表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
英雄の子レクス 〜化け物と呼ばれた山の子は名前を取り戻す〜  作者: むぎ
山から来た子

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/29

第12話 奴隷商人の馬車

 南街道の旧道には、血と土と壊れた木、それから黒い石のような匂いが残っていた。


 黒爪猩型魔物くろづめしょうがたまものは、もういない。


 だが、勝ったわけではなかった。折れた木、ねじ曲がった鉄格子、馬車の横腹に刻まれた黒い爪痕、山奥へ向かって続く重い足跡。どこを見ても、あの魔物を倒した跡ではなかった。あいつが、自分で戻った跡だった。


 赤煙は木々の上に薄く残り、辺境伯兵たちが旧道を囲んでいる。盾を持った兵士が周囲を警戒し、別の兵士たちは倒れた商人や護衛、生き残った獣人(じゅうじん)たちを分けて運び出していた。


 レクスは、山奥へ続く足跡をじっと見ていた。


「……生き残った、って言っていいのか分からないな」


 ユリウスは肩を押さえながら、苦い顔で呟いた。さっき吹き飛ばされた痛みが残っているのか、息を吸うたびに眉が少し寄る。


 レクスは振り返らずに答えた。


「勝ってない。あいつは戻っただけだ」


「分かってる。分かってるけどさ……そう言われると、さっきまで必死に走り回ってた俺の心がさらに重くなるんだよ」


「重いなら座れ。肩も変だ」


「変って言うな。負傷って言ってくれ。いや、負傷も嫌だけど、変よりはましだ」


 ノエルが負傷者の前に膝をついたまま、短く言った。


「二人とも、話す余裕があるなら手を動かしてください。次にあの魔物が戻ってこない保証はありません。今は負傷者を動かします」


 レクスは山奥から視線を切った。


「分かった。今は後ろを見る」


 その声に、ノエルの手がほんの一瞬だけ止まった。すぐに治療へ戻ったが、表情の硬さは少しだけ薄い。


 彼女は獣人の男の腕に手をかざし、治癒の光を細く絞った。


「次は腕の出血です。全快はしません。止血と移動可能な処置だけです。痛みは残りますが、歩けるようにはします」


 獣人の男が歯を食いしばる。


「痛い……痛い……!」


「痛いのは生きている証拠です。今は呼吸を続けてください。泣いても構いません。でも、息を止めると処置が遅れます」


 ノエルの声は冷静だった。


 けれど、無感情ではない。目の前の傷を見て、治しきれないことを分かった上で、手を止めない声だった。


 レクスは、その横顔を見て言った。


「ノエル、減りすぎるなよ」


 ノエルは治療の光を保ったまま、小さく息を吐いた。


「分かっています。今日は、倒れる前に止めます」


 ユリウスが目を丸くした。


「ノエルが自分で止めるって言った……。レクス、お前の影響、本当にすごいな」


「実況は不要です。ユリウスは自分の肩を押さえていてください。あなたも治療対象です」


「俺も治療対象だった! いや、分かってたけど、ちゃんと言われると急に痛くなってきた!」


「痛みを思い出せるなら、意識は正常です」


「安心の仕方が冷たい!」


 ノエルは返事をしなかった。


 けれど、治療鞄の紐を握る指は、以前ほど白くなっていなかった。


 少し離れた場所では、ユリウスが兵士たちに向き直っていた。


「商人の荷と書類はまとめてくれ! ただし、獣人たちの私物が混ざっているなら勝手に触るな!


 本人に確認してからだ!」


 兵士の一人が戸惑った顔で聞き返す。


「本人のものか分かりません!」


「だったら今は別にまとめろ! 分からないものを勝手に商人の荷に戻すな! 後でまた“商人の所有物”扱いされたら、助けた意味がなくなる!」


 ユリウスの声は震えていた。


 怒っているのに、どこか苦しそうでもあった。


 別の兵士が、布を持って壊れた馬車の下を指差す。


「ユリウス様、黒い粉のついた箱の破片は?」


「それは絶対に素手で触るな! 布で包んで別にしろ! 父上に報告する。荷札も、鍵も、床板の破片も全部だ!」


 レクスは黒い粉のついた木片を見て、鼻をひくつかせた。


「その黒い匂い、山の魔物と同じだ」


 ユリウスは一瞬だけ唇を噛んだ。


「だろうな。……たぶん、これが全部を繋いでる」


 まだ名前は知らない。


 だが、黒角熊型魔物くろづのくまがたまもの黒牙鹿型魔物くろきばしかがたまもの黒爪猩型魔物くろづめしょうがたまもの。その奥に同じものがあることだけは、三人とも感じ始めていた。


 壊れた奴隷檻の前では、兵士が鍵を探していた。


 レクスはねじ曲がった鉄格子を睨みつけ、すぐに手を伸ばした。


「鍵を探すより、壊した方が早い」


「待て! 檻を壊すと中の人まで怪我するかもしれない! あと証拠も残す必要がある!」


 ユリウスが慌てて止める。


 レクスは眉を吊り上げた。


「証拠より、中のやつらが先だろ!」


「そうだ! でも後で“なぜ壊した”って言われないように、助けるために必要だったって言える形にするんだ! 助けた後にまた奪われないようにするための形だ!」


「また形か」


 レクスの声には嫌悪が混じった。


 五年待てと言われた時も、ここにいる理由を作れと言われた時も、形という言葉はずっと苦かった。


 ノエルが治療の手を止めずに言う。


「今回は必要な形です。急いで、でも雑にしないでください」


 レクスは鉄格子を握ったまま、歯を食いしばった。


「分かった。急いで丁寧にやる」


 ユリウスが肩を押さえながら頷く。


「言葉にすると矛盾してるけど、今はそれで頼む!」


 鍵は、倒れた護衛の腰から見つかった。


 兵士が慎重に檻を開ける。鉄の扉が軋んだ音を立てた瞬間、中にいた獣人たちが一斉に肩を震わせた。


 扉は開いた。


 だが、誰もすぐには出てこなかった。


 子どもは年上の獣人の服を握りしめ、年配の獣人は手枷を外された後も自分の手首を抱えている。


 首輪の跡を隠す者もいた。兵士が一歩近づくたびに、檻の奥へ下がろうとする者さえいる。


 レクスは目を見開いた。


「扉は開いた。鎖も外した。なのに、なんで出ないんだ?」


 ノエルが静かに答える。


「体が動けても、心が動けない時があります」


「心?」


 ユリウスが苦しそうに続けた。


「怖いんだよ。外に出たら、また誰かに掴まれるかもしれないって。逃げていいって言われても、その言葉を信じるだけの力が残ってないんだ」


 レクスは檻の中を見た。


 開いた扉。


 外へ出られる隙間。


 けれど、足が動かない獣人たち。


 胸の奥が熱くなる。身体強化ではない。怒りと、分からないことへの悔しさだった。


「……檻の外にも、檻があるみたいだな」


 ノエルがレクスを見た。


「かなり正しい表現です」


「正しいなら、嫌だな」


「はい。嫌なことです」


 その時、壊れた馬車の陰から、小さな衣擦れの音がした。


 狐系獣人の少女だった。


 狐耳は伏せられ、髪や服には血と埃がこびりついている。手首には赤黒い鎖跡が残り、首元には首輪があった場所の跡が見えた。彼女はそこを隠すように片手で押さえ、もう片方の手で壊れた荷台を支えている。


 幻惑を使い続けた反動なのか、足元はふらついていた。


 それでも、彼女は他の獣人たちの前に立とうとしていた。


 レクスは近づきすぎない場所で止まった。


「怪我は?」


「近づかないで!」


「分かった。近づかない。でも怪我してるなら、ノエルが見る」


 狐系獣人の少女は乾いた笑いを漏らした。


「治して、次はどこへ売るの?」


 ユリウスの顔が歪んだ。


「売らない! ヴァルクハイン家は奴隷売買に関わらない!」


「はは……そういうの、何度も聞いた。優しい顔で“保護する”って言って、次に行く場所には別の鍵がある!」


 ユリウスは言葉に詰まった。


「……軽く否定できないのが、きついな」


 ノエルが狐系獣人の少女をまっすぐ見る。


「その警戒は正しいです。だからこそ、こちらの行動で示す必要があります」


「綺麗な言い方」


「綺麗に聞こえるなら、まだ言葉が足りませんね」


 狐系獣人の少女は少しだけ目を細めた。


 ノエルの言葉が予想と違ったのか、ほんの一瞬だけ皮肉が遅れた。


 ユリウスが慎重に前へ出る。


「名前を聞いてもいいか? 保護するにも、記録が必要になる。嫌な言い方なのは分かってる。でも、名前がないと手続きが進まない」


 狐系獣人の少女の指が手首の鎖跡に食い込んだ。


「名前を書かれたら、また所有者が増えるだけじゃないの?」


 ノエルは目を伏せずに言った。


「その警戒は正しいです。名前を書かれることで追われることもあります」


「ノエル、今それを言うと話が進まない!」


「でも嘘はつけません」


 ユリウスが頭を抱えた。


 その横で、レクスが狐系獣人の少女を見た。


「名前は、呼ぶためにもいるだろ」


 狐系獣人の少女の視線がレクスへ向いた。


「呼ぶため?」


「呼び方がないと、戦う時に遅れる。さっきも困った」


「戦う時のため?」


「あと、肉を分ける時も困る」


 ユリウスが思わず声を上げた。


「今そこで肉を出すな!」


 狐系獣人の少女は呆れたようにレクスを見た。


 けれど、怒鳴らなかった。疑うように、探るように、何かを測るように、しばらくレクスの目を見ていた。


「……リシア」


 レクスはすぐに頷いた。


「リシアか。分かった!」


 リシアの眉が動く。


「それだけ?」


「それだけ。呼べる!」


 リシアは口を開きかけ、何も言わずに閉じた。


 名前を聞かれた。


 けれど、所有されなかった。


 ただ呼ぶために受け取られた。その感覚をどう扱えばいいのか、分からないようだった。


 ユリウスは少し息を整え、真面目な顔で言った。


「リシア、君が幻惑で匂いと視線をずらしてくれていなかったら、檻の中はもっとひどいことになっていた」


「やめて! 褒めたら懐くとでも思ってるの?」


「思ってない! でも事実は言う。君が守った!」


「守ったんじゃない。隠しただけ」


 レクスはすぐに言った。


「隠してくれたから生きてる!」


 リシアの肩が小さく跳ねた。


 ノエルも続ける。


「結果として、あなたの幻惑は生存者を増やしたんです」


「治療みたいに言わないで」


「事実確認です」


「……ほんと、変な人たち」


 リシアは顔を背けた。だが、その横顔には、ただの拒絶だけではない揺れがあった。


 その後、ユリウスは生き残った獣人たちの前に立った。


 彼は傷む肩を押さえながら、できるだけ声を落ち着かせて言う。


「状態が安定した者から、国境方面へ送る。護衛もつける。ヴァルクハイン家は奴隷売買に関わらない。売り直すことはしない」


 檻から出たばかりの年配の獣人が、震える声で聞いた。


「……帰れる、のか?」


 ユリウスはすぐに頷かなかった。


 軽い約束にしたくないのだと、レクスにも分かった。


「すぐとは言えない! 怪我人もいる。確認もしなければならない。でも、帰る道は作る。これは俺が言う! 父上にも通す! 絶対に言う!」


 ノエルが補足する。


「移動に耐えられるまで治療します。ただし、全快までは約束できません。途中で容体が悪くなれば、移動は止めます」


 レクスは獣人たちを見た。


「帰れるなら、よかったな」


 その一言で、子どもの獣人が泣き出した。


「うわあああん! ママの所に早く帰りたいよーー!!」


 年配の獣人が膝をつく。別の者が手首の鎖跡をさすりながら、顔を覆う。誰かが声を殺して泣き、誰かが信じていいのか分からないまま、震える唇で「帰れる」と繰り返した。


 完全に信じた顔ではない。


 それでも、誰もその言葉を否定しなかった。


 レクスは、その様子をじっと見ていた。


 そして、気づく。


 リシアだけが動いていない。


 他の獣人たちが泣き、互いに肩を抱き、帰るという言葉にわずかに前を向く中で、リシアだけは壊れた馬車の陰に立ったままだった。


 レクスは声をかけた。


「リシアは?」


「何?」


「リシアも帰るんじゃないのか?」


 リシアは答えなかった。


 ユリウスが慎重に言葉を選ぶ。


「リシア。護衛はつける。国境までは安全に送る。君も、希望するなら――」


「希望?」


 リシアが薄く笑った。


 笑おうとしたのだと思う。


 けれど、口元だけが歪み、目はまったく笑っていなかった。


 ユリウスは言葉を詰まらせながら続ける。


「……帰りたいなら」


「帰りたいだけで帰れるなら、奴隷なんていない!!」


 空気が変わった。


 他の獣人たちの嗚咽も、兵士たちの足音も、遠くなったように感じた。


 レクスは眉を寄せた。何が違うのかは分からない。でも、リシアの顔だけは見過ごせなかった。


「帰りたいなら、帰ればいいだろ!」


 リシアの目が揺れた。


 怒ったのではない。痛いところを踏まれた顔だった。手首の鎖跡を握る指に、さらに力が入る。首元を隠す手が震える。


「ほんと、単純……!」


「単純なのか?」


「単純だよ! 鎖を外したら、帰れると思ってる! 檻を開けたら、帰る場所も開くと思ってる!」


 ユリウスが小さく呼んだ。


「リシア……?」


 リシアは壊れた檻の床を見た。


 そこには、彼女が座っていた場所がある。鎖が擦れた跡がある。けれど、彼女の目はそれとは別の、もっと古い何かを見ているようだった。


 リシアの皮肉な笑みが、崩れかけた。


 それでも泣かなかった。


 ただ、低く、こぼすように言った。


「私は帰れない」


 その声は、皮肉ではなかった。


 怒りでもなかった。


 もっと深い場所から、こぼれた音だった。


 レクスは何も返せなかった。ユリウスも、ノエルも、兵士たちも、誰もすぐには動けなかった。


 檻は開いている。


 鎖も外れている。


 それでもリシアは、壊れた馬車の陰で、どこにも行けない顔をしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ