第8話 山の子、屋敷に負ける
屋敷の夜は、山の夜とまるで違っていた。
山なら、日が沈めば風の音が大きくなる。木の葉が擦れ、獣が遠くで鳴き、火を絶やさないよう薪を足す音だけが洞穴の前に残る。
けれどヴァルクハイン家の屋敷には、夜になっても人の気配があった。廊下の向こうで使用人が歩き、遠くの部屋で扉が閉まり、燭台の火が壁に揺れている。
レクスはまだ、屋敷を信用していなかった。
広くて、綺麗で、牢屋よりも明るい。石の床も冷たすぎない。けれど扉の外には兵士がいて、勝手に外へ出れば止められる。山へ帰れるわけでもない。王都へ走れるわけでもない。
その空気を破るように、ユリウスは両手を叩いた。
「よし! 明日は山外縁部の調査だ。今日は食べて、身体を洗って、ちゃんと寝る。まずは風呂だな!」
レクスは眉を寄せた。
「川に行くのか? 夜の川は危ないぞ。足元が見えないし、音も拾いにくい。父ちゃんも、夜に水場へ行くなら先に風を読めって言ってた」
「違う! いきなり山の危険判断に戻るな! 風呂は屋敷の中にある!」
「中に川があるのか?」
「ない! 川はない! 湯がある!」
「湯?」
レクスが本気で首を傾げると、ユリウスは額を押さえた。
「そこから説明するのか……! よし、分かった。今日は俺が屋敷の普通を教える。たぶん、俺の喉が先にやられる!」
「喉が死ぬなら、ノエルに治してもらえ」
「その使い方は絶対に怒られるやつだ!」
ユリウスはそう言いながら、レクスを廊下の奥へ連れていった。
案内された浴場は、レクスが知っている水場とは違っていた。石造りの床。壁に並んだ桶。白い布。見慣れない香りのする小さな塊。そして、奥には大きな浴槽があり、そこから白い湯気が立ち上っている。
レクスは足を止めた。
湯気で奥が見えない。床は濡れている。足を滑らせたら踏み込みが遅れる。逃げ道は扉ひとつで、窓は小さい。水場にしては、視界が悪すぎる。
「……湯気で奥が見えにくい。床も濡れてる。足を滑らせたら、避けるのが遅れる」
「風呂で何を避けるつもりだ! ここは魔物が出る場所じゃない!」
「山なら、水場には来るぞ。喉が渇いた魔物は音を消して近づく。湯気があるなら、なおさら危ない」
「いや待て! それは山の話だ! ここは屋敷! 魔物はいない! いたら俺も困る!」
「なら、なんで視界を悪くしてるんだ?」
「湯気は勝手に出るんだよ! 敵の作戦じゃない!」
ユリウスが全力で言うので、レクスはようやく少しだけ警戒を緩めた。
それでも、いきなり入る気にはなれなかった。湯気の奥にある水面を見下ろし、まず足先だけを入れる。次の瞬間、レクスは目を見開いた。
「熱い!」
「熱すぎるか!? だったら水を足して――」
「違う! 冷たくない!!」
「そっちか!!」
レクスは恐る恐る、もう片方の足も湯へ入れた。
川とは違った。沢とも違った。山の水は、身体に触れた瞬間に力を奪ってくる。冷たくて、痛くて、洗う時も息を止めるように耐えるものだった。だが、この湯は違う。足先からじんわりと熱が上がり、固まっていた筋肉がほどけていく。
レクスはゆっくり肩まで沈んだ。
そして、叫んだ。
「お湯すげー!!」
「声がでかい!!」
「な、なんだこれ!! 身体が勝手に休もうとしてる!! 川と違う! 痛くない! 寒くない! なんかすげー気持ちいい!!」
「気持ちは分かる! 分かるけど、初めての風呂でそこまで感動するやつは初めて見た!」
レクスは湯の中で自分の腕を見た。傷跡も、土の汚れも、湯に包まれている。身体の芯まで温かい。山で火のそばにいるのとは違う。外からではなく、内側まで温まる感じがした。
「これ、父ちゃんにも入れたい! 絶対ガハハって笑う! いや、最初は“湯に負けるか”って言うかもしれない!」
「湯に勝ち負けを持ち込むな! しかもガレンなら言いそうなのが困る!」
その時、脱衣場側の扉の向こうから冷静な声がした。
「長く入りすぎるとのぼせます。明日調査に出る前に倒れた場合、私は治療より先に説教します」
ノエルだった。
レクスは驚いて扉の方を見る。
「湯で倒れるのか!?」
「倒れます。気持ちいいものでも、限度を超えれば身体に負担です」
「湯、強いな……」
「風呂を強敵扱いするな!!」
ユリウスの声が浴場に響いた。
風呂から出たレクスは、少し頬が赤くなっていた。髪も濡れている。身体は軽い。まだ屋敷を信用したわけではないのに、足取りだけはさっきより柔らかくなっていた。
そのまま食堂へ案内されると、レクスは入り口で固まった。
匂いが多い。
肉を焼いた匂い。何かを煮込んだ匂い。甘い匂い。草に似ているが、山の野草とは違う匂い。香ばしい匂い。油の匂い。それらが混ざっているのに、ただぐちゃぐちゃではない。ひとつずつ、違う皿から立ち上ってくる。
「……匂いが多い」
「今度は料理だ。明日は調査だから、ちゃんと食べるぞ」
「肉の匂いだけじゃない。草の匂い、甘い匂い、焼いた匂い、煮た匂い……なんで全部別々に来るんだ」
「料理だからです」
席についていたノエルが淡々と言った。
レクスは真剣に聞いた。
「料理って、そんなに匂いを増やすものなのか?」
「レクスの中で料理が謎の技術扱いになってるな!」
「間違いではありません。技術です」
「ノエルが乗った!?」
食卓には、皿が並んでいた。
スープ。焼いた肉。柔らかそうなパン。色の違う野菜。茶色いソース。見ただけでは何なのか分からないものもある。レクスは椅子に座り、目の前の皿をじっと見た。
「これは全部、食っていいのか?」
「お前の分だ。ちゃんと全部食べていい」
「全部?」
「全部」
レクスの目が輝いた。
そこへ、ノエルが冷静に口を挟む。
「念のため言いますが、皿と器は食べ物ではありません。ここでは食器を食べる必要はありません」
「皿は食わない。そこまで困ってない」
「そこまでって言った! 困ったら食べる候補には入るのか!?」
「木の皮より硬そうだから、最後だな」
「候補には入ってる!!」
「食器を食べた場合、治療ではなく説教です。胃を傷つける以前の問題です」
「食わないって言ってるだろ!」
「信用したいけど、今の会話だと不安しかない!」
ユリウスが叫ぶ横で、レクスはまずスープを飲んだ。
一口。
そのまま止まる。
匙を持った手が空中で固まり、目だけが少しずつ見開かれていく。ユリウスが不安そうに身を乗り出した。
「レクス? 口に合わなかったか?」
「……肉が入ってないのに、美味い」
「最初の感想がそこか!」
「なんでだ。塩だけじゃない。草でもない。口の中で匂いが広がる。飲んだのに、まだ味が残ってる。
これ、何をした?」
「野菜と香草と出汁です」
「出汁?」
「そこから説明か! いや、山で暮らしてたならそうなるのか!? でも出汁の説明から始める食事会、初めてだぞ!」
レクスはもう一口スープを飲み、深く頷いた。
「料理ってすごいな……」
「その結論は正しいです」
ノエルが言った。
その声が、ほんの少しだけ柔らかかった。
レクスは次に肉を切った。
山で食べていた肉とは違う。焼かれているのに、表面だけが焦げすぎていない。香りがついている。横には茶色いソースがあり、肉汁と混ざって光っていた。
レクスは一口食べた。
噛んだ。
固まった。
そして、椅子から立ち上がりかけた。
「な、なんだ!!? これ!!!」
「急に立つな!」
「肉なのに、肉だけじゃない!! 塩じゃない味がする!! 外は焼けてるのに、中が固くない! 噛んだら汁が出る!! でも血じゃない!! なんだこれ、魔法か!?」
「料理だ! 魔法じゃない! いや、料理人にとっては最高の褒め言葉かもしれないけど!」
「急に立ち上がらないでください。食事中に椅子を倒して怪我をした場合、私は治療より先に理由を聞きます」
「理由はこれが美味いからだ!!」
「理由が真っ直ぐすぎる!!」
レクスはすぐに二口目を食べた。
「待て、もう一回確かめる! 今のは何かの間違いかもしれない!」
「美味いものを疑うな!」
「飲み込んでから次を口に入れてください。感動で窒息するのは本末転倒です」
「感動で死ぬのか!?」
「今の勢いなら少し心配だよ!」
そこから、食卓はしばらく騒がしくなった。
レクスがソースを指す。
「この茶色いやつは何だ!」
「ソースだ!」
「飲むのか?」
「飲むな! かけるんだ!」
「パンにつけてもいいです。直接飲むよりは胃に優しいので」
ノエルの言葉を聞いて、レクスはパンをちぎり、ソースにつけた。
口に入れる。
また目が輝く。
「パン、すごいな。肉の味を拾える」
「パンへの感想が独特すぎる!」
次に野菜を食べる。
「この草、苦くないぞ!」
「草ではなく野菜です」
「山の草より柔らかい」
「比較対象が野草なんだよな!」
「食べられる野草を選べるのは知識として有用です。ただ、屋敷の食事で毎回“草”と呼ぶと料理人が泣きます」
「じゃあ、柔らかい草」
「惜しいけど違う! 野菜って言え!」
そこで、食堂の端にいた使用人が小さく笑った。
レクスはぱっと顔を上げる。
使用人はすぐに口元を押さえ、目を伏せた。昼間、廊下で半歩下がった者とは別の使用人だった。けれど、レクスを見る目に恐怖はなかった。
ただ、少し困ったように笑っていた。
レクスはしばらくその顔を見て、首を傾げた。
「今、怖くて笑ったのか?」
使用人は驚いて顔を上げる。
「い、いえ。申し訳ありません。楽しそうでしたので、つい」
「楽しそう?」
「はい。あまりにも美味しそうに召し上がるので」
レクスは自分の皿を見て、それから使用人を見た。
「美味いからな」
使用人は今度こそ、少しだけ笑った。
「料理人に伝えておきます」
レクスは目を輝かせた。
「作ったやつ、すごいな! 肉をこうしたのか! 父ちゃんにも食わせたいって言っておいてくれ!」
「は、はい」
使用人は少し戸惑いながらも、さっきより柔らかい表情で頭を下げた。
ユリウスが小さく笑う。
「よかったな、レクス。今のは怖がられてなかったぞ」
レクスは口元を少しだけ動かした。
「……そうか」
それだけだった。
使用人は皿を下げる時、もう半歩も下がらなかった。
使用人が空いた皿を下げようとした時、レクスは真剣な顔で手を伸ばした。
「待て。まだ残ってる」
皿には、ソースが少し残っていた。
使用人は戸惑ったように言う。
「ですが、ソースだけですので……」
「残ってるなら食えるだろ。捨てるのか?」
ユリウスは笑いかけて、レクスの顔を見て止まった。
レクスは本気だった。
「山じゃ、食い物を粗末にするやつから死ぬ。父ちゃんが言ってた。食えるものを捨てるのは、命を捨てるのと同じだ」
食堂の空気が、少しだけ変わった。
ノエルは静かにレクスを見たあと、皿の横にパンを置いた。
「食べ物を粗末にしないのは正しいです。ただし、体調を崩すほど食べるのは違います。あなたは今、かなり危ない速度で食べています」
「分かった。残さない。でも倒れない量にする」
「その判断力、最初から使ってくれ!」
ユリウスが疲れたように言った。
その時、ノエルの手が、別の皿へ伸びた。
小さな焼き菓子が乗った皿だった。薄く焼かれた生地に、ほんの少し蜜が塗られている。ノエルはそれを一枚だけ取って、何事もない顔で口元へ運んだ。
そして、ほんの少しだけ鼻歌が漏れた。
「……ん」
短い音だった。
けれど、確かに鼻歌だった。
ユリウスがぴたりと固まった。
レクスも匙を止める。
ノエルは二人の視線に気づき、目を瞬かせた。
「何ですか」
ユリウスが震える指で焼き菓子を指した。
「ノエル……今、鼻歌……」
「していません」
「した! 絶対した! 俺、今聞いた! レクスも聞いたよな!?」
「聞いた。今のは、山の小さい獣が安心した時の声に似てた」
「レクス、例え方!!」
ノエルの頬が、少しずつ赤くなった。
「……これは、昔食べていた菓子に似ていただけです。体調管理上、糖分の補給は必要です。懐かしさによる反応であって、鼻歌ではありません」
「説明が長い! それは動揺してるやつだ!」
「動揺していません」
ノエルは表情を戻そうとしている。だが、耳まで赤い。
レクスは焼き菓子をひとつ取って、じっと見た。
「これ、美味いのか?」
「普通です」
「でもノエル、歌いそうになってたぞ」
「歌っていません」
「じゃあ、美味いんだな」
「普通です」
レクスは口に入れた。
甘い。
山で食べた木の実とも違う。蜜だけでもない。噛むとぱりっと割れて、あとから香ばしさがくる。
レクスの目がまた輝いた。
「普通じゃないぞ!!」
「声が大きいです」
「甘い! でもべたべたしない! 薄いのに味がある! ノエルが赤くなる理由、分かった!」
「分からなくていいです!」
ノエルが珍しく声を強くした。
ユリウスは腹を抱えて笑いそうになり、必死にこらえている。
「ノエル、顔が赤いぞ」
「湯気のせいです」
「ここ食堂だぞ」
「では、照明のせいです」
「無理がある!」
ノエルは記録板を持っていないのに、何かを書くような手つきをした。
「ユリウス。明日の調査で、あなたの転倒回数を正確に記録します」
「私情が入ってる!!」
「正確な記録です」
「今のは絶対に私情だ!」
レクスは焼き菓子をもう一枚見つめた。
「父ちゃんにも、これ食わせたい」
その言葉で、少しだけ笑いの音が静かになった。
レクスは空になった皿を見る。スープも飲んだ。肉も食べた。パンも、野菜も、ソースも残していない。腹は満たされている。身体も温かい。さっきまであれだけ騒いでいたのに、胸の奥が少し痛んだ。
「父ちゃん、絶対驚く。いや、驚かないふりをするかもしれない。でも全部食う。ガハハって笑って、肉の焼き方に文句言って、それからもう一皿食う」
ユリウスは少しだけ目を細めた。
「それ、すごくガレンっぽいな。俺は話でしか知らないけど、今のレクスの顔を見たら、なんか分かる気がする」
ノエルは焼き菓子の皿をそっとレクスの方へ押した。
「これは食べすぎると胃に負担です。ですが、ひとつだけなら包めます。明日、気分が落ちた時に食べる用です」
レクスはノエルを見た。
「くれるのか?」
「調査中の糖分補給です」
「父ちゃんに残しておいてもいいか?」
「保存状態が悪ければ味が落ちます。いつ会えるか分からない相手に残すには向きません」
レクスの指が止まった。
ノエルの言葉は冷静だった。慰めではない。けれど、嘘でもなかった。
ユリウスが慌てて口を開きかけたが、ノエルはその前に続けた。
「だから、今はあなたが食べてください。あなたが倒れず進むために。いつかガレンに食べさせる時は、焼きたてを用意すればいい」
レクスはしばらく黙った。
それから、小さく頷いた。
「……じゃあ、今は俺が食う。父ちゃんには、もっといいやつを食わせる」
「その判断は正しいです」
ノエルはそう言った。
声はいつも通り冷静だったが、さっきより少しだけ優しかった。
そのあと、ユリウスはレクスを部屋へ案内した。
「ここがお前の部屋だ。今日はここで寝ろ。明日は早いから、ちゃんと休むんだぞ」
部屋には、大きな寝台があった。
白い布。柔らかそうな掛け布。枕。洞穴の床に敷いていた毛皮とは、何もかも違う。レクスは警戒するように近づいた。
「床じゃないのか?」
「床で寝るな! ベッドがあるだろ!」
「これが寝床か?」
「そうだ」
レクスは手で押した。
沈んだ。
「沈んだ!」
「沈むよ! 柔らかいから!」
恐る恐る座る。
身体がふわりと沈んだ。
レクスの目が見開かれる。
「なんだ!!! これ!! 柔らかい!! 気持ちいい!!」
「声がでかい!」
「身体が沈む!! でも痛くない!! これ、起き上がれなくならないのか!?」
「寝床に負ける心配をするな! ベッドは敵じゃない!」
レクスはそのまま背中から倒れ込んだ。
ふわりと受け止められる。
硬い木の床でも、薄い毛皮でもない。身体の重さを、寝床の方が勝手に受けてくる。意味が分からない。気持ちいい。だが、気持ちよすぎる。
「気持ちよすぎる。これは罠だろ。寝たら動きたくなくなる」
「それは正しいけど罠じゃない!」
「ベッド、強いな……」
「風呂の次はベッドを強敵扱いか!!」
その時、扉が軽く叩かれた。
ノエルが入ってきて、ベッドに半分沈んだレクスを見た。ほんの一瞬だけ、言葉が遅れる。
「……寝具に敗北しているところですか」
「敗北してない。まだ起き上がれる」
「その返事がすでに怪しいです」
ユリウスが笑いをこらえながら言う。
「ノエル、レクスがベッドを罠だって言うんだ」
「完全に間違いではありません。寝心地が良すぎると起床が困難になることはあります」
「そこは乗るのか!?」
ノエルはレクスの顔色を見た。
「明日は調査です。寝具に感動して夜更かししないでください。眠れなくても、横になって目を閉じるだけで身体は休まります」
「ベッドが柔らかすぎて落ち着かない。山の寝床はもっと硬かった」
「硬い寝床に慣れている人が柔らかい寝具で眠れないことはあります。ですが、身体の回復を考えれば、今夜は横になるべきです」
「ノエル、寝床の説明まで治療みたいだな」
「睡眠は治療の一部です」
レクスは横になったまま、ノエルを見た。
「お前も寝ろよ。顔色、まだ少し悪い」
ノエルが一瞬止まった。
「……私は自分で管理します」
ユリウスがにやっとする。
「お、レクスがまたノエルを心配した」
「実況は不要です」
「実況って何だ?」
「明日教える!」
「教えなくていいです」
ノエルがすぐに切ると、ユリウスは肩をすくめた。
そのやり取りを見て、レクスは少しだけ口元を緩めた。ノエルはそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。ただ、扉の前で立ち止まり、静かに告げた。
「明日、無理に突っ込まないでください。あなたが倒れると、調査も治療も困ります」
「面倒じゃなくなった」
ノエルはわずかに目を瞬かせた。
「……何がですか」
「さっきまで面倒って言ってた。今は困るって言った」
ノエルは少しだけ口を閉じた。
ユリウスが目を丸くする。
「レクス、そういうところは妙に鋭いな」
「妙にって何だ」
ノエルは視線を少し横へ逃がし、治療鞄の紐を握った。
「言葉を選び直しただけです」
「じゃあ、俺も倒れないようにする。ノエルが困るなら」
ノエルの指先が止まった。
その表情は大きく変わらない。けれど、目元が少しだけ揺れた。
「……そういう理由で動けるなら、最初からそうしてください」
「最初は知らなかったからな」
「今は知ったということですね」
「ああ。ノエルが困る」
ユリウスが小さく笑った。
「よかったな、ノエル。説教が少し効いたぞ」
「説教ではありません。事前説明です」
「はいはい、事前説明」
「雑にまとめないでください」
ノエルはそれだけ言って、扉へ向かった。
ユリウスも扉の前で手を振る。
「ちゃんと寝ろよ、レクス。ベッドに勝とうとするなよ」
「負けてない」
「はいはい。友達候補として、今日はそういうことにしておく」
扉が閉まる。
部屋が静かになった。
レクスは柔らかすぎる寝床の中で、しばらく天井を見ていた。洞穴の天井とは違う。岩肌も、煙の匂いも、ガレンのいびきもない。
屋敷はまだ信用できない。
グラントも、ユリウスも、ノエルも、全部を信じられるわけではない。父ちゃんは王都に連れていかれた。自分は自由ではない。明日も監視されながら山へ行く。
それでも、今日覚えたことはあった。
湯はすごい。
料理はすごい。
ベッドは強い。
そして、怖がらずに笑う使用人がいた。
ガレンの話で目を輝かせる友達候補がいた。
困ると言葉を選び直す治癒魔法師がいた。
レクスは布団の中で拳を握った。
全部、父ちゃんにも教えたい。
湯のことも、料理のことも、ベッドのことも、ノエルが焼き菓子で赤くなったことも、ユリウスがずっと騒がしいことも。
きっと父ちゃんはガハハと笑う。
その顔を思い浮かべると、胸の奥が少し痛くなった。
レクスは目を閉じた。
明日は山へ戻る。
父ちゃんが追っていたものを、自分も追うために。




