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英雄の子レクス 〜化け物と呼ばれた山の子は名前を取り戻す〜  作者: むぎ
第1章 山から来た子

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第9話 治す側に聞く人

 朝の中庭には、まだ夜の冷たさが残っていた。


 石畳の端には薄く露が残り、屋敷の門の向こうには山の稜線が見える。街の屋根よりずっと奥、青く霞んだ木々の重なり。その方角を見た瞬間、レクスの顔つきが変わった。


 昨日、風呂と料理とベッドに全力で驚いていた時とは違う。肩の力が抜け、足の置き方が低くなり、視線が自然と風と地面を拾い始める。腰の剣を確かめる手つきにも、無駄がなかった。


 ユリウスはその隣で、地図と記録板を抱え直しながら胸を張った。


「よし!! 初任務だな、レクス!! 山外縁部調査、俺たち三人でしっかり成果を持って帰るぞ!」


「初任務だからってはしゃがないでください。朝から声が大きい人は、同行者としてかなり面倒です」


「ノエル、朝一番から言い方が痛い! 俺の心が先に治療対象になる!」


「心の治療は担当外です」


「ほら! 優しいようで全然優しくない!」


 ユリウスが胸を押さえる。


 レクスはそのやり取りを見ながら、思わず小さく笑った。


 昨日まで、屋敷の広さも、人の多さも、登録も、王都も、全部が分からないものだった。けれど、この二人のやり取りだけは少し分かりやすい。


 うるさいユリウス。


 冷静なノエル。


 ユリウスがぱっとレクスを見る。


「お!? レクス、今笑ったな!」


「笑ってない」


「笑った! 絶対笑った!! 俺の心が傷ついたところで笑った!!」


「じゃあ、治してもらえ」


「だから心の治療は担当外なんだよ!」


 ユリウスが叫ぶ横で、ノエルはレクスの前に立った。


 いつものように表情はほとんど動かない。けれど、顔色は昨日より少し白かった。治療鞄の紐を握る指にも、わずかに力が入りすぎている。


 レクスはそれに気づいたが、すぐには言わなかった。


 ノエルは自分の不調を、簡単に認める顔をしていなかった。


「昨日の食事量から考えて、胃の重さはありますか。腹痛、吐き気、眠気、身体のだるさがあるなら出発前に言ってください」


「ない。食った分、動けるぞ」


「食べた分がすぐ動きになるわけではありません。あなたの身体は炉ではないので」


「炉じゃないのは分かる」


 ユリウスが横から顔を出した。


「昨日の食べ方を見た後だと、少し怪しいけどな。皿まで食うんじゃないかって使用人が心配してたぞ」


「皿は食ってないぞ」


「基準が低い!」


「皿を食べていないことは最低条件です。誇ることではありません」


「ノエルまで言うのか」


「事実です」


 三人は屋敷を出て、南側の街道へ向かった。


 街道は、レクスにとって不思議な道だった。足元は踏み固められ、歩きやすい。けれど跡が多すぎる。人の足跡、馬の蹄、荷車の車輪、犬のような小さな足跡、昨日の雨でにじんだ泥の筋。その全部が重なり、山の獣道よりもずっと騒がしかった。


「街道は歩きやすいけど、跡が多すぎる。人、馬、荷車、犬、昨日の雨の跡まで混ざってる。山より情報が多いのに、逆に読みにくい」


「山より街道の方が読みにくいって言うやつ、初めて見たぞ。普通は逆だ。道が整ってる方が安心するんだ」


「整ってると、みんな同じところを通る。だから、何が先で何が後か分かりにくい」


 ユリウスは感心したように目を瞬かせた。


「そういう考え方なのか……いや、なんか山の基準って、聞くたびに俺の常識が少しずつ削れるな」


「削れると困るのか?」


「困る! 俺は貴族の子として、それなりに常識を持って生きてきたつもりなんだ!」


「常識が削れても、食えないなら困らないだろ」


「食えるかどうかで常識を判断するな!」


 レクスが返そうとした時、風の匂いが変わった。


 街道の匂いが薄れ、土と葉と獣の匂いが前に出る。


 街道から外れ、山外縁部へ入った瞬間、レクスの足音が小さくなる。背が低くなり、視線が土、枝、草、空へと流れた。さっきまで普通に話していた声も落ちる。


 ユリウスがその変化に気づいて、少し声を潜めた。


「急に静かになったな。昨日、風呂と料理とベッドに負けてたやつと同じ人物とは思えないんだが」


「山では、先に騒いだ方が見つかる。湯と肉とベッドは襲ってこないけど、魔物(まもの)は来る」


「湯とベッドを魔物側に置くな。いや、昨日のお前の反応を見ると、ベッドは強敵だったのかもしれないけど」


「静かにしてください」


 ノエルの声が低く入った。


 ユリウスは慌てて口を閉じる。レクスはそのまま足元へ膝をついた。


 湿った土に、乱れた足跡があった。


 猪型魔物(いのししがたまもの)に似ているが、形が浅い。爪先だけが深く、後ろ足が滑った跡が長く残っている。餌を探した歩き方ではない。急いで、追われるように斜面を下ってきた足だ。


「猪型魔物の足跡じゃない。似てるけど浅い。走ってる。逃げてるな」


 ユリウスが腰をかがめて覗き込む。


「逃げてる? まだ足跡だけだぞ? 俺にはただ土がへこんでるようにしか見えないんだが」


「爪先が深い。後ろ足が滑ってる。餌を探してる歩き方じゃない。あと、泥が違う。ここより奥の泥だ」


 ノエルは記録板へ視線を落とす前に、レクスを見た。


「……本当に足跡だけでそこまで分かるのですか」


「分からないなら、死ぬ。父ちゃんが言ってた」


 その言葉に、ノエルは一瞬だけ黙った。


 レクスは枝の折れ方を見て、草の倒れた向きを追った。風は下から上がっている。血の匂いは薄い。けれど、獣臭の奥に、鋭い爪の削った木の匂いが混じっていた。


「まだ近い。逃げてるやつがいるなら、追ってるやつもいる。追ってるやつを見ないと、父ちゃんが何を追ったのか分からない」


 ユリウスが地図を見ながら、苦い顔をした。


「気持ちは分かる。でも、父上は無理に奥へ入るなって言ってた。俺も、ここで調査成果は十分って報告できる」


 ノエルも頷く。


「撤退も選択肢です。調査目的なら、痕跡を確認した時点で報告価値はあります」


 レクスは首を振った。


「奥には入らない。外縁で、流れてきた先を見る!」


「危険度が違うなら止めます」


「止めるなら理由を言え! 理由が分かれば、別の道を探す!」


 ノエルの目がほんの少し動いた。


 無理に進むと言っていない。止めるなら理由を聞く。理由があれば別の道を探す。


 ノエルは短く息を吐いた。


「……では、外縁の範囲内で。私は危険と判断したら止めます」


「分かった!」


 その直後だった。


 鳥の声が途切れた。


 右側の茂みで枝が折れる。乾いた音ではない。重さを乗せた、速い折れ方。レクスの身体が反応する。


「来る。速い。横だ!」


 灰色の影が、木々の間から飛び出した。


 狐に似た魔物だった。だが、普通の狐ではない。身体は大きく、脚が長い。硬そうな灰色の毛に覆われ、前脚の爪が不自然に長く伸びている。跳ぶための体。裂くための爪。山奥の岩場にいるはずの魔物。


 跳爪狐型魔物ちょうそうきつねがたまもの


 最初、その魔物はレクスへ向かうように見えた。けれど着地した瞬間、足の角度が変わる。目ではなく、足が示していた。次に飛ぶ方向は、レクスの後ろ。


 ノエルだ。


「ノエルを狙ってる!」


 ノエルはすぐに後退しようとした。


「私は後方にいます。距離は――」


「距離じゃない! 足がそっちに向いてる!」


 レクスが踏み出すより早く、ユリウスが動いた。


 彼は記録板を投げ捨て、剣を抜いてノエルの前へ飛び出す。顔は青い。怖がっていないわけではない。それでも逃げずに、ノエルの前に立った。


「ノエル、下がれ! 俺がずらす!」


 跳爪狐型魔物が跳ぶ。


 速い。


 ユリウスは剣を斜めに構え、真正面ではなく横へ流そうとした。判断は悪くない。だが魔物の角度変更は、予想より鋭かった。爪が剣に食い込み、金属音が弾ける。


 次の瞬間、ユリウスの身体が横へ吹っ飛んだ。


「ぐっ……!」


 背中から地面に落ち、肩を押さえる。だが完全に無駄ではなかった。魔物の爪の軌道は、ノエルの胸元から半歩外れている。


 ノエルへ一直線だった進路が、ほんの少しだけずれた。


 ユリウスは倒れたまま叫んだ。


「くそっ、身体は軽いのに、爪が重い……! ノエル、まだ下がれ!」


 ノエルは下がろうとした。


 だが、跳爪狐型魔物は再び地面を蹴っていた。後衛のノエルに、逃げる距離はない。レクスの普通の踏み込みでも、半歩足りない。


 胸の奥が熱くなる。


 足の指が地面を掴んだ。視界が細く鋭くなる。音が少し遠のく。喉の奥で低い息が鳴り、犬歯がわずかに覗いた。


 ノエルが目を見開く。


「レクス、待ってください。その動きは――」


「待てない! ノエルに届くぞ!!」


 レクスは地面を蹴った。


 人の踏み込みではない速度で、灰色の魔物とノエルの間へ割り込む。魔物の爪が振り下ろされる。ユリウスが半歩ずらしていなければ、間に合わなかった。その半歩に、レクスは身体を滑り込ませた。


 剣の腹で爪を弾く。


 腕が軋む。肩に衝撃が走る。だが、進路は潰した。


「うあああああ!!」


 レクスは身体ごとぶつかり、跳爪狐型魔物の体勢を崩す。爪が頬をかすめ、熱い線が走った。それでも離れない。首筋が見えた。短い一瞬。そこへ刃を入れる。


 魔物は地面に叩きつけられ、喉を裂かれて動かなくなった。


 沈黙が落ちた。


 次の瞬間、レクスの膝が地面についた。


「レクス!」


 ユリウスが駆け寄ろうとして、肩の痛みに顔を歪める。それでも片膝で近づき、レクスの背中に手を伸ばした。


「おい、今の勝ったんだよな!? 勝ったのに倒れるのは聞いてないぞ!」


「倒れてない。膝が落ちただけだ」


「それを倒れたって言うんだよ! あと俺も吹っ飛んだから、今日はみんな無事じゃない!」


 ノエルが近づいてきた。


 顔が硬い。


 助かった安堵だけではない。レクスが自分を守るために、あの危うい力を使ったことへの怒りが混じっている。


「動かないでください! 今立とうとしたら、治療ではなく拘束します!」


「魔物は倒した。もう動けるぞ!」


「魔物を倒したことと、あなたの身体が動けることは別です」


「痛くない」


「痛くないのが一番危険です!」


 ノエルはレクスの横に膝をつき、手をかざした。淡い治癒の光が、レクスの肩と胸元を包む。


 外傷は浅い。頬の傷も、腕の擦過傷も大したことはない。だが、身体の内側が嫌な熱を残していた。筋肉が無理に引き伸ばされ、血の流れが乱れ、身体の芯が冷えていく。


 ノエルの眉がわずかに寄った。


「これは怪我ではありません。身体の使い過ぎです。壊れていないのではなく、壊れる前に止まっただけです」


「でも、倒せた」


 その言葉に、ノエルの手が止まった。


 治療の光が、指先でわずかに揺れる。ノエルはすぐに表情を戻そうとした。いつもの冷静な顔。淡々と状態を確認し、必要なことだけを告げる治癒魔法師の顔。


 けれど、戻りきらなかった。


「倒せたから問題ない、ではありません。治せることと、壊していいことは違うと昨日言いました」


「壊すつもりはない」


「……壊す人は、だいたいそう言います」


 声が硬くなった。


 レクスは眉を寄せた。怒られているのは分かる。けれど、ノエルの声はレクスだけに向いているようで、そうではない気がした。


 ノエルの指が、治療鞄の紐を握りしめる。


「痛くないから大丈夫。まだ動ける。倒せたから問題ない。そう言う人を、私は何度も見てきました」


 敬語だった。


 でも、言葉の奥に熱が混じり始めていた。


「そういう人ほど、次にもっと無理をします。治せば戻ると思って、自分の身体を道具みたいに扱います。壊れたら治せばいい。血が止まれば大丈夫。立てれば戦える。そうやって、何度も、何度も……」


 ノエルの声が、そこで一度途切れた。


 ユリウスが口を開きかける。けれど、何も言えなかった。いつものように茶化せる空気ではなかった。


 ノエルは俯いたまま、治療の光を保っている。


「……治せるからって、何度でも戻せるわけじゃない」


 その一言だけ、敬語ではなかった。


 レクスが目を見開く。


「ノエル?」


「治せるからって、壊れていいわけじゃない……。治したら、また次。間に合ったら、もっと早く! 間に合わなかったら、どうして治せなかったのかって言われる!!」


 声は大きくない。


 叫んでいるわけでもない。


 けれど、静かな怒りがあった。


「患者は、自分の痛いところしか見ない! 血が止まったら立つ! 痛みが引いたら行こうとする!


 私がどれだけ魔力を使ったかなんて見ない! 手が震えていても、顔色が悪くても、誰も見てくれない!」


 ノエルの肩が、小さく震えた。


「私が立ってる限り……まだ治せるって思われるの!!」


 そこで、レクスはようやく気づいた。


 ノエルは、レクスだけを怒っている顔ではなかった。


 もっと前から抱えていたものが、今こぼれている。


 レクスは、ノエルの手を見た。


 治療の光の中で、指先が細かく震えていた。唇の色も薄い。顔はいつも通り冷静に戻そうとしているのに、身体は隠しきれていない。


「ノエル」


「まだ動かないで! 治療中だから!!」


 敬語が抜けていた。


 ノエル自身も、気づいていないようだった。


「手、震えてる」


 ノエルの指が止まった。


「……問題ない!」


「問題ある。お前も減ってる」


 ノエルは顔を上げた。


 その目には、怒りが残っていた。けれど、その奥に困惑が混じっている。なぜそんなところを見るのか、分からないという顔だった。


「だから何!? 患者が、治療者の状態を気にしないで!」


「気にするだろ。ノエルが倒れたら困る」


「私は治す側なの!! 患者がそういうこと言わないで!!」


「治す側でも、倒れたら困る。治すからじゃない。ノエルが倒れたら嫌だ!」


 ノエルが完全に止まった。


 治療の光が、かすかに揺れる。


 風が木の葉を撫でた。倒れた魔物の血の匂いが、土に広がっていく。ユリウスは息を呑んだまま、何も言わない。


 ノエルの睫毛が震えた。


「……そんなこと、言わないでよ」


 レクスは目を瞬かせた。


「なんでだ?」


「今までそんなこと……言われたこと、ない……」


 一粒、涙が落ちた。


 ノエルはそれを隠そうとして、顔を背けた。けれど間に合わなかった。もう一粒、治療の光の上へ落ちる。


「治せるって知られたら……みんな、私を見るんじゃないの。私じゃなくて……治癒魔法師を見るの」


 声は小さかった。


 叫んでいない。怒鳴ってもいない。それなのに、さっきよりずっと痛い声だった。


「痛い人は、自分の痛いところしか見ない……。治ったら立って……また次を連れてくる……。私が震えてても……顔色が悪くても……誰も見ない……」


 レクスは動かなかった。


 ユリウスも、茶化さなかった。


 ノエルは治療の手を止めない。止めないまま、涙だけが落ちる。


「私が立ってる限り……まだ治せるって思われるの……。治癒魔法師だから……治せる者だから……」


 言葉が途切れた。


 ノエルは唇を噛む。けれど、もう冷静な顔には戻れなかった。


「なのに……なんで見るの……?」


 涙で濡れた目が、レクスを見る。


「なんで、そんなところ見るの……? そんなふうに見ないでよ……嬉しくなるから……。治癒魔法師じゃなくて……ノエルに戻っちゃうから……」


 レクスは少し考えた。


 難しいことは分からない。


 でも、ノエルが泣いていることは分かった。


 ノエルが倒れそうだったことも分かった。


 だから、まっすぐ言った。


「戻ればいいだろ!」


 ノエルが涙のまま顔を上げる。


「……え?」


「俺は、ノエルって呼んだ。治すからじゃない。ノエルが倒れたら嫌だ! それはこれからも変わらない!!」


 レクスは自分の胸に手を当て、まだ残る痛みに少しだけ顔をしかめた。それでも視線は逸らさない。


「山なら、倒れる前に見る。倒れてからじゃ遅い。だから見る。ノエルが減ってるなら、俺は見る」


 ノエルの顔が歪んだ。


 泣き声は大きくならない。けれど、肩が小さく震えた。治療の光が一度弱まり、それからまた静かに戻る。


 ユリウスが、そっと口を開いた。


「ノエル。戻っていいと思うよ」


 彼の声は、いつもよりずっと静かだった。


「少なくとも俺は、治癒魔法師が倒れるより、ノエルが泣いてる方が困る。……いや、言い方が変だな。でも、本当に困るんだ。俺たちは君に治してほしいだけじゃない。君に倒れてほしくない」


 ノエルは答えられなかった。


 ただ、袖で目元を押さえる。


 ユリウスは倒れた魔物と周囲の茂みへ視線を走らせた。肩を押さえながらも剣は手放していない。ノエルだけを見ていない。周囲も、退路も見ている。


 少しして、ノエルが小さく言った。


「……五分だけ、休みます」


 レクスとユリウスが同時に顔を上げた。


 ユリウスが目を丸くする。


「ノエルが自分から休憩って言った……! レクス、今のかなりすごいぞ」


 ノエルは涙を拭いながら、少しだけ目を細めた。


「……騒いだら、三分にします」


「はい、黙ります!」


「じゃあ黙る」


 レクスも真剣に頷いた。


 ユリウスは一度口を閉じ、すぐに小声で言った。


「五分黙るの、意外と難しくないか?」


「……三分」


「しまった!」


 レクスは少しだけ笑った。


 ノエルも、ほんのわずかに口元を緩めた。


 短い休憩のあと、三人は跳爪狐型魔物の確認をした。


 ノエルは敬語に戻っていた。けれど、さっきまでとは少しだけ声が違う。冷たさの奥に、柔らかい疲れが残っている。


 レクスは魔物の脚を見た。


 泥が違う。外縁の土ではない。もっと奥の、黒く重い泥。背中には細い裂傷があり、それはレクスの剣でも、ユリウスが受けた時についた傷でもなかった。


「こいつも追われてる」


 ユリウスが肩を押さえたまま、苦い顔をする。


「またか。じゃあ、今日倒したやつが原因じゃないってことか」


 ノエルが記録板に書き込む。


「報告内容としては十分です。外縁部まで異常個体が流れている。さらに、その個体も追われている可能性がある」


 レクスは山の奥を見た。


 行きたい。


 父ちゃんが追っていたものが、あの奥にあるかもしれない。ガレンが街へ行く理由になった何かが、もっと近くにあるかもしれない。


 足が、奥へ向きたがる。


 けれど、レクスは剣を納めた。


「戻るぞ!」


 ユリウスが驚いた顔をした。


「レクス、奥へ行くって言うかと思った!」


「行きたい。でもノエルが減ってる。ユリウスも飛ばされた。俺も膝が落ちた」


「だから、それは倒れたって言うんだって……いや、今はそこじゃないな」


 レクスは山の奥を見たまま続けた。


「今行ったら、父ちゃんに近づくんじゃなくて、みんなを壊す」


 ノエルが少し間を置いて言った。


「……その判断は正しいです。調査目的なら、ここで戻るべきです」


 レクスは振り返った。


「褒めたのか?」


「判断を評価しました」


 ユリウスが口元を緩めた。


「それを褒めたって言うんだぞ、ノエル」


「……言いません」


 ノエルは記録板へ視線を落とした。けれど、その耳元がほんの少しだけ赤くなっているように見えた。


 三人は山を下り始めた。


 レクスは何度も奥を振り返った。風が上から流れてくる。血と泥と、まだ見えない何かの匂いがした。足はそちらへ向きたがる。胸の奥も、行けと騒ぐ。


 けれど、今日は戻る。


 ノエルが倒れないように。


 ユリウスが無理をしないように。


 自分の身体がまた勝手に壊れないように。


 だから今日は、戻る。


 それが、三人で最初に持ち帰るものになった。

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