第12話 奴隷商人の馬車
南街道の旧道には、血と土と壊れた木、それから黒い石のような匂いが残っていた。
黒爪猩型魔物は、もういない。
だが、勝ったわけではなかった。折れた木、ねじ曲がった鉄格子、馬車の横腹に刻まれた黒い爪痕、山奥へ向かって続く重い足跡。どこを見ても、あの魔物を倒した跡ではなかった。あいつが、自分で戻った跡だった。
赤煙は木々の上に薄く残り、辺境伯兵たちが旧道を囲んでいる。盾を持った兵士が周囲を警戒し、別の兵士たちは倒れた商人や護衛、生き残った獣人たちを分けて運び出していた。
レクスは、山奥へ続く足跡をじっと見ていた。
「……生き残った、って言っていいのか分からないな」
ユリウスは肩を押さえながら、苦い顔で呟いた。さっき吹き飛ばされた痛みが残っているのか、息を吸うたびに眉が少し寄る。
レクスは振り返らずに答えた。
「勝ってない。あいつは戻っただけだ」
「分かってる。分かってるけどさ……そう言われると、さっきまで必死に走り回ってた俺の心がさらに重くなるんだよ」
「重いなら座れ。肩も変だ」
「変って言うな。負傷って言ってくれ。いや、負傷も嫌だけど、変よりはましだ」
ノエルが負傷者の前に膝をついたまま、短く言った。
「二人とも、話す余裕があるなら手を動かしてください。次にあの魔物が戻ってこない保証はありません。今は負傷者を動かします」
レクスは山奥から視線を切った。
「分かった。今は後ろを見る」
その声に、ノエルの手がほんの一瞬だけ止まった。すぐに治療へ戻ったが、表情の硬さは少しだけ薄い。
彼女は獣人の男の腕に手をかざし、治癒の光を細く絞った。
「次は腕の出血です。全快はしません。止血と移動可能な処置だけです。痛みは残りますが、歩けるようにはします」
獣人の男が歯を食いしばる。
「痛い……痛い……!」
「痛いのは生きている証拠です。今は呼吸を続けてください。泣いても構いません。でも、息を止めると処置が遅れます」
ノエルの声は冷静だった。
けれど、無感情ではない。目の前の傷を見て、治しきれないことを分かった上で、手を止めない声だった。
レクスは、その横顔を見て言った。
「ノエル、減りすぎるなよ」
ノエルは治療の光を保ったまま、小さく息を吐いた。
「分かっています。今日は、倒れる前に止めます」
ユリウスが目を丸くした。
「ノエルが自分で止めるって言った……。レクス、お前の影響、本当にすごいな」
「実況は不要です。ユリウスは自分の肩を押さえていてください。あなたも治療対象です」
「俺も治療対象だった! いや、分かってたけど、ちゃんと言われると急に痛くなってきた!」
「痛みを思い出せるなら、意識は正常です」
「安心の仕方が冷たい!」
ノエルは返事をしなかった。
けれど、治療鞄の紐を握る指は、以前ほど白くなっていなかった。
少し離れた場所では、ユリウスが兵士たちに向き直っていた。
「商人の荷と書類はまとめてくれ! ただし、獣人たちの私物が混ざっているなら勝手に触るな!
本人に確認してからだ!」
兵士の一人が戸惑った顔で聞き返す。
「本人のものか分かりません!」
「だったら今は別にまとめろ! 分からないものを勝手に商人の荷に戻すな! 後でまた“商人の所有物”扱いされたら、助けた意味がなくなる!」
ユリウスの声は震えていた。
怒っているのに、どこか苦しそうでもあった。
別の兵士が、布を持って壊れた馬車の下を指差す。
「ユリウス様、黒い粉のついた箱の破片は?」
「それは絶対に素手で触るな! 布で包んで別にしろ! 父上に報告する。荷札も、鍵も、床板の破片も全部だ!」
レクスは黒い粉のついた木片を見て、鼻をひくつかせた。
「その黒い匂い、山の魔物と同じだ」
ユリウスは一瞬だけ唇を噛んだ。
「だろうな。……たぶん、これが全部を繋いでる」
まだ名前は知らない。
だが、黒角熊型魔物、黒牙鹿型魔物、黒爪猩型魔物。その奥に同じものがあることだけは、三人とも感じ始めていた。
壊れた奴隷檻の前では、兵士が鍵を探していた。
レクスはねじ曲がった鉄格子を睨みつけ、すぐに手を伸ばした。
「鍵を探すより、壊した方が早い」
「待て! 檻を壊すと中の人まで怪我するかもしれない! あと証拠も残す必要がある!」
ユリウスが慌てて止める。
レクスは眉を吊り上げた。
「証拠より、中のやつらが先だろ!」
「そうだ! でも後で“なぜ壊した”って言われないように、助けるために必要だったって言える形にするんだ! 助けた後にまた奪われないようにするための形だ!」
「また形か」
レクスの声には嫌悪が混じった。
五年待てと言われた時も、ここにいる理由を作れと言われた時も、形という言葉はずっと苦かった。
ノエルが治療の手を止めずに言う。
「今回は必要な形です。急いで、でも雑にしないでください」
レクスは鉄格子を握ったまま、歯を食いしばった。
「分かった。急いで丁寧にやる」
ユリウスが肩を押さえながら頷く。
「言葉にすると矛盾してるけど、今はそれで頼む!」
鍵は、倒れた護衛の腰から見つかった。
兵士が慎重に檻を開ける。鉄の扉が軋んだ音を立てた瞬間、中にいた獣人たちが一斉に肩を震わせた。
扉は開いた。
だが、誰もすぐには出てこなかった。
子どもは年上の獣人の服を握りしめ、年配の獣人は手枷を外された後も自分の手首を抱えている。
首輪の跡を隠す者もいた。兵士が一歩近づくたびに、檻の奥へ下がろうとする者さえいる。
レクスは目を見開いた。
「扉は開いた。鎖も外した。なのに、なんで出ないんだ?」
ノエルが静かに答える。
「体が動けても、心が動けない時があります」
「心?」
ユリウスが苦しそうに続けた。
「怖いんだよ。外に出たら、また誰かに掴まれるかもしれないって。逃げていいって言われても、その言葉を信じるだけの力が残ってないんだ」
レクスは檻の中を見た。
開いた扉。
外へ出られる隙間。
けれど、足が動かない獣人たち。
胸の奥が熱くなる。身体強化ではない。怒りと、分からないことへの悔しさだった。
「……檻の外にも、檻があるみたいだな」
ノエルがレクスを見た。
「かなり正しい表現です」
「正しいなら、嫌だな」
「はい。嫌なことです」
その時、壊れた馬車の陰から、小さな衣擦れの音がした。
狐系獣人の少女だった。
狐耳は伏せられ、髪や服には血と埃がこびりついている。手首には赤黒い鎖跡が残り、首元には首輪があった場所の跡が見えた。彼女はそこを隠すように片手で押さえ、もう片方の手で壊れた荷台を支えている。
幻惑を使い続けた反動なのか、足元はふらついていた。
それでも、彼女は他の獣人たちの前に立とうとしていた。
レクスは近づきすぎない場所で止まった。
「怪我は?」
「近づかないで!」
「分かった。近づかない。でも怪我してるなら、ノエルが見る」
狐系獣人の少女は乾いた笑いを漏らした。
「治して、次はどこへ売るの?」
ユリウスの顔が歪んだ。
「売らない! ヴァルクハイン家は奴隷売買に関わらない!」
「はは……そういうの、何度も聞いた。優しい顔で“保護する”って言って、次に行く場所には別の鍵がある!」
ユリウスは言葉に詰まった。
「……軽く否定できないのが、きついな」
ノエルが狐系獣人の少女をまっすぐ見る。
「その警戒は正しいです。だからこそ、こちらの行動で示す必要があります」
「綺麗な言い方」
「綺麗に聞こえるなら、まだ言葉が足りませんね」
狐系獣人の少女は少しだけ目を細めた。
ノエルの言葉が予想と違ったのか、ほんの一瞬だけ皮肉が遅れた。
ユリウスが慎重に前へ出る。
「名前を聞いてもいいか? 保護するにも、記録が必要になる。嫌な言い方なのは分かってる。でも、名前がないと手続きが進まない」
狐系獣人の少女の指が手首の鎖跡に食い込んだ。
「名前を書かれたら、また所有者が増えるだけじゃないの?」
ノエルは目を伏せずに言った。
「その警戒は正しいです。名前を書かれることで追われることもあります」
「ノエル、今それを言うと話が進まない!」
「でも嘘はつけません」
ユリウスが頭を抱えた。
その横で、レクスが狐系獣人の少女を見た。
「名前は、呼ぶためにもいるだろ」
狐系獣人の少女の視線がレクスへ向いた。
「呼ぶため?」
「呼び方がないと、戦う時に遅れる。さっきも困った」
「戦う時のため?」
「あと、肉を分ける時も困る」
ユリウスが思わず声を上げた。
「今そこで肉を出すな!」
狐系獣人の少女は呆れたようにレクスを見た。
けれど、怒鳴らなかった。疑うように、探るように、何かを測るように、しばらくレクスの目を見ていた。
「……リシア」
レクスはすぐに頷いた。
「リシアか。分かった!」
リシアの眉が動く。
「それだけ?」
「それだけ。呼べる!」
リシアは口を開きかけ、何も言わずに閉じた。
名前を聞かれた。
けれど、所有されなかった。
ただ呼ぶために受け取られた。その感覚をどう扱えばいいのか、分からないようだった。
ユリウスは少し息を整え、真面目な顔で言った。
「リシア、君が幻惑で匂いと視線をずらしてくれていなかったら、檻の中はもっとひどいことになっていた」
「やめて! 褒めたら懐くとでも思ってるの?」
「思ってない! でも事実は言う。君が守った!」
「守ったんじゃない。隠しただけ」
レクスはすぐに言った。
「隠してくれたから生きてる!」
リシアの肩が小さく跳ねた。
ノエルも続ける。
「結果として、あなたの幻惑は生存者を増やしたんです」
「治療みたいに言わないで」
「事実確認です」
「……ほんと、変な人たち」
リシアは顔を背けた。だが、その横顔には、ただの拒絶だけではない揺れがあった。
その後、ユリウスは生き残った獣人たちの前に立った。
彼は傷む肩を押さえながら、できるだけ声を落ち着かせて言う。
「状態が安定した者から、国境方面へ送る。護衛もつける。ヴァルクハイン家は奴隷売買に関わらない。売り直すことはしない」
檻から出たばかりの年配の獣人が、震える声で聞いた。
「……帰れる、のか?」
ユリウスはすぐに頷かなかった。
軽い約束にしたくないのだと、レクスにも分かった。
「すぐとは言えない! 怪我人もいる。確認もしなければならない。でも、帰る道は作る。これは俺が言う! 父上にも通す! 絶対に言う!」
ノエルが補足する。
「移動に耐えられるまで治療します。ただし、全快までは約束できません。途中で容体が悪くなれば、移動は止めます」
レクスは獣人たちを見た。
「帰れるなら、よかったな」
その一言で、子どもの獣人が泣き出した。
「うわあああん! ママの所に早く帰りたいよーー!!」
年配の獣人が膝をつく。別の者が手首の鎖跡をさすりながら、顔を覆う。誰かが声を殺して泣き、誰かが信じていいのか分からないまま、震える唇で「帰れる」と繰り返した。
完全に信じた顔ではない。
それでも、誰もその言葉を否定しなかった。
レクスは、その様子をじっと見ていた。
そして、気づく。
リシアだけが動いていない。
他の獣人たちが泣き、互いに肩を抱き、帰るという言葉にわずかに前を向く中で、リシアだけは壊れた馬車の陰に立ったままだった。
レクスは声をかけた。
「リシアは?」
「何?」
「リシアも帰るんじゃないのか?」
リシアは答えなかった。
ユリウスが慎重に言葉を選ぶ。
「リシア。護衛はつける。国境までは安全に送る。君も、希望するなら――」
「希望?」
リシアが薄く笑った。
笑おうとしたのだと思う。
けれど、口元だけが歪み、目はまったく笑っていなかった。
ユリウスは言葉を詰まらせながら続ける。
「……帰りたいなら」
「帰りたいだけで帰れるなら、奴隷なんていない!!」
空気が変わった。
他の獣人たちの嗚咽も、兵士たちの足音も、遠くなったように感じた。
レクスは眉を寄せた。何が違うのかは分からない。でも、リシアの顔だけは見過ごせなかった。
「帰りたいなら、帰ればいいだろ!」
リシアの目が揺れた。
怒ったのではない。痛いところを踏まれた顔だった。手首の鎖跡を握る指に、さらに力が入る。首元を隠す手が震える。
「ほんと、単純……!」
「単純なのか?」
「単純だよ! 鎖を外したら、帰れると思ってる! 檻を開けたら、帰る場所も開くと思ってる!」
ユリウスが小さく呼んだ。
「リシア……?」
リシアは壊れた檻の床を見た。
そこには、彼女が座っていた場所がある。鎖が擦れた跡がある。けれど、彼女の目はそれとは別の、もっと古い何かを見ているようだった。
リシアの皮肉な笑みが、崩れかけた。
それでも泣かなかった。
ただ、低く、こぼすように言った。
「私は帰れない」
その声は、皮肉ではなかった。
怒りでもなかった。
もっと深い場所から、こぼれた音だった。
レクスは何も返せなかった。ユリウスも、ノエルも、兵士たちも、誰もすぐには動けなかった。
檻は開いている。
鎖も外れている。
それでもリシアは、壊れた馬車の陰で、どこにも行けない顔をしていた。




