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英雄の子レクス 〜化け物と呼ばれた山の子は名前を取り戻す〜  作者: むぎ
第1章 山から来た子

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第10話 檻の中の狐

 山外縁部での任務から、数日が経っていた。


 レクスはまだ屋敷にも街道にも、人間社会の細かい決まりにも慣れていない。けれど、ユリウスとノエルと一緒に山外縁部へ出る時だけは、少しずつ足が迷わなくなっていた。


 その日も、三人は調査を終えて街道側へ戻っている途中だった。


 木々の隙間から見える空は赤みを帯び、斜めに差す光が足元の草を細く照らしている。レクスは何度も山の奥を振り返ったが、今日はもう戻ると決めていた。


 ユリウスは記録板を抱え、歩きながら頭を抱えている。


「外縁部の足跡、倒した跳爪狐型魔物ちょうそうきつねがたまものの痕跡、レクスの身体強化(しんたいきょうか)、撤退判断……父上に何から報告すればいいんだ! この数日だけで情報が多すぎる!」


「全部言えばいいだろ」


「順番ってものがあるんだよ! 報告は獣の足跡じゃないんだ! 見つけた順に並べればいいわけじゃない!」


 ノエルは治療鞄を抱え直しながら、いつもの平らな声で言った。


「ユリウスの場合、順番を決めても途中で脱線します。最初に結論を書いてください。次に根拠。それから、レクスの発言はそのまま書くと意味が分からない可能性があるので、必ず補足してください」


「ノエル、最近俺への評価がどんどん遠慮なくなってないか!? いや、正しいけど! 正しいけど言い方が痛い!」


「正しいなら問題ありません」


「俺の心には問題がある!」


 レクスは真面目に首を傾げた。


「心も治すのか?」


「担当外です」


「ほら! 俺の心が置き去りにされた!」


 レクスは少しだけ笑った。


 ノエルは相変わらず冷静だった。声も表情も大きく変わらない。けれど以前より、レクスの歩き方や呼吸を見る目が少しだけ柔らかい。ユリウスの肩の動きを確認する時も、ただの同行者ではなく、心配しているように見えた。


 その時、風が変わった。


 レクスの足が止まる。


 顔つきが、一瞬で変わった。さっきまでの会話の表情が消え、鼻先がわずかに上がる。肩が低くなり、右手が剣の柄へ飛ぶ。草の揺れ、鳥の沈黙、風に混じった匂いを、レクスの全身が拾い始める。


「止まれ!」


 ユリウスが記録板を抱え直した。


「今度は何だ!?」


「血の匂いがする! 人と、馬と、鉄……それに、黒い石みたいな嫌な匂いが混じってる!」


 ノエルの表情が硬くなる。


「血の量は?」


「多い! しかも、まだ終わってない!」


「まだ終わってないって――」


 ユリウスが言いかけた瞬間、遠くから短い悲鳴が聞こえた。


 続いて、鉄格子が歪むような音。馬のかすれた鳴き声。木が折れ、何か重いものが馬車を叩く音。


 レクスの目が見開かれた。


「生きてるやつがいる!!」


 言い終わる前に、レクスは走り出していた。


「レクス、待て! そっちは旧道だ! 普通の商人は使わない!」


「走りながら言え!!」


「言ってる! ここは検問を避けたい連中が使う道だ! 荷車には狭いし、巡回も少ない!


 奴隷商人か、密輸商人か、とにかくまともな荷じゃない!」


「じゃあ悪いやつらなんだな!!」


「言い方は雑だけど、だいたいそうだ!!」


 ノエルも遅れずに走っていた。治療鞄の紐を強く握り、足元を見ながらも息は乱さない。


「二人とも、声を抑えてください! 生存者がいるなら、魔物も近くにいます!」


「近い! だから急ぐんだ!!」


 旧道は狭かった。


 木の枝が車体を削った跡があり、車輪の轍が深く泥に沈んでいる。草は無理に押し倒され、馬の蹄跡は途中から乱れていた。


 血の匂いが濃くなる。


 黒く冷たい嫌な匂いも、強くなる。


 木々を抜けた瞬間、レクスたちはその現場に飛び込んだ。


 馬車は半ば横倒しになっていた。横腹は大きく裂け、後部の鉄格子は外側からねじ曲げられている。車輪は片方が砕け、荷箱が散乱し、黒い粉のついた木片が泥と血の中に散っていた。


 商人らしき男が倒れている。護衛も何人か動かない。


 馬は一頭が潰れた車輪の近くで息絶え、もう一頭は足を折って震えていた。


 壊れた檻の奥には、獣人奴隷たちが身を寄せ合っている。


 その前に、魔物がいた。


 それは、猿に似ていた。


 だが、レクスが山で見た小型の猿型魔物とはまるで違う。人間よりはるかに大きく、肩は岩のように盛り上がっていた。長い腕は地面につくほどで、黒く伸びた爪が馬車の横腹に突き刺さっている。


 魔物は腕を引いた。


 木板が裂け、鉄格子が軋み、馬車の残骸が悲鳴のような音を立てる。背中の毛の下では、黒い筋が血管のように脈打っていた。一歩動くたびに足元がわずかにふらついている。


 だが、弱っているようには見えなかった。


 身体の中で暴れる何かを、力だけで押さえつけているように見えた。


 ユリウスの顔から血の気が引いた。


黒爪猩型魔物くろづめしょうがたまもの……? いや、待て。あんなの、外縁部に出る魔物じゃないぞ……!」


 黒爪猩型魔物は、壊れた檻の奥へ鼻先を向けていた。


 そこには、生き残った獣人奴隷たちがいる。


 けれど、魔物の爪はわずかに横へ逸れた。何もない荷箱を叩き潰し、木片が飛る。魔物は苛立ったように低く唸った。


 レクスはその動きを見て、目を細めた。


「……匂いがずれてる!?」


 ユリウスが息を呑む。


「何だよ、匂いがずれるって!」


「見えてる場所と、いる場所が違う! 誰かが、生きてるやつらを隠してる!」


 ノエルが壊れた檻の奥を見た。


「幻惑……?」


 その時、檻の奥から、かすれた声がした。


「……こっちを見ないで」


 レクスが振り返る。


 壊れた鉄格子の奥に、狐系獣人の少女がいた。


 赤みのある髪は泥と血で汚れ、伏せられた狐耳が小さく震えている。手首には鎖の跡が赤く残り、粗末な服は裂けていた。足は震えている。額には汗が浮かび、唇には噛みしめた血が滲んでいた。


 それでも彼女は、他の獣人奴隷たちの前に立っていた。


 倒れていない。


 逃げてもいない。


 目だけは、折れていなかった。


「近づかないで……! 声を上げないで……! あいつに気づかれる……!」


 レクスは叫びそうになって、歯を食いしばった。


「お前が隠してるのか!」


「隠してるんじゃない……! ずらしてるだけ……! でも、もう無理……! 黒い欠片を食ってから、あいつの鼻が変わった……!」


 ユリウスの顔が変わった。


「黒い欠片?」


「知らないわよ!! あいつらが何を運んでたかなんて、奴隷に教えるわけないでしょ!!」


 少女の声は震えていた。


 怯えている。疲れている。それでも、折れる気だけはなさそうだった。手首の鎖跡を握る指に、爪が食い込んでいた。


 その瞬間、黒爪猩型魔物の鼻先が檻の方へ向いた。


 壊れた鉄格子の隙間から、小さな獣人の子どもが息を漏らす。魔物の耳が動く。黒い筋が一度、強く脈打った。


 狐系獣人の少女の肩が跳ねた。


「無理……! もう、ずらせない……!」


「なら、俺が間に入る!!」


 レクスは剣を抜いた。


 ノエルが鋭く声を上げる。


「レクス、待ってください! あの魔物、普通じゃありません!」


「待ったら後ろが死ぬ!!」


 ユリウスも剣を抜きながら叫んだ。


「作戦は!?」


「今から作る!!」


「それは作戦じゃなくて突撃だ!!」


「じゃあ突撃しながら考えろ!!」


「無茶を言うな! でも今はそれしかないのが腹立つ!」


 レクスは魔物と檻の間へ飛び込んだ。


 背中に、獣人奴隷たちの息遣いがある。小さな泣き声。鎖が震える音。痛みに耐えるうめき声。目の前には、黒い匂いを吐く黒爪猩型魔物。


 胸の奥が熱くなりかけた。


 レクスは歯を食いしばる。


 まだ使うな。


 父ちゃんの声が、頭の奥で鳴った気がした。


 黒爪猩型魔物が長い腕を振るう。レクスは剣の腹で受けず、横へ滑って進路をそらした。重い。腕が痺れる。爪がかすめただけで肩布が裂ける。


 だが、直撃ではない。


 黒い爪はレクスの横の泥を抉り、檻へは届かなかった。


 その時、レクスの視界に鉄格子と首輪が入った。


 檻の中で震える獣人たち。手枷。足枷。首元の擦れた跡。血と泥の中で、逃げられずに身を丸めている子ども。


 レクスの眉が吊り上がった。


「なんで人が檻に入ってるんだよ!!」


 ユリウスが馬車の影へ回りながら叫ぶ。


「奴隷商人だ! 獣人奴隷を運んでたんだと思う!」


「奴隷って何だよ!!」


「人を……商品として売る制度だ!」


 レクスの目が怒りで見開かれた。


「人は商品じゃないだろ!! 魔物じゃないだろ!!


 喋ってるだろ!! 泣いてるだろ!! 生きてるだろ!!」


 狐系獣人の少女が、荒い息のままレクスを睨んだ。


「……その耳で、そっち側に立って、それ言うの?」


 レクスは振り返らずに叫んだ。


「そっち側って何だよ!! 俺は、檻に入れられてるのがおかしいって言ってるんだ!!」


「人間はいつもそう言うのよ! おかしい、かわいそう、助けたいって! そう言いながら、最後には“保護”とか“管理”って名前の首輪を出すの!」


「俺は首輪なんかつけない!!」


「あんたがつけなくても、後ろの人間がつけるかもしれないでしょ!」


 ユリウスの顔が歪んだ。


「……否定したい。否定したいけど、今ここで軽く言える言葉じゃない。でも、少なくとも今は違う! 俺たちは助けに来た!」


「そういう言葉を信じて、何人も檻に入ったのよ!!」


 少女の声が荒れた。


 ノエルが治療鞄を開きながら、硬い声で言う。


「今は議論より止血です。ですが、その不信を無視して動かすこともできません。ユリウス、声をかけてから動かしてください。触れる前に必ず言ってください」


「分かった!」


 ノエルは檻の中の負傷者へ視線を走らせた。目元が硬い。治療鞄の紐を握る指に力が入る。今すぐ全員を治そうとする衝動を押し殺すように、彼女は息を整えた。


「息がある人をこちらへ! 全快はしません! 止血と移動可能な処置を優先します! ユリウス、骨折している人は動かさないで。動かすなら二人で支えてください!」


「ノエル、こっちは!?」


「出血が多いです。まず布で押さえて。私が行くまで手を離さないでください!」


 レクスは黒爪猩型魔物の二撃目を横へ逸らしながら、鉄格子を見た。


「鉄格子を壊す!」


「待ってください! 中に倒れている人がいます! 右側だけです! そこなら当たりません!」


「分かった!!」


 レクスは魔物との距離を見ながら、右側の歪んだ鉄格子へ手をかけた。力を込める。鉄が軋む。中の子どもが怯えて肩を震わせた。


 レクスは歯を食いしばり、声を抑えた。


「動くな。そっちには折らない。怖いなら、目を閉じろ」


 返事はなかった。


 だが、子どもは小さく頷いた。


 レクスは鉄を外側へ曲げた。


 その隙に、黒爪猩型魔物が鼻先を檻へ向ける。黒い筋が脈打つ。狐系獣人の少女が唇を噛み、手首の鎖跡を握りしめた。


「おい、狐耳のやつ! 隠せるやつを隠せるか!」


「命令しないで!!」


「命令じゃない!! 頼んでる!! 今、後ろが死ぬ!!」


「頼みなんて、だいたい後で命令になるのよ!」


「後で怒るなら怒れ!! 今は生きろ!!」


「……っ、ほんと、何なのよ……!」


 少女は歯を食いしばった。


 肩が震える。手首の鎖跡を握る指に血が滲む。それでも、彼女は顔を上げた。魔物の鼻先がわずかに横へ流れる。檻の奥から漏れていた気配が、壊れた荷箱の方へずれた。


 黒爪猩型魔物の爪が荷箱を叩き潰す。


 獣人たちが息を呑む。


 レクスはその一瞬で前へ踏み込んだ。


「ユリウス、右の倒木の裏に下げろ!! 左の人は血が流れてる! 匂いで寄る!!」


「分かった! 動ける人は右へ! 倒木の裏だ! 走らなくていい、転ぶな! ノエル、治療場所はそこに作る!」


「はい。出血している人を先に! ユリウス、あなたも周囲を見てください! 魔物は一体とは限りません!」


「分かってる! 分かってるけど、情報が多すぎる!」


 レクスは魔物の前で剣を構えた。


 その時、狐系獣人の少女が叫んだ。


「あいつ、黒い欠片を食ったの……! 檻の下に隠してあった箱から……!」


 ユリウスが横倒しの馬車を見る。


「檻の下!? 奴隷だけじゃなく、密輸品まで積んでたのか!」


 レクスの鼻が動く。


 黒い粉。壊れた箱。魔物の息に混じる、冷たい匂い。


 胸の奥がざわつく。


「この匂い……知ってる。黒角熊型魔物くろづのくまがたまものの角にあった。黒牙鹿型魔物くろきばしかがたまものの牙にも、少しだけあった」


 ノエルの顔がさらに硬くなる。


「魔力が濁っています! 強い、ではなく……体の中で暴れているような流れです!」


「そうよ……! 食った後、あいつ、フラついた……でも、もっと怖くなった……!」


 黒爪猩型魔物が大きく息を吸った。


 狐の少女の幻惑が揺れる。


 黒い筋が、さらに強く脈打つ。


 魔物の長い腕が、地面を叩いた。衝撃で泥が跳ね、足元の木片が転がる。レクスの膝がわずかに沈んだ。


 それまで黒い欠片の残り香と、少女がずらした気配を追っていた魔物の鼻先が、ゆっくりとレクスへ向く。


 黒い目が、レクスを捉えた。


 ユリウスの喉が鳴る。


「レクス……あいつ、今お前を見たぞ」


 ノエルが治療鞄の紐を握りしめる。


「呼吸が変わっています。レクス、身体強化は――」


「分かってる。でも、来る」


 狐系獣人の少女が小さく呟いた。


「無理よ……あれは、隠しても見つける……!」


 レクスは剣を握り直した。


「じゃあ、見つける場所をずらせ!」


「そんな簡単に言わないでよ!!」


「簡単じゃなくても頼む!! 俺が前に立つ!!」


 少女は息を呑んだ。


 頼む。


 その言葉に、ほんの一瞬だけ狐耳が揺れた。


 黒爪猩型魔物の黒い目が、レクスを見ている。


 獲物を見る目ではなかった。


 邪魔なものを、ただどかそうとする目だった。


 レクスは檻の前に立ち、剣を握り直した。背中には、まだ逃げられない獣人たちの息遣いがある。ノエルが治療鞄の紐を握りしめ、ユリウスが震える剣先を無理やり上げ、狐系獣人の少女が歯を食いしばって幻惑を繋ぎ直す。


 レクスの胸の奥が、熱くなりかけた。


「来いよ」


 声は震えていなかった。


 けれど、剣を握る指は、白くなるほど力が入っていた。

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