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英雄の子レクス 〜化け物と呼ばれた山の子は名前を取り戻す〜  作者: むぎ
第1章 山から来た子

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第11話 ずらすだけ

 黒爪猩型魔物くろづめしょうがたまものの黒い目は、まだレクスを捉えていた。


 半壊した馬車。ねじ曲がった鉄格子。檻の奥で息を殺す獣人たち。血と泥と、黒い石のように冷たい匂いが混ざった旧道の中で、レクスは剣を握り直した。


 木々の上には、ユリウスが上げた赤煙がまだ細く残っている。けれど、兵士の足音はまだ聞こえない。来るとしても、今この一撃には間に合わない。


 黒爪猩型魔物は、レクスを強敵として見ているわけではなかった。


 黒い欠片の残り香と、生き残った奴隷たちの匂い。その間に立っている邪魔なもの。そう判断しただけの、冷たい視線だった。


「レクス……あいつ、完全にお前を見てるぞ」


 ユリウスの声は震えていた。けれど、剣を下ろしてはいない。肩に力が入りすぎていて、剣先がわずかに揺れている。


 ノエルは治療鞄を抱えながら、黒爪猩型魔物の腕を見ていた。


「距離を取ってください! 腕の長さが見た目以上です。正面に立つと、避ける余地がありません!」


 壊れた檻の奥で、狐系獣人の少女が歯を食いしばる。


「無理よ……。あれ、隠しても戻ってくる。鼻も目も、さっきよりおかしい……!」


 レクスは前を見たまま答えた。


「じゃあ、俺が戻らせる!!」


「どうやって!?」


「前に立つ!!」


「それは方法じゃなくて根性論だ!!」


「根性でも、今は前にいないと後ろが死ぬ!!」


 黒爪猩型魔物が動いた。


 長い腕が、横から薙ぎ払われる。黒く伸びた爪が空気を裂き、馬車の残骸に触れただけで木片が弾け飛んだ。


 レクスは正面から受けなかった。


 剣の腹を斜めに入れ、爪の流れを横へ逃がそうとする。ガレンに何度も怒鳴られた動きだ。止めるな。流せ。力と正面からぶつかるな。


 けれど、衝撃が桁違いだった。


「重っ……!!」


 骨まで響く鈍い衝撃が、手首から肩へ抜けた。剣で受けたわけではない。流したはずだった。それでも足元の土が抉れ、レクスの身体が半歩押し戻される。


 半歩。


 その半歩で、背中の檻が近くなった。


 檻の奥で、小さな悲鳴が喉の奥に飲み込まれる。鉄格子の隙間から見える獣人の子どもが、両手で口を押さえて震えていた。


 ユリウスが息を呑む。


「レクスが押された!? 今ので止まらないのか!?」


 ノエルの声が鋭く飛ぶ。


「正面から受けないでください! 腕と肩が持ちません!」


「受けてない! 流して、これだ!!」


 黒爪猩型魔物は痛がりもしなかった。邪魔な枝を払っただけのように、もう片方の腕を上げる。


 狐系獣人の少女が青ざめた顔で呟く。


「だから言ったでしょ……! あれは無理だって……!」


「無理でも、後ろに行かせるよりマシだ!!」


 レクスはもう一度前に出た。


 だが、戦場はレクス一人のものではなかった。


 ユリウスは避難させようとしている。動ける獣人奴隷を倒木の裏へ下げたい。けれど、檻の奥にはまだ動けない者がいる。誰を先に出すか、どこへ逃がすか、魔物の腕がどこまで届くか。全部を見ようとしているのに、まだ目が追いついていない。


「動ける人は右へ! いや、待て、右は魔物の腕が届く! 倒木の裏だ! ノエル、檻の奥にもまだいる! どこから動かせばいい!?」


 ノエルも余裕がなかった。


 目の前には出血している獣人。足を折って動けない者。恐怖で固まっている子ども。黒爪にかすられたレクス。肩を打ったユリウス。


 全部を治せるわけがない。


 それでも、治せる力を持つ彼女の手は、一瞬だけ全員へ伸びかける。


 ノエルは唇を噛み、治療鞄の紐を強く握った。


「全快はしません……! 出血を止めます! 歩ける人は下がってください! 動かせる状態にすることを優先します!」


 負傷した獣人の男が、痛みに顔を歪める。


「痛い、痛い……!」


「痛いのは生きている証拠です! 今は我慢してください! 命を先に残します!」


 その声は冷静だった。けれど、冷たいだけではなかった。自分にも言い聞かせている声だった。


 狐系獣人の少女は、檻の奥で幻惑を繋いでいた。


 だが、彼女の幻惑は獣人奴隷たちを守るためのものだった。ユリウスやノエルまで包む余裕はない。そもそも、彼女はまだ人間側を信用していない。


「こっちに人間を寄せないで! 匂いが混ざる! 幻惑が崩れる!」


 レクスが叫ぶ。


「今はそんなこと言ってる場合か!!」


「あるのよ!! あんたたちを信じて広げたら、こっちが見つかる!!」


 狐系獣人の少女の声には怒りがあった。


 そして、その怒りは間違っていなかった。


 レクスは前を止めようとしている。ユリウスは人を逃がそうとしている。ノエルは命を残そうとしている。狐系獣人の少女は檻の奥を隠そうとしている。


 誰も間違ってはいない。


 だからこそ、噛み合わなかった。


 黒爪猩型魔物の腕が、避難中の獣人奴隷へ伸びた。


 ユリウスが顔色を変える。


「そこは駄目だ! そっちにはまだ――!!」


 ユリウスは前に出た。


 怖くないはずがない。唇は引きつり、握った剣は震えていた。それでも足は下がらなかった。ユリウスは剣を両手で構え、黒爪の正面には立たず、斜めに流そうとした。


「俺だって……見てるだけじゃないんだよ!!」


 黒爪が剣に当たった。


 判断は悪くなかった。真正面から受けず、軌道を外そうとした。けれど、力が違いすぎた。


 ユリウスの身体が横へ飛んだ。


「ユリウス!!」


 ノエルの声が初めて大きく乱れた。


 ユリウスは地面を転がり、肩から倒木にぶつかった。息が詰まったのか、しばらく声が出ない。それでも彼は歯を食いしばり、片肘をついた。


「生きてる! 生きてるけど、今のは痛い! かなり痛い! あと、父上に絶対怒られる!!」


「立てるか!?」


「立つ! 立たなきゃ、後ろが見えない!」


 ユリウスは震える足で立とうとした。


 その間に、魔物の黒爪が檻へ向かう。


 少女の幻惑が揺れた。檻の奥にいる獣人の子どもが、小さく泣いた。ほんの小さな声だった。けれど、黒爪猩型魔物の耳が動いた。


 黒い目が檻の奥へ向く。


 狐系獣人の少女の顔から血の気が引いた。


「無理……もう、ずらせない……!」


 ノエルが顔を強張らせる。


「間に合わない……!」


 ユリウスが立とうとして、膝をついた。


「くそっ……!」


 レクスは見た。


 黒い爪が檻へ伸びる。狐系獣人の少女は限界。ノエルは治療中。ユリウスは立てない。普通の踏み込みでは、半歩足りない。


 胸の奥が熱くなる。


 ガレンの声が頭に浮かぶ。


 使うな。


 あれは切り札じゃねえ。お前を壊すもんだ。


 ノエルが叫んだ。


「レクス、駄目です! その動きは身体が――!!」


「分かってる!!」


「分かっているなら――!」


「でも、今使わないと後ろが死ぬ!!」


 レクスは歯を食いしばった。


 後ろには逃げられない獣人たちがいる。ノエルがいる。ユリウスがいる。狐系獣人の少女がいる。


 黒爪を、そこへ届かせたくなかった。


「そこには行かせない!!」


 レクスの叫びが、壊れた馬車と鉄格子の間に響いた。


 次の瞬間、胸の奥の熱が弾ける。


 犬歯が唇の内側を裂き、血の味が広がった。指先の爪が硬く伸び、踏み込んだ足が湿った土を抉る。視界が鋭く狭まり、黒爪の軌道だけが妙に遅く見えた。


「ああああああああーーーーー!!!」


 レクスは黒爪と檻の間へ飛び込んだ。


 剣が黒爪を弾く。


 爪の一本が裂け、黒い血が散った。レクスはさらに踏み込み、黒い筋が脈打つ腕へ斬り込む。刃は入った。肉を裂いた。確かに傷はついた。


 だが、黒爪猩型魔物は止まらなかった。


「まだ……止まれよ!!」


 黒爪猩型魔物が、初めて怒ったように唸った。


 そして、もう片方の長い腕を振った。


 レクスは避けきれなかった。剣で受け、身体をひねり、直撃だけは外した。それでも衝撃が身体を持っていく。レクスは馬車の残骸へ叩きつけられ、木片が背中に食い込んだ。


「レクス!!」


 ユリウスが叫ぶ。


 ノエルも動きかけたが、目の前の止血から手を離せない。彼女の指が震えた。


「レクス、もう一度は駄目です! 身体が持ちません!」


 レクスは馬車の残骸に手をつき、立ち上がろうとした。


「持たせる!!」


「そういう問題じゃありません!!」


 狐系獣人の少女は、信じられないものを見るようにレクスを見ていた。


「馬鹿じゃないの……! なんで戻るのよ……!」


 レクスは血の味を吐き捨てながら、檻の前へ戻った。


「後ろにいるからだ!!」


「知りもしない獣人でしょ!? あんたに関係ないでしょ!!」


「関係ある!! 今、俺の後ろに命がある!!」


 狐系獣人の少女の喉が詰まった。


 彼女は言い返そうとして、言葉を失った。レクスは振り返らない。ただ前に立つ。黒爪に押されても、叩きつけられても、檻の前へ戻る。


 少なくとも、その背中は逃げていなかった。


 黒爪猩型魔物が再び腕を上げる。


 狐系獣人の少女は唇を噛んだ。


「倒せない……あれは無理……!」


 レクスが叫ぶ。


「じゃあ、何ができる!!」


「ずらすだけ……!」


 ユリウスが肩を押さえながら顔を上げる。


「何を!?」


「あいつが見てる場所! 嗅いでる匂い! ほんの少しだけ、横にずらす!!」


 レクスの目が光った。


「それでいい!!」


「よくないわよ!! 倒せないのよ!? ほんの少し間違えさせるだけなのよ!?」


「今はそれで十分だ!! 爪が一歩ずれれば、後ろは死なない!!」


 少女の顔が歪んだ。


 怒りと恐怖と、昔の記憶に押し潰されるように、肩が震える。


「うるさい……! 簡単に言わないでよ!! 私の嘘で、また誰かが死んだらどうするのよ!!」


「死なせないために使うんだろ!!」


「……っ、ほんと、何なのよ!! あんた!!」


 少女は泣きそうな顔で歯を食いしばった。


 狐耳が震える。鎖跡を握った手から、また血が滲む。それでも、彼女は黒爪猩型魔物を睨んだ。


 空気が歪む。


 黒爪猩型魔物の黒い目が、一瞬だけ横へ泳いだ。鼻先が、別の匂いを追うように逸れる。黒爪が檻の中心から半歩外れ、端の鉄格子を裂いた。


 獣人奴隷たちには届かない。


「そこだああああ!!」


 レクスが踏み込んだ。


 身体強化で熱を持った足が泥を蹴り、黒い筋が脈打つ肩口へ剣を叩き込む。刃が肉へ入り、黒い血が飛んだ。


 黒爪猩型魔物が、初めてはっきりと咆哮した。


「入った!! レクス、傷が入った!!」


 ユリウスが叫ぶ。


 ノエルはすぐに言った。


「でも浅いです! まだ止まりません!」


「浅いとか言わないでよ!! 今それが精一杯なのよ!!」


「事実です!」


「こんな時まで正確だな!?」


 叫び合いの中、森の奥から別の音が重なった。


 複数の足音。


 金属が擦れる音。


 盾を並べる音。


 赤煙の残る木々の下から、兵士たちが駆け込んでくる。


「赤煙はこっちだ!! 盾を前へ! 負傷者を探せ!!」


 辺境伯兵だった。


 ユリウスが肩を押さえたまま、息を吐くように笑った。


「……来た。赤煙、見えてたんだ」


 ノエルが短く頷く。


「間に合いましたね」


 レクスは黒爪猩型魔物から目を離さなかった。


「まだだ! 来ただけだ。勝ったわけじゃない!!」


 兵士隊長が状況を見て、顔を強張らせた。だが、すぐに声を張る。


「囲め!! だが近づくな!! あれを正面から受けるな!! 負傷者を下げろ!! 治癒魔法師(ちゆまほうし)までの道を空けろ!!」


 兵士たちは盾を並べた。


 魔物を倒すためではない。距離を作るため。獣人奴隷たちを下げるため。ノエルが治療できる場所を守るため。


 槍の穂先と松明が、黒爪猩型魔物の進路を塞ぐ。


 黒爪猩型魔物は、低く唸った。


 黒い筋が激しく脈打つ。魔物は苦しむように首を振った。レクスを見る。檻を見る。黒い箱の残骸を見る。兵士の盾を見る。


 そして、山奥を見た。


 レクスの背筋が冷えた。


「追うな!!」


 兵士の一人が叫ぶ。


「逃げるぞ!」


「違う!! 逃げたんじゃない!!」


 ユリウスが顔を歪める。


「違うって、どういうことだよ……!」


 黒爪猩型魔物は腕で木を叩き折りながら、旧道の奥へ下がった。逃げるというより、戻る動きだった。自分の縄張りへ、身体の中で暴れる黒い何かを抱えたまま帰っていくように。


 レクスは荒い息のまま言った。


「あいつ、自分で戻ったんだ。ここに残る理由がなくなっただけだ!」


 ノエルが青い顔で続ける。


「目的を果たしたから、長期戦を避けた……黒い欠片を取り込んだ直後で、魔力が安定していないのかもしれません」


 狐系獣人の少女は膝から崩れそうになりながら、震える声で言った。


「あれだけ暴れて……まだ戻る場所があるっていうの……?」


 レクスは山奥を見た。


「ある。山の奥だ!」


 黒爪猩型魔物の姿は、木々の向こうへ消えていった。


 けれど、勝った気はしなかった。


 兵士たちは負傷者を運び出していた。ノエルは座り込みそうな顔色で、それでも止血を続けている。ユリウスは肩を押さえながら、兵士隊長へ赤煙を上げたこと、魔物の動き、奴隷商人の馬車だったことを必死に説明していた。


 狐系獣人の少女は檻の近くで膝をつき、他の獣人奴隷たちの前から動こうとしない。兵士が近づくたびに、歯を剥きそうな目で睨む。


 兵士の一人が、呆然と呟いた。


「追い払った、のか……?」


 レクスはすぐに言った。


「違う。勝ってない」


 ユリウスが振り返る。


「レクス……」


「あいつは、俺たちを倒せなかったんじゃない。俺たちを倒すより、戻る方を選んだだけだ」


 ノエルの声が沈む。


「……つまり、次に出てきた時は、もっと安定している可能性があります」


「最悪の補足をありがとう、ノエル……」


 ユリウスはそう言ったが、笑えなかった。


 少女が小さく言う。


「じゃあ、助かったんじゃないのね」


 レクスは息を整えながら答えた。


「今は生き残っただけだ」


 沈黙が落ちた。


 その中で、レクスは狐系獣人の少女の方へ歩いた。近づきすぎない位置で止まる。


「立てるか?」


「触らないで!」


「触らない。でも、立てるか聞いてる」


 狐系獣人の少女は唇を歪めた。


「助けたつもり?」


「助けたかった」


「首輪が変わるだけなら、助かったとは言わない」


「首輪なんてつけない」


「あんたがつけなくても、後ろの人間がつけるかもしれないでしょ」


 ユリウスは言葉に詰まった。


 ノエルも何も言わなかった。


 しばらくして、ユリウスが苦しそうに口を開く。


「……否定したい。でも、今ここで軽く言える言葉じゃない」


 狐系獣人の少女は冷たく笑った。


「ほらね」


 レクスは何も返せなかった。


 やがて、兵士が壊れた箱の破片を集め始めた。黒い粉のついた木片。歪んだ鉄格子。檻の下に隠されていたらしい、割れた収納板。それらを布で包んでいく。


 レクスは、その黒い粉を見た。


 匂いがする。


 黒角熊型魔物くろづのくまがたまもの


 黒牙鹿型魔物くろきばしかがたまもの


 そして、今の黒爪猩型魔物くろづめしょうがたまもの


 すべてに、同じ匂いがあった。


 名前はまだ知らない。


 けれど、山の奥から流れてきている何かが、少しだけ見えた気がした。

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