第2話 いるはずのない魔物
昨日倒した猪型魔物の足跡は、朝になっても山の土に残っていた。
血の匂いは薄くなっていたが、湿った地面には乱れた跡がいくつも刻まれている。木の根を踏み外した跡。爪先で土を削った跡。真っ直ぐ降りてきたのではなく、何度も足を取られながら転がるように逃げてきた跡だった。
昨日の朝よりも、山は静かだった。
風はある。葉も揺れている。けれど、小さな鳥の声が少ない。木の根元を走るはずの小動物の気配も薄い。レクスは腰に剣を下げ、足跡の横にしゃがんだまま、鼻先を少し動かした。
昨日の獲物は、夜のうちに処理してある。肉は干し、骨は使える分だけ分け、皮も乾かしている。けれど、こうして足跡を追っていると、レクスの目はやはり少し輝いた。
「奥に行けば、もっと肉がいるってことか!」
後ろで大剣を背負っていたガレンが、朝の山に響くほど笑った。
「ガハハ! お前の頭の中じゃ、山奥は肉が勝手に吊るされてんのか! 違うぞ、レクス。山の肉は走るし、噛むし、こっちを殺しに来る!」
「でも倒せば肉だ!」
「倒せればな! 倒す前に食われたら、お前が肉だ! ガハハ!」
「俺は食いにくいと思うぞ!」
「そういう話じゃねえ!」
ガレンはそう言いながらも、口元に笑みを残していた。レクスは頬を膨らませたが、すぐに足跡へ視線を戻す。昨日の猪型魔物がどう逃げてきたのか。それを見誤れば、次に何が来るか分からない。
ガレンはレクスの隣にしゃがみ、太い指で土の乱れをなぞった。
「食えるかどうかは三番目だ。一番目は食われねえこと。二番目は生きて帰ることだ」
「三番目には入るんだな!」
「山じゃ、食えるかどうかを忘れるやつも死ぬ。順番を間違えるなって話だ。食い物は命だが、命を捨てて取りに行くもんじゃねえ」
「……分かった。食う前に死なない」
「分かってる顔じゃねえな。今、まだ肉のこと考えてただろ」
「……少しだけだ」
「やっぱり考えてんじゃねえか!」
ガレンはレクスの頭を乱暴に小突いた。レクスはむっとして頭を押さえるが、足跡から目は離さなかった。猪型魔物の足は、山奥から外縁へ向かっている。餌を探した足ではない。逃げる足だ。
土の削れ方が深い。後ろ脚が何度も滑っている。太い身体を支えきれず、木の根にぶつかった跡もある。あちこちで向きを変えようとして、結局まっすぐ下へ逃げるしかなかったような乱れ方だった。
「歩いたんじゃないな。これ、転がるみたいに逃げてる」
レクスが言うと、ガレンの片眉が少し上がった。
「おう。昨日よりは見えてるじゃねえか」
「褒めたか?」
「調子に乗るな。まだ途中だ」
「途中でも褒めた」
「聞こえがいいところだけ拾うな!」
ガレンは呆れた声を出したが、目は笑っていなかった。
レクスもそれに気づいた。ガレンは猪型魔物の足跡を見ている。だが、見ているのは足跡そのものではない。その先に何がいたのかを探っている顔だった。
「昨日の猪は、縄張りを広げたんじゃねえ。何かを避けて下へ降りてきた」
「じゃあ、追ったやつがいるってことか」
「いるかもしれねえ。だから見に行く」
レクスは立ち上がり、山奥へ続く獣道を見た。いつもなら、山の奥へ行くと聞けば少し胸が弾む。知らない獲物がいるかもしれない。大きな肉が取れるかもしれない。ガレンに褒められるかもしれない。
けれど今日は、ガレンの笑みが消えている。
それが、少しだけ気になった。
二人は山道から外れ、獣道を進んだ。
そこはレクスたちの生活圏に近い場所だった。洞穴から半刻ほどの距離にある罠場。小動物を捕るための縄罠や落とし穴があり、少し奥には獲物を一時的に吊るすための岩陰の干し場がある。
冬を越すための場所だ。
レクスは歩きながら、周囲の匂いを嗅いだ。湿った土。木の皮。古い血。昨日処理した肉のかすかな匂い。だが、いつもならある小動物の気配が薄かった。罠に近づく小さな足音も、枝を揺らす鳥の声も、今朝はほとんどない。
「……静かすぎる」
レクスが言うと、ガレンが短く頷いた。
「鳥も少ねえ。小さい足跡も消えてる。何かが通った後だ」
罠場に着いた時、レクスは思わず足を止めた。
小動物用の罠が潰れていた。縄は切れていない。噛み切られたのでもない。重いものに踏まれ、支えの枝が折れている。罠にかかった獲物を食べた跡ではなかった。ただ、そこを何かが通り、何もかも押し潰していったような壊れ方だった。
近くの木の皮も削れている。普通の鹿型魔物が角を擦ったような細い跡ではない。もっと低く、もっと荒い。硬い何かがぶつかりながら走った跡だ。
レクスはさらに先を見て、目を見開いた。
深い蹄の跡が、岩陰の干し場の方へ向かっている。
「……父ちゃん。これ、干し場の方へ向かってないか?」
「気づいたか」
「干し肉の匂いを追ってる!? 駄目だ!! あれは冬まで持たせる肉だぞ!!」
レクスの声が大きくなった。
ただの食い意地ではない。干し肉は、今食べるためだけのものではない。冬、獲物が減った時に生き延びるためのものだ。山では、今日腹がいっぱいでも、冬に食えなければ死ぬ。
その場所へ、何かが近づいている。
レクスの胸の奥がざわついた。
ガレンは、そんなレクスの顔を横目で見た。
「そうだ。食い物を取られるってのは、今腹が減るだけじゃねえ」
「冬に食えなくなる」
「そうだ。山じゃ、冬に食うもんがねえってのは、春まで息が続かねえってことだ」
「……だったら、絶対に通せない!」
レクスは拳を握った。
ガレンが少しだけ口元を上げる。
「いい顔になったな。肉のためだけじゃねえ。生きるために守れ」
「肉も生きるためだろ!」
「そうだ! だからこそ、守り方を間違えるな!」
二人は蹄跡を追った。
足跡は鹿型魔物に似ていた。けれど深さが違う。普通の鹿型魔物より重い。しかも速い。木の根を避け、斜面を滑り、ところどころで急に方向を変えている。
レクスは膝をつき、土に残った跡を指でなぞった。
「これ、鹿型か?」
ガレンもしゃがみ、蹄跡を見た。
「鹿型魔物にしちゃ深すぎる。脚が速いだけじゃねえ。重い」
「重くて速いなら、強いな!」
「強いより先に、おかしいと思え。こいつはこの辺に出るやつじゃねえ」
ガレンの声が低くなった。
レクスは顔を上げる。
「この辺に出ない?」
「ああ。本来はもっと奥だ。冷たい岩場の方にいる。外縁まで降りてくるようなやつじゃねえ」
「じゃあ、なんでここにいるんだ?」
「それを見に来たんだろうが」
ガレンはゆっくり立ち上がった。
その時、山の奥で枝が折れた。
レクスは反射的に剣の柄へ手を伸ばす。ガレンも大剣の柄に触れていた。風が変わる。獣の匂い。濡れた毛。血。泥。鋭い、肉食の気配。
黒い影が、木々の間を横切った。
鹿のような脚。だが、鹿ではない。口元から覗く黒い牙。額には短く歪んだ角。細い身体ではなく、筋肉の詰まった重い胴。木々を縫うように走りながら、まるで斜面を蹴り飛ばすように進んでくる。
さらに、肩から首筋にかけて、黒い筋のようなものが薄く走っていた。泥か、血か、影か。レクスには分からない。ただ、その黒さだけが、山の獣の毛並みとは違って見えた。
黒牙鹿型魔物。
その魔物は、レクスたちへまっすぐ向かってこなかった。
横へ抜けようとしている。
岩陰の干し場がある方へ。
レクスの目が鋭くなる。
「あいつ、こっちを狙ってない……干し場の方へ行く!!」
ガレンが大剣を抜いた。
「見えたなら動け! 干し場へ抜かせるな!!」
「父ちゃん、あっちには干し肉がある!!」
「分かってる! 殺す前に、まず流れを曲げろ!!」
黒牙鹿型魔物が跳ねた。
速い。
猪型魔物の突進とは違う。重いのに、方向転換が速い。木の間を抜け、斜面を蹴り、身体を倒しながら干し場側へ進もうとする。真正面から止めれば、弾かれる。
レクスは横へ走った。
黒牙鹿型魔物の進路へ入ろうとするが、距離が足りない。干し場へ続く岩陰は、もう木々の向こうに見えている。地面が悪い。足元に落ち葉が溜まり、木の根が絡む。相手はその隙間を知っているように滑り抜けていく。
「間に合わない!!」
胸の奥が熱くなった。
あの感覚が来る。
呼吸が変わりそうになる。視界が狭まり、脚の奥から熱が立ち上がる。爪先が地面を掴み、もっと速く走れる気がした。
けれど、その瞬間、ガレンの怒鳴り声が山に響いた。
「使うな!! お前の身体を壊して守った干し肉なんざ、俺は食わねえ!! 冬の命を守るために、今のお前を壊すな! 足で追え! 頭で曲げろ!!」
レクスは歯を食いしばった。
熱を飲み込む。
息を吐く。
あの力ではなく、足を見る。土を見る。魔物の脚の向き、跳ぶ先、次に踏む木の根。真正面では間に合わない。なら、進路の先ではなく、進路を曲げる場所へ入る。
「……止めない。遅くする!」
レクスは黒牙鹿型魔物の後ろ側へ回った。
魔物が干し場側へ抜けようとした瞬間、レクスは木の根を踏み台にして横から剣を伸ばす。狙うのは急所ではない。後ろ脚の外側。深く切れば肉も動きも壊れる。浅く、速く、足を少しだけ鈍らせる。
刃が入った。
黒牙鹿型魔物の脚がわずかに乱れる。
「遅くするだけでいいのか!?」
レクスが叫ぶと、ガレンが前へ出た。
「それで十分だ!! 止めるのは俺がやる!!」
ガレンの大剣が、黒牙鹿型魔物の進路を塞いだ。
ただ受けるのではない。大剣の腹で突進の角度をずらし、魔物の頭を干し場側から外へ向ける。黒牙鹿型魔物は跳ねようとしたが、さっきレクスが傷つけた後ろ脚が一拍遅れた。
その一拍だけで、ガレンには十分だった。
「今のはいい! そのまま離れろ!」
「今のも褒めたな!」
「戦闘中に喜ぶな、馬鹿野郎!」
レクスは笑いそうになりながらも、すぐに後ろへ跳んだ。
次の瞬間、ガレンの大剣が黒牙鹿型魔物の肩口へ入る。重い音とともに毛皮が裂け、魔物の身体が横へ流れた。レクスはその流れに合わせ、首筋の薄い部分へ剣を入れる。
黒牙鹿型魔物が暴れた。
ガレンが一歩踏み込み、大剣を振り下ろす。
巨体が地面に崩れ落ちた。
戦闘は、長くは続かなかった。
けれど、レクスの息は荒かった。身体強化を使わなかったのに、胸の奥にはまだ熱の残りがある。あれが出ていたら、もっと速く動けただろう。けれど、ガレンは食わないと言った。
お前の身体を壊して守った干し肉なんざ、俺は食わねえ。
その言葉が、変に胸に残っていた。
ガレンは倒れた魔物ではなく、まずレクスに近づいた。
「見せろ」
「裂けたのは布だけだ!」
「俺が見る!」
ガレンはレクスの肩布を引き、牙が掠めた場所を見る。布は裂けていたが、肌までは届いていない。ガレンはそれを確認してから、ようやく息を吐いた。
「半歩遅れてたら、肩ごと持っていかれてたぞ」
「……でも避けた」
「避けたから怒ってんだ。避けられたやつは、次に同じことをやる」
レクスは言い返そうとして、やめた。
たしかに、自分は今「避けられた」と思った。次もいけると思いかけていた。それをガレンは見抜いている。
レクスは少しだけ悔しそうに視線を落とした。
「分かった。次は半歩前に見つける」
「そうしろ。半歩が命だ」
ガレンはそこでようやく、倒れた黒牙鹿型魔物を見た。
レクスもつられて見る。
「こいつ、食えるのか?」
ガレンは一瞬だけ黙り、それから声を上げて笑った。
「ガハハ! お前は本当にぶれねえな!」
「食えるかどうかは三番目なんだろ?」
「そうだ。三番目だ。だが、今日はその前に覚えとけ!」
ガレンは黒牙鹿型魔物の脚を見る。
蹄が割れていた。硬い岩場を走る魔物の足が、柔らかい外縁の土で無理に曲がり、崩れている。毛の奥には古い傷があった。レクスたちがつけたものではない。肩や首の近くに、小さな裂け目がいくつもある。
ガレンはその一つに指を入れ、何かを引き抜いた。
細い破片だった。
山の石ではない。獣の骨でもない。鉄にも見えるが、普通の鉄ではなかった。表面は黒く焦げたように濁り、端には薄い線が刻まれている。模様にも、文字にも見えるそれは、泥と血に汚れてもまだかすかに残っていた。
レクスは眉を寄せた。
「それ、何だ?」
「……箱の欠片だ」
「箱?」
「ああ。封印箱の欠片だ」
ガレンは破片を鼻先へ近づけ、すぐに顔をしかめた。
「……嫌な匂いだ」
レクスも鼻をひくつかせる。
「血じゃないな。鉄でもない……でも、獣みたいな匂いもする」
ガレンは破片を布に包もうとして、ほんの一瞬だけ手を止めた。
その顔を見て、レクスは変だと思った。
父ちゃんは、黒牙鹿型魔物を見ても笑っていた。
突進を受けても怒鳴っていた。
なのに、その小さな欠片を見た時だけ、笑わなかった。
「父ちゃん?」
「覚えとけ。こういう匂いがするもんは、山の外へ出しちゃならねえ」
ガレンは封印箱の欠片を布に包んだ。いつものようにすぐ説明はしない。その顔を見て、レクスの胸がざわつく。
「こいつが昨日の猪型魔物を追ったんじゃないのか?」
「追った可能性はある。だが、原因はこいつじゃねえ」
「どういうことだ?」
ガレンは黒牙鹿型魔物の蹄を見た。
走ってきた方向。逃げてきた傷。奥の泥。身体に残った封印箱の欠片。
「こいつが追ったんじゃねえ。こいつも、追われてる」
ガレンは布に包んだ封印箱の欠片を握り込んだ。
「山が勝手に変わったんじゃねえ」
「え?」
「誰かが、山に手を突っ込んでやがる」
レクスは山の奥を見た。
昨日の猪型魔物が逃げてきた。今日の黒牙鹿型魔物も逃げてきた。しかも、生活圏まで来た。罠場を壊し、干し場へ向かった。
山の奥で、何かが起きている。
「これより強いやつが奥にいるのか?」
「分からねえ。だから厄介なんだ」
「奥を見に行くのか?」
「今は行かねえ。情報が足りない」
「山のことなのに、街で分かるのか?」
ガレンは布に包んだ封印箱の欠片を懐に入れた。
「街道に魔物が出てりゃ、街の連中が騒ぐ。素材の流れが変わってりゃ、商人が気づく。山だけ見て山を分かった気になるな」
「商人って、父ちゃんが塩を買う相手か?」
「ああ。あいつなら、妙な素材が流れた時も、街道で変な噂が出た時も耳に入る」
「じゃあ、その人に聞きに行くのか?」
「そうだ。ついでに塩と布も買ってくる」
レクスには、街のことはよく分からない。
街道。商人。素材の流れ。
どれも山の洞穴で暮らしているだけなら必要のない言葉だった。けれどガレンは知っている。山だけでは分からないことがあると、ガレンは言っている。
街。
肉も、塩も、布も、鉄もある場所。ガレンが時々下りていくのに、レクスだけは一度も連れて行かれたことのない場所。
山の奥とは違う怖さがあると、父は言う。それでも、見たことのない場所の話をされると、レクスの胸は勝手に少し弾んだ。
なら、行くしかない。
「じゃあ俺も行く!」
「駄目だ」
返事は早かった。
レクスは目を見開く。
「なんでだ? 俺も戦える! 今日だって干し場へ通さなかった!」
「戦えるのは知ってる。だが街は魔物より面倒だ」
「魔物より?」
「そうだ。魔物は腹が減ってりゃ襲ってくる。怖けりゃ逃げる。分かりやすい。だが街は違う。笑って近づいてくるやつもいる。お前を見て、勝手に何かを決めるやつもいる」
レクスは首を傾げた。
「勝手に何かを決めるって、何を?」
ガレンはレクスを見た。
その目は、山の奥を見る時とは違う重さを持っていた。
「そういうのが分からねえから駄目なんだよ」
「……分からないなら、見れば分かるかもしれないだろ」
「その前に捕まるかもしれねえ」
「俺は魔物じゃないぞ」
「街じゃ、そういう話だけで済まねえ時がある。お前が何者かなんて、お前より先に周りが決めることがある」
「俺が何者かは、俺が知ってるだろ?」
ガレンは答えなかった。
その沈黙が、レクスには少しだけ気に入らなかった。
レクスは納得できず、口を引き結んだ。
ガレンはその顔を見て、少しだけ笑みを戻した。
「なあに、すぐ戻る! 肉を干しておけ! あと、塩を切らすな!」
「塩を買いに行くのに、塩を切らすなって変だ!」
「だから切れる前に行くんだよ!」
「俺も行けば、荷物持てる!」
「お前が行くと、荷物より面倒なことが増える!」
「ひどい!」
「事実だ!」
ガレンはガハハと笑った。
けれど、その手は大剣の柄から離れなかった。
風が木々を揺らす。遠くで鳥が飛び立つ音がした。昨日よりも、山の奥が静かに感じる。静かすぎる。獲物がいない静けさではない。何かから息を潜めているような静けさだった。
ガレンは山の奥を見て、それから街道の方へ目を向けた。
「街で、少し聞いてくる」
それが、ガレンが山を出る理由になった。
レクスはまだ知らない。
父が街へ下りることは何度もあった。塩を買い、布を買い、鉄を買い、夕方には肉の匂いを背負って戻ってくる。それが、いつものことだった。
けれど、この日だけは、ガレンの手が大剣の柄から長く離れなかった。
そして山の奥は、昨日よりもずっと静かだった。




