第13話 私は帰れない
「私は帰れない」
リシアがそう言ったあと、壊れた馬車の周りに沈黙が落ちた。
他の獣人たちは、兵士に支えられながら移送の準備を進めている。国境へ帰れるかもしれない。そう聞いても、まだ誰も心から信じた顔はしていない。それでも、俯いてばかりではなくなっていた。
けれど、リシアだけは動かなかった。
壊れた檻のそばに立ち、首輪の跡を片手で隠し、もう片方の手で手首の鎖跡を握っている。狐耳は伏せられ、目だけがレクスたちを拒むように鋭かった。
レクスは、すぐには近づかなかった。
近づけば逃げる。山の獣にも、そういう時がある。
でも、リシアに同じことをするのは違う気がした。
だからレクスは、距離を残したまま聞いた。
「帰れないって、どういうことだ?」
リシアは薄く笑った。
「どういうこと、ね。聞けば助けられると思ってるの?」
レクスは首を傾げた。
「分からないと、動き方を間違える」
「山の足跡みたいに言わないで。私は道でも獲物でもない」
「獲物だとは思ってない」
「どうだか。優しい顔で近づいて、話を聞いて、最後に綺麗な首輪を出す人間もいる。あなたたちが違うって、どうやって分かるの?」
ユリウスが口を開きかけて、止まった。
軽く否定できない。そんな顔だった。
ノエルも黙っていた。治療鞄の紐を握る指に、少しだけ力が入る。
レクスは、リシアの手元を見た。手首の鎖跡を、爪が食い込むほど強く握っている。
「じゃあ、何が残ってるんだ?」
リシアの笑みが止まった。
ほんの一瞬、何を聞かれたのか分からないような顔をした。次に、口元が歪む。皮肉で返そうとしたのだろう。けれど、声が出る前に喉が詰まった。
「……なに、それ」
「鎖を外しても、檻を開けても、帰れないんだろ。なら、何が残ってるんだ?」
リシアの手が、手首の鎖跡を握った。
指先に力が入る。白くなるほど強く握っている。肩が小さく震えた。
「残ってるよ!!」
突然、声が跳ねた。
ユリウスが息を呑む。ノエルも治療の手を一瞬だけ止めた。近くにいた獣人たちが、びくりと肩を震わせる。
リシアは、もう笑っていなかった。
「消えないものが、ずっと残ってる!! 首輪が外れても、鎖が外れても、命令された声は消えない!!」
リシアの声は震えていた。
それでも、止まらなかった。
「私は幻を見せたの!!
逃げ道があるって! こっちに行けば助かるって! 大丈夫だって!」
涙が一粒、頬を落ちた。
リシアはそれを隠そうと顔を背けた。けれど、もう無理だった。目元が赤くなり、喉が詰まり、呼吸が乱れていく。
「みんな、私の幻を信じた!! 私の声を信じて、走ったんだよ!!」
リシアの目が、壊れた檻の向こうではないどこかを見た。
血と泥の匂いが遠のく。
そこには、あるはずだった森があった。
小さな狐族の子がいた。
走るたびに何度も転びそうになって、それでもリシアの方を見て笑った子がいた。
泣きながら、リシアの手を握っていた。
「リシアが見せてくれるなら、大丈夫だよね」
そう言って、リシアの幻へ走った。
リシアは、その手を最後まで握れなかった。
リシアは手首の鎖跡を握りしめたまま、叫んだ。
「でも、そこに道なんてなかった!! 森なんてなかった!! 待ってたのは人間だった!! 鎖を持ったやつらだった!!」
声が割れる。
肩が震える。
涙を拭おうとする手も震えていて、うまく拭えなかった。
「命令されたから仕方ないって言えばいいの!? 首輪があったから、私のせいじゃないって言えばいいの!? じゃあ、捕まった子たちは戻ってくるの!? 死んだみんなは戻ってくるの!?」
リシアは息を吸おうとして、うまく吸えなかった。
嗚咽が混じる。
それでも、言葉は止まらない。
「私が見せたんだよ!! 私が騙したんだよ!!
私が……私が、みんなを……売ったんだよ!!」
最後の言葉で、リシアの膝が崩れかけた。
けれど、誰かに支えられることを拒むように、馬車の壊れた板に手をついて踏みとどまる。近づこうとしたユリウスが足を止めた。ノエルも、治療のための手を伸ばしかけて、リシアの目を見て止める。
触られたくない。
その目が、そう言っていた。
レクスは少しだけ近づき、けれどリシアが嫌がらない距離で止まった。
「全部は分からない」
リシアは泣いたまま睨んだ。
「分からないなら、黙っててよ!!」
「俺は、その子たちじゃない。だから許すとか、許さないとかは言えない」
「だったら何も言わないで!! 優しいこと言われても、消えないの!!」
レクスは頷いた。
「でも、命令したやつも悪いだろ」
リシアの顔がくしゃりと歪んだ。
リシアの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
けれど、すぐに怒りが戻ってきた。言われたくらいで、胸の中にこびりついたものは消えなかった。
「そんなの、分かってる!!」
声がまた大きくなった。
「分かってるのに、消えないの!! 悪いのが私だけじゃないって言われても、私が見せた幻でみんなが走ったことは消えないの!! 私の声を信じた子が、私の幻に走ったことは消えないの!!」
レクスは黙った。
言葉を探している顔ではなかった。リシアを納得させる言葉を持っていないことを、分かっている顔だった。
少しして、もう一度だけ言う。
「じゃあ、今すぐ消えなくてもいい」
リシアの目が揺れた。
「……は?」
「消えないなら、今すぐ消えなくてもいい。でも、リシア一人で持つな。重いなら、少し持つ」
リシアは泣きながら、呆れたように口を開いた。
「なに、それ……荷物みたいに言わないでよ……」
「重いものは、一人で持つより二人で持った方がいい。父ちゃんが言ってた。肉でも薪でも、水でも、無理に一人で持つと落とす」
ユリウスが目元を押さえた。
「そこで肉と薪の話にするの、レクスらしいけど……今は、なんか、否定しづらいな」
ノエルが静かにリシアへ声をかける。
「泣いても、傷は消えません」
リシアが顔を上げた。
「……治療みたいに言わないで」
「治療ではありません。倒れそうな人に、倒れる前の呼吸を教えているだけです。泣くなと言いません。でも、息はしてください。話すのは、その後でいいです」
ノエルの声は冷静だった。
けれど、冷たくはなかった。
リシアは泣きながら、何度も息を吸った。うまく吸えず、途中で嗚咽が混じる。それでも少しずつ、肩の震えは小さくなっていった。
ユリウスは、その間ずっと黙っていた。
やがて、低い声で言う。
「リシア、俺は……ごめん。今、何を言っても軽くなる。奴隷制度を知っていた側で、貴族の家の人間で、そんな俺が何を言っても、たぶん軽い」
リシアは涙で濡れた目だけを向けた。
ユリウスは逃げずに続ける。
「でも、ヴァルクハイン家の名で約束する。君を売らせない。他の獣人たちも、売らせない。それだけは、俺が父上に通す。絶対に通す」
「……貴族の約束なんて」
「信用できないだろうな。分かる、なんて軽く言わない。でも、言った以上は俺が動く。信じなくていい。見ていればいい」
リシアは答えなかった。
ただ、顔を背ける。
その横顔には、涙の跡がはっきり残っていた。
しばらく、誰も話さなかった。
林の奥で、兵士が荷を動かす音がした。遠くで誰かが泣いている声も聞こえる。けれど、レクスたちの周りだけは、壊れた檻の中に残されたみたいに静かだった。
リシアは袖で目元を乱暴に拭った。
拭いきれていない。頬には涙の跡が残り、声もまだ震えている。
「……見ないで」
レクスは素直に少し視線を外した。
ユリウスも慌てて横を向く。
ノエルだけは、倒れないか確認するように静かに見ていた。
リシアは鼻をすすり、手首の鎖跡を隠すように袖を引っ張った。
「泣いたからって、信じたわけじゃない」
声はまだ震えていた。
けれど、リシアは無理やり顎を上げた。涙の跡を残したまま、いつもの棘を拾い直そうとしている。
「行くだけ。ここに残るより、少しだけましだから。売られないって言葉を信じたんじゃない。あなたたちが変な人間だから、見張るだけ」
レクスは真剣に頷いた。
「分かった。信じてないリシアを連れて行く」
リシアは涙の跡を残したまま、呆れたように目を細めた。
ユリウスがようやく耐えきれずに声を上げる。
「言い方!! いや、意味は合ってるけど、もう少しこう、気を遣った言い方があるだろ!」
リシアは涙の跡を残したまま、少しだけ呆れた顔をした。
「……本当に変な人間」
レクスは首を傾げる。
「変なのか?」
「変だよ。普通は、泣いた女の子に“信じてないまま連れて行く”なんて言わない」
「でも、信じてないんだろ」
「そうだけど」
「じゃあ、間違ってない」
ユリウスが頭を抱えた。
「正しいけど、正しければいいわけじゃないんだよなあ……!」
ノエルの口元が、ほんの少しだけ動いた。
「レクスらしいと言えば、かなりレクスらしいです」
「それ、褒めてるのか?」
「判断しかねます」
「ノエルまで!」
リシアは、そのやり取りを見ていた。
まだ笑わない。
でも、さっきまでのように、すべてを遠ざける顔ではなかった。ほんの少しだけ、距離が変わった。
鎖が消えたわけじゃない。過去がなくなったわけでもない。
それでも、今だけは、同じ場所に立っていた。
兵士たちが獣人たちの移動準備を整え始める。
ノエルは負傷者の状態を確認し、ユリウスは護衛の配置を決める。レクスはリシアが歩き出すまで、その場で待った。急かさなかった。近づきもしなかった。
リシアは壊れた檻を一度だけ振り返った。
そこに、自分が座っていた場所がある。
鎖の擦れた床がある。
泣いていた子どもたちの跡がある。
そして、自分の幻で仲間を走らせた記憶がある。
リシアは唇を噛み、前を向いた。
「行くだけだから」
レクスは頷いた。
「分かった。行くだけでいい」
南街道の夕日は、林の向こうで赤く沈みかけていた。
鎖は外れた。
檻も開いた。
けれど、リシアの中に残ったものは、まだ消えていない。
それでも彼女は、一歩だけ踏み出した。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
現在、第3章まで準備ができております。
ここから仲間たちとの関係や、レクスが向き合うものもさらに大きくなっていきます。
引き続き読んでいただけると嬉しいです。




