第一話 新しい街 (二)
二 待つための部屋
直人が横から顔をのぞき込む。
「気になることがあるなら、今聞いておこう」
「今は、大丈夫」
妻はそう答えたが、荷物台へ手をついたまま、すぐには身体を起こさなかった。
直人は表示を閉じた。
「美紀、座ったほうがいい」
「少し立ちくらみがしただけ」
「いつから?」
美紀は答える前に、一度深く息を吸った。
航がハルのリードを握ったまま近づいてくる。
「お母さん、顔が白いよ」
「大丈夫よ」
「今は、って言ってた」
美紀は航を見て、困ったように笑った。
ハルは美紀の膝へ鼻を寄せ、心配そうに顔を見上げた。
《呼吸と姿勢に変化があります。休める場所を用意してもよいですか》
美紀は周囲を見た。
到着室には、ほかに待っている人はいない。
「お願いします」
壁際の座面が少し広がり、背もたれの角度が変わった。
直人は美紀の腕を取り、ゆっくり座らせた。
「めまいは?」
「少し。吐き気はない」
「胸は?」
「苦しくない」
航が美紀の手を握った。
「ここ?」
胸の辺りを指している。
「そこは痛くないよ」
美紀は航の手を握り返した。
《森川美紀さん、医療記録を参照してもよいですか》
「今の症状に必要なものだけなら」
《現在の診療記録と服薬情報を参照します》
美紀の前に水が届いた。
《緊急性を示す変化は確認されません。水分を取り、十五分ほど休むことを勧めます》
直人はすぐに聞き返した。
「緊急性がないというのは、移動しても問題ないという意味ですか」
《現時点で緊急搬送を要する兆候がないという意味です》
「医療担当者とは今すぐ話せますか」
《接続できます》
美紀を見る。
「呼ぼう」
「まず少し休む。治らなかったらお願いする」
「本当に?」
「うん。今はそれでいい」
直人はそれ以上言わず、水の蓋を開けて美紀へ渡した。
美紀は一口飲み、女性へ尋ねた。
「今の医療記録は、夫の面談先にも見えるんでしょうか」
「見えません。ご本人と医療担当だけです」
美紀は容器を両手で持った。
「まだ来たばかりで、何もしていないのに」
女性は美紀の前へしゃがみ、視線の高さを合わせた。
「何かをしてから使うものではありません」
美紀はしばらく答えなかった。
「ここで休みますか。それとも、医療室へ移りますか」
「ここで休みます」
「分かりました。必要になったら、すぐ呼べます」
美紀は小さく頭を下げた。
「すみません」
「この部屋は、待つためにも使えますから」
航が母親の肩へ寄りかかった。
「お母さん、何も悪いことしてないよ」
美紀は息子の頭を撫でた。
直人は美紀の隣に腰を下ろし、手を取った。
女性の手元には、先ほどの面談案内がまだ残っていた。
「一件は、今から接続できるんですよね」
「はい。ただ、明日以降へ変更しても条件は変わりません」
「では、明日にしてください」
美紀が顔を上げた。
「行ってきていいよ。ここにいるだけだから」
「話は明日でもできる」
「でも――」
「今日は、みんなで家に行く」
航が直人を見る。
「お父さんも待つ?」
「ああ」
航はうなずき、美紀の反対側へ座った。
ハルは三人の靴の間に身体を押し込み、ようやく伏せた。
十五分ほどすると、美紀は自分で立ち上がった。
直人が腕を差し出したが、美紀は一度だけ首を振り、座面からゆっくり身体を起こした。
「歩けそう?」
「少しなら」
「無理なら車で家の前まで行こう」
「住宅区画の入口までは車で。そこから歩きたい」
先ほどより血の気は戻っていた。
受付AIが、確定を待っていた表示をもう一度開いた。
《家族情報は、この内容で確定しますか》
美紀は直人と航を見てから、表示へ目を戻した。
「お願いします」
《生活登録を確定しました》
「途中でつらくなったら、すぐ言ってくれ」
「分かってる」
女性が移動方法を確認すると、到着室の外へ一台の車が寄ってきた。
航が先に扉へ向かう。
「誰も乗ってない」
「航、勝手に入るな」
「もう開いてるよ」
扉は家族が近づく前から開いていた。
車内に運転席はない。向かい合わせの座席と、荷物を固定する場所があるだけだった。
直人は内部を見た。
「途中でほかの人も乗りますか」
「いいえ。住宅区画まで直接行きます」
美紀が足を止めた。
「個別利用だと、移動枠はどれくらい減りますか」
女性は美紀を見た。
「以前の国では、一台で使うと利用回数が減りましたか」
「普段は乗合でした。病院のときだけ個別にしていて」
「こちらでは、日常の移動で利用回数は減りません」
航がハルを見下ろした。
「ハルの分も?」
「犬も数えるのか?」
「だって、一緒に乗るよ」
女性の口元が少し緩んだ。
「ハルの分も含めて、回数を気にしなくて大丈夫です」
「今日だけではなく?」
美紀が念を押した。
「明日からも、必要なときに呼んでください」
美紀は少し間を置いてから、車へ乗り込んだ。
座席が背中に合わせて形を変える。ハルの足元には、滑りにくい敷物が現れた。
航はハルをその上へ座らせようとした。ハルは一度座ったものの、すぐに立ち上がって窓へ鼻をつけた。
直人は最後に乗り込み、壁面へ目を向けた。
経路と到着時刻は表示されている。
料金も、残りの利用回数も見当たらない。
直人は料金や利用回数の表示がないことを、もう一度確かめた。
女性がその視線を追った。
「最初は皆さん、料金を探します」
美紀が笑った。
「私たちだけではないんですね」
「ええ。私がそちらへ行ったら、確認せずに一台呼んでしまいそうです」
「あとで驚くことになりますよ」
「気をつけます」




