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英雄の子レクス 〜化け物と呼ばれた山の子は名前を取り戻す〜  作者: むぎ
第1章 山から来た子

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第7話 治せる者

 屋敷の一室に、落ち着かない沈黙が落ちていた。


 レクスは椅子に座らず、窓に近い壁際へ立っている。背中を壁につければ、少なくとも後ろから誰かが近づいてくることはない。腰の剣はまだ返されていない。部屋の隅で兵士が持っているそれを、レクスは何度も目で確認していた。


 ユリウスはその横で、落ち着きなく足を動かしている。さっきまで「友達候補だ!」と胸を張っていたくせに、グラントが「ノエルを呼べ」と言った途端、さっきまでの勢いが少しだけ引っ込んだ。


「ノエルって、そんなに怖いのか?」


 レクスが聞くと、ユリウスは真剣な顔で頷いた。


「怖い。静かに怒る。俺が三つ喋ると、一言で全部斬られる」


「剣を使うのか?」


「言葉でだよ! むしろ剣より避けにくい! 剣なら見て避けられるけど、ノエルの言葉はこっちが避けたと思った場所に先に置いてあるんだ!」


 レクスは眉を寄せた。


「街はやっぱり魔物より面倒だな。怒るやつも、斬り方が見えない」


「そこに戻るのか……でも否定できないのがつらい!」


 ユリウスが頭を抱えた直後、扉の向こうで軽い足音が止まった。


 グラントは机の前に立ったまま、視線だけを扉へ向ける。ユリウスはぴたりと口を閉じた。閉じたが、遅かった。


「聞こえています」


 静かな声とともに、扉が開いた。


 入ってきた少女は、レクスたちとそう年の離れていないように見えた。淡い色の服に、飾り気の少ない外套。肩から治療鞄を下げ、片手には薄い記録板を持っている。髪はきちんと整えられ、表情はほとんど動かない。


 ただ、目元に薄い疲れがあった。


 山でなら、火の番を続けたあとや、怪我人を一晩見続けた時の目だ。奥に、眠っていない者の色が沈んでいる。レクスはそこに気づいて、少しだけ目を細めた。


 ユリウスは胸の前で手を上げた。


「まだ自己紹介もしてないのに、もう斬られた!」


「斬っていません。あなたが勝手に刺さっただけです」


「ほら! こういうところだぞ、レクス!」


「今のは、ユリウスが先に言ったからだろ」


「候補の友達がもう向こう側にいる!」


 ノエルはユリウスを無視して、レクスへ視線を向けた。


 顔ではない。目でもない。肩、腕、手首、呼吸、足の置き方。レクスの全身を上から下まで静かに確認する。獲物を見る目ではない。けれど、魔物に怪我をされた人間を見る時の、冷たい集中に似ていた。


「……なんだよ」


「状態を見ています。同行者が戦場で倒れそうかどうかは、先に知っておかないと困るので」


「倒れる前提で見るな」


「倒れる人ほど、そう言います」


 レクスはむっとした。


「俺はまだ倒れてない」


「まだ、という言い方をした時点で危険です」


「ノエル、初対面でそこまで言う!?」


 ユリウスが慌てて割り込んだが、ノエルの表情は変わらなかった。


 グラントが短く言う。


「ノエル・リーヴェルト。才能登録局さいのうとうろくきょくからヴァルクハイン領へ派遣されている治癒魔法師(ちゆまほうし)だ。今回、レクスに同行させる」


「才能登録局……」


 その言葉に、レクスの眉が一気に寄った。


 登録。


 兵士詰所の責任者が言っていた言葉。未登録だから王都へ送ると言われた言葉。自分を檻へ近づけた、嫌な響きの言葉だった。


「登録って、俺を王都に送るって言ってたやつと同じか?」


 ユリウスが「あ」と小さく声を漏らした。


 ノエルはユリウスを横目で見た。


「そこで止まるなら、最初から言葉を選んでください」


「いや、今のは父上が言ったんだけど!?」


「あなたが補足する顔をしていたので、先に注意しました」


「予測で注意するな!」


 レクスは二人のやり取りを遮るように、グラントを見た。


「同じ制度なのか」


 グラントは逃げずに頷いた。


「同じ制度だ」


 腹の奥が熱くなる。


「登録って何だよ! 名前を書くことじゃないのか!? 名前を書くだけなら、なんで王都へ送るとか、檻へ入るとかになるんだよ!」


 ユリウスが一歩前に出た。


 いつもの軽さはある。だが、今度は言葉を選んでいるのが分かった。彼は自分の服の裾を一度握ってから、レクスへ向き直った。


「名前だけじゃない。どんな力を持っているか、どこにいるかも記録する。強い力を持つ人間を、国が把握する仕組みだ」


「なんで国が俺の居場所を知るんだよ!」


「表向きは保護と管理だ。危険な力を持つ人間を放っておくと、本人も周りも危ないからって……そういう説明になる」


 レクスは目を細めた。


「表向き?」


 ユリウスの口が止まった。


「そこを拾うのか……いや、拾うよな。今のは俺が悪い。綺麗に聞こえる方から言った」


「綺麗に聞こえる方があるなら、汚い方もあるってことだろ」


 ユリウスは言葉に詰まった。


 ノエルが静かに続ける。


「登録されると、呼ばれた時に断りにくくなります」


「断ればいいだろ」


「断る理由が認められれば」


「認めるのは誰だよ」


「呼ぶ側です」


 レクスの眉が吊り上がった。


「それ、断れないってことじゃないか!」


 ユリウスが両手を上げる。


「完全に断れないわけじゃない! 事情があれば考慮される! 病気とか、怪我とか、領地の事情とか、いろいろある!」


「事情が“必要性”より重ければ、です」


「ノエル! 言い方! いや、間違ってないけど! 間違ってないから余計に困る!」


 ノエルは記録板を胸元で抱え直した。


「治せる者は、治す場所へ送られます。戦える者は、戦う場所へ送られます。必要な役割を持つ者が、必要な場所へ動かされる。それが才能登録制度さいのうとうろくせいどです」


 レクスは口を閉じた。


 役割。


 治せる者。戦える者。使える者。


 グラントが言った言葉と、同じ匂いがした。


「人じゃなくて、役目で見られるのか」


 ノエルの目が、ほんの少しだけ動いた。


「そういう時もあります」


 短い答えだった。


 短いのに、重かった。


 レクスは拳を握る。爪が掌に食い込む。


「じゃあ、父ちゃんはなんで王都に連れていかれたんだよ!! 父ちゃんも登録されてたのか!?」


 ユリウスが息を吸った。


 その顔から、いつもの勢いが少し消える。彼はガレンの話になると目を輝かせる。けれど今は、誇らしさと苦さが混ざったような顔をしていた。


「ガレンは、ただ強い人じゃない。昔、“王家直属の剣”って呼ばれていた英雄だったんだ」


 レクスの目が鋭くなった。


「父ちゃんは剣じゃない!! 父ちゃんだ!!」


 声が部屋に跳ねた。


 ユリウスは慌てて首を振る。


「分かってる! いや、俺がそう呼んだわけじゃなくて、昔そう呼ばれていたって話で!」


「誰が呼んだんだよ!!」


「国中の人たちだ! 俺に怒るな! 俺だって、そういう呼び方は今ちょっと嫌だと思った!」


 ノエルが静かに言う。


「そう呼ぶ方が、使う側には都合がいいんです」


「使う側……」


 レクスの声が低くなった。


 使う側。


 使われる側。


 父ちゃんは、誰かに使われるための剣じゃない。山で笑って、怒鳴って、干し肉を焦がすと本気で怒る父ちゃんだ。レクスの頭を雑に撫でる、大きな手の男だ。


 グラントが口を開いた。


「ガレンは、私の領で保護しただけの男ではない。かつて王家直属だった男だ」


「だから何だよ!」


「本人確認された時点で、王都案件になる。ガレンは、私が自由にできる男ではない」


 レクスは一歩前へ出た。


「父ちゃんは、誰かのものじゃない!!」


 グラントは反論しなかった。


 反論しないことが、逆に悔しかった。怒鳴り返してくれれば、もっと分かりやすいのに。グラントはいつも、分かりにくい痛い場所へ言葉を置く。


「なら、俺を任務に出すのも同じだろ!」


 レクスは言葉をぶつけた。


「俺を使うってことだろ!! 父ちゃんを王都が使うなら、お前たちは俺をここで使うんだろ!!」


 ユリウスが顔を強張らせた。


「そうだ」


 グラントが言った。


 部屋が静かになる。


 ユリウスが思わず叫んだ。


「父上!」


 グラントは揺らがなかった。


「綺麗に言い換えても同じだ。私はお前を使う」


 レクスは息を呑んだ。


 分かっていたはずだった。グラントは甘いことを言わなかった。五年待てと言った。王都に奪われるより、ここで理由を作れと言った。


 でも、はっきり「使う」と言われると、胸の奥が焼けるようだった。


「……っ! やっぱり、俺も道具みたいに使うのかよ!!」


「王都に奪わせるためではない。お前を守る理由を作るためだ」


「俺を……守る理由?」


「お前がヴァルクハイン家の下で有用に動いていると示す。嫌な言い方だが、それがなければ王都はお前を回収しに来る」


 ユリウスが、苦い顔で補う。


「“ヴァルクハイン家で管理できている協力者”にするんだ。嫌な言い方なのは分かってる。でも、何もしなければ王都は“持て余しているならこちらで管理する”って言える」


「どっちも勝手に決めてないか!?」


「決めています」


 ノエルの声が静かに落ちた。


 レクスはノエルを見た。


 ノエルは目を逸らさなかった。


「でも、王都に決められるよりは、まだ選べる余地があります」


 レクスはノエルを見る。


「ノエルも登録されてるのか?」


「はい」


「だから、ここに来たのか」


「命令ですから」


「断れなかったのか」


「登録された時から、私は“ノエル”より先に“治癒魔法師”なんです」


 淡々とした返事だった。


 淡々としているから、余計に変だった。


 怒ってもいいはずだ。嫌だと言ってもいいはずだ。なのにノエルは、最初からそういうものだと飲み込んでいるような顔をしている。


 ユリウスが小さく息を吐いた。


「ノエルは、王都近くの治療院にいたんだ。それを、ヴァルクハイン領へ派遣された。うちの領は山も国境も近いから、治癒魔法師が必要だって」


「必要だから、動かされたのか」


 レクスが言うと、ノエルはほんの少しだけ目を伏せた。


「はい」


 その一言で、レクスの怒りは少しだけ行き場を失った。


 この少女も、自分の足だけでここに来たわけではない。


 レクスは、ノエルの治療鞄を見る。


 肩紐を握る指が、少し白い。


 顔色も、やはり悪い。さっきからずっと立ったままだが、足の置き方が少しだけ硬い。山でなら、疲れを隠している者の立ち方だ。


 ノエルは話を切り替えるように、記録板を持ち直した。


「話を戻します。あなた、右足を置く時だけ重心が半歩遅れています。最近、無理な動きをしましたか」


「今その話に戻るのか!?」


 レクスが目を丸くすると、ノエルは当然のように頷いた。


「必要な話です。同行者が戦場で倒れるかどうかは、先に知っておかないと困るので」


 ユリウスが頭を抱えた。


「登録制度の話から体調確認に戻れるの、ノエルくらいだよ!」


「話の順番より、生存確率の方が優先です」


「正論すぎて何も言えねー!」


 ノエルはレクスの足元を見たまま続けた。


「あなた、自分の身体を普通の剣や鎧みたいに使っていませんか」


「どういう意味だ?」


「壊れたら直せばいい、と思っている動きです」


 レクスは眉を寄せた。


「怪我したら治すんじゃないのか?」


「治せることと、壊していいことは違います」


 その声は、少しだけ強かった。


 レクスはノエルを見た。冷たいだけじゃない。今の言葉には、苛立ちに似たものが混じっていた。


「治す側は、そういうのが嫌なのか?」


「嫌というより、無駄です。壊さなくていいものを壊してから治すのは、時間も魔力も使います。戦場では、その間に次の怪我人が出ます」


「魔力を使うと、ノエルも減るのか?」


 ノエルの指が止まった。


 ユリウスも、グラントも、ほんの一瞬黙った。


 レクスはその反応を見て、さらにノエルを観察した。目元の疲れ。冷えた指先。鞄の紐を握る手。浅い呼吸。


「お前、ちゃんと寝てるのか?」


「……今、それを聞く流れでしたか?」


「顔色が悪い。手も冷えてる。さっきから鞄の紐を握ってる。山なら、そういうやつは先に休ませる」


「私は同行者の状態を確認する側です」


「確認する側は、確認されないのか?」


 ノエルは口を開きかけて、止まった。


 初めて、返事が遅れた。


 ユリウスも、今度はツッコまなかった。グラントの机に置かれた指にも、かすかに力が入る。


 レクスは一歩だけ近づいた。


 ノエルが嫌がる距離には入らない。けれど、まっすぐ見る。


「治す側は、誰が見るんだ?」


 治療鞄の紐を握るノエルの指に、力が入った。


 ノエルの表情はほとんど変わらない。けれど、目だけが少し遅れて動いた。言葉を探すように、一度だけ視線が床へ落ちる。


「……治せる者が休むと、困る人が出ます」


「じゃあ、お前が倒れたら困る人はどうするんだ?」


 ノエルは答えなかった。


 冷静なはずの少女が、治療鞄の紐を爪が食い込むほど握りしめている。唇は動いた。けれど、声は出なかった。


 静けさが部屋を満たした。


 重い静けさだった。


 ユリウスも、グラントも、すぐには口を開かなかった。


 最初に動いたのは、ユリウスだった。


 彼はわざとらしく両手を叩き、少し高い声を出した。


「よし! つまり、俺たちがやることは三つだな!」


 レクスが眉を寄せる。


「三つ?」


「レクスが王都に奪われない理由を作る! ノエルは俺たちを治す! 俺はノエルに怒られすぎない!」


 ノエルが即座に言った。


「最後は努力目標としても低すぎます」


「ほら、もう怒られた!」


 レクスは思わず言った。


「怒られすぎない、もう失敗してないか?」


「候補の友達まで敵に回った!」


 ユリウスが大げさに胸を押さえる。


 その芝居がかった反応に、重かった空気がほんの少しだけ緩んだ。ノエルは表情を変えなかったが、鞄の紐を握る力は少しだけ抜けていた。


 グラントが机の上へ地図を広げた。


 古い革に描かれた山外縁部。街道。罠場。昨日、黒牙鹿型魔物が出た辺り。レクスは自然と前へ出た。地図はまだ慣れない。だが、山の形が描かれているなら、少しは読める。


「任務の目的は討伐ではない。調査だ。山の流れを読む。無理に奥へ入るな」


「魔物が出たら?」


「倒せるなら倒す。無理なら下がる」


 レクスは少し驚いた。


「父ちゃんと同じことを言う」


 グラントの目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


「ガレンは、その判断だけは間違えなかった」


「……父ちゃんのこと、もっと知ってるのか」


「今は任務の話だ」


「逃げたな」


 レクスは納得していない顔をしたが、今は飲み込んだ。


 グラントは地図の一点を指す。


「今回は奥へ入らん。外縁で十分だ。レクス、お前が見た痕跡を確認する。ユリウスは記録と連絡。ノエルは治癒と撤退判断の補助だ」


 ユリウスが胸を張る。


「記録と連絡なら任せてください! 俺は文字も書けるし、地図も読めます!」


「それは自慢するほどのことか?」


 レクスが聞くと、ユリウスは勢いよく振り返った。


「山育ちのお前に言われると複雑だな! でも街では大事なんだぞ!」


「俺だって文字くらいは書けるぞ!! 父ちゃんに、塩と肉の数を間違えるなって教わった!」


「文字を習った理由が塩と肉!?」


「間違えたら冬に困るだろ」


「理由が全部生存に直結してるな!」


 ノエルが静かに条件を出した。


「同行します。ただし、負傷した場合は私の指示に従ってください。勝手に動く人は治せません。治療中に暴れる人も治せません。痛いと言わない人は、もっと面倒です」


「俺のこと治してくれないのか!?」


「痛いくらいで止まっていたら、山では動けない」


「そうやって壊れる人が一番面倒です」


「面倒って言うな」


「では、治療困難と言い換えます」


 ユリウスがすかさず叫んだ。


「言い換えても優しくない!」


「優しさより正確さが必要です」


「ノエルのそういうところ、本当に治癒役なのに刃物みたいなんだよな!」


「聞こえています」


「聞こえるように言った!」


「では記録します。ユリウスは反省が遅い、治せないと」


「治療記録に書くな! あと治して!!」


 レクスは二人を見て、少しだけ口元が緩んだ。


 変なやつらだ。


 うるさいやつと、冷静なやつ。グラントは分かりにくい。屋敷は広いだけの檻に見える。登録制度は嫌な匂いがする。自分が使われることも、ましな鎖という言葉も、納得できない。


 それでも、明日やることは決まった。


 グラントが最後に言う。


「出発は明朝だ」


 ユリウスがすぐに反応した。


「明朝ですね! 装備を整えて、食料を用意して、レクスに街道の歩き方も教えて、山外縁部の地図も確認して――」


「まず、あなたが落ち着いてください」


「落ち着いてる! これは準備への熱意だ!」


 レクスが首を傾げた。


「街道に歩き方があるのか?」


「ある! 山の歩き方で街道を歩くと目立つ! 俺は山の歩き方なんて知らないけどな!!」


「知らないのに自信満々で恥ずかしい人ですね」


「言い返せない!」


 ユリウスが肩を落とし、ノエルが小さく記録板に何かを書き、グラントが地図を畳む。


 その光景を見ながら、レクスは窓の外へ視線を向けた。


 王都にはまだ行けない。


 父ちゃんにはまだ会えない。


 五年待てと言われた怒りは、胸の奥にまだ残っている。登録も、鎖も、使うという言葉も、全部嫌だ。


 けれど、父ちゃんが追っていた山の異変を、自分も追える。


 ユリウスはうるさい。ノエルは冷たい。グラントは甘くない。屋敷はまだ檻みたいだ。


 それでも、門前で向けられた悲鳴や、牢の前の沈黙よりは、まだ息がしやすかった。

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