第五話 父の最初の仕事 (一)
一 仕事へ行く朝
直人は玄関へ鞄を置いたあと、もう一度、中を開けた。
端末。紙の手帳。細い筆記具が二本。
どれも、さっき確かめたときと同じ場所に入っている。
「何かないの?」
食卓から航が聞いた。
「あるよ」
「じゃあ、なんでまた見てるの?」
直人は鞄を閉じた。
「確認しただけだ」
面談や短い確認活動を経て、設備接続班へ参加する最初の朝だった。
端末には、今日の記録についての注意が出ていた。
《本日の活動記録は、設備反映前に外部確認の対象となります》
直人は、前の国で仕事へ行くときに着ていた濃い色の上着を選んでいた。鞄も、以前使っていたものだった。角が擦れ、持ち手の裏側だけ色が薄くなっている。
航はパンをかじりながら、その上着を見た。
「この前もそれ着てた」
「面談の日だろう」
「今日もお話するの?」
「今日は機械を見る」
「大きいやつ?」
「荷物を上と下へ運ぶ機械だ」
「人は?」
「乗らない」
「ハルは?」
「乗らないよ」
足元で、ハルが直人の鞄を嗅いでいた。鼻を側面へ押しつけ、持ち手のあたりまでたどっていく。
「ハル、それ食べられないよ」
航が椅子を降り、ハルの隣へしゃがんだ。
「何の匂い?」
しばらくハルの顔を見たあと、航が言った。
「前のおうちだって」
「航が言っているだけでしょう」
台所にいた美紀が笑った。
「ハルが言ったよ」
「古い鞄だから、匂いが残っているんだろう」
直人が持ち上げると、ハルの鼻も一緒についてきた。
「今日の匂いもつく?」
「さあな」
「帰ってきたら聞いてみる」
美紀が直人の前へカップを置いた。
「まだ時間あるでしょう」
「あと二十分だ」
「二十分もあるね」
「初日から遅れるわけにはいかない」
「車が迎えに来るんだから、早く出ても同じだよ」
直人は答えず、カップへ手を伸ばした。
航がパンを飲み込み、尋ねた。
「お昼、何食べるの?」
「向こうで選ぶ」
「カレー?」
「あるか分からない」
「じゃあ魚」
「どうして魚なんだ」
「昨日、お肉だったから」
「昨日の昼は違っただろう」
「夜に食べた」
航は納得しない顔をした。
「今日は魚がいいよ」
「魚があればな」
「帰ってきたら教えて」
「覚えていたら」
「忘れないでね」
玄関の表示が、迎えの車の到着まで五分になったことを知らせた。
直人はカップを置き、立ち上がった。
「もう行くの?」
「玄関で待つ」
「五分も?」
航もあとをついてくる。
「お父さん、機械直せる?」
「まだ壊れているかも分からない」
「止まるんでしょう?」
「ときどきな」
「じゃあ壊れてるよ」
「止まるから壊れているとは限らないんだ」
航は首を傾げた。
「じゃあ、なんで止まるの?」
直人は靴へ足を入れた。
「それを見に行く」
「分かったら直す?」
「たぶんな」
航は少し考えてから言った。
「分かるといいね」
直人は靴を履く手を止め、航を見た。
「ああ」
美紀が玄関まで来て、直人の肩についた糸くずを取った。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
外へ出ると、迎えの車はまだ来ていなかった。
直人は門の前に立った。航は玄関の段差へ座り、ハルを隣へ呼んだ。
「やっぱり待ってるだけだよ」
「すぐ来る」
間もなく、小さな車が角を曲がってきた。
《森川直人さん。都市設備記録棟までお送りします》
直人が乗り込むと、航が立ち上がった。
「魚、忘れないでね」
「ああ」
車が動き出す。
窓の向こうで、航と美紀が手を振っていた。
直人も手を上げた。
家が見えなくなると、鞄から端末を取り出した。
《設備接続班 参加初日》
《当面の担当候補 旧式設備と活動記録系の接続確認》
その下に、今日使える記録と、試験用の権限が並んでいる。
表示は朝から変わっていなかった。
直人は一番下まで読み、もう一度、最初へ戻った。




