木の周りを半分だけ回り、ようやく道へ戻った。
女性も幹から手を離した。
直人は、名前だけが刻まれた札から、枝の広がった木へ目を移した。
航はもう一度札を見てから、ハルと一緒に家族の先へ走っていった。
木を離れてすぐ、白い壁の家が見えた。
二階建てだったが、隣の家より少し低い。玄関の横に細長い窓があり、道路から奥まったところに小さな庭がある。
「ここです」
航が駆け出した。
「待て。まだ入れるか分からないだろう」




