第1話 山の子
洞穴の前で、干し肉が揺れていた。
細く裂かれた猪型魔物の肉が、木の枝に渡した縄から何本も吊るされている。朝の風が吹くたびに、薄く乾いた肉がかすかに揺れ、煙と塩と獣の匂いが洞穴の周りに広がった。山の朝は冷たい。けれど、火のそばだけは昨日の熱がまだ残っていた。
その時のレクスは、まだ知らなかった。
父の怒鳴り声で目を覚まし、干し肉を巡って言い合い、山の匂いの中で笑う日々が、当たり前ではなかったことを。
ただ、その朝は少し静かだった。
いつもなら遠くで鳴く鳥の声が、今日は薄い。風は吹いているのに、山の奥だけが息を潜めているような気配があった。レクスはその静けさに気づかないまま、干し肉の前に立って、真剣な顔で一枚を見つめていた。
腰には短めの剣。背は三年前より伸び、腕にも少しずつ筋肉がついている。けれど、肉を前にした時の目の輝きだけは、子どもの頃からまるで変わっていなかった。
「父ちゃん」
「あ?」
洞穴の脇で薪を割っていたガレンが、斧を肩に担いだまま振り返る。大剣は洞穴の壁に立てかけられ、朝日を受けて鈍く光っていた。
レクスは干し肉を指さし、真剣そのものの顔で言った。
「これ、もう食えるだろ?」
ガレンは一瞬だけ黙った。
それから、山に響くほど豪快に笑った。
「ガハハ! 朝起きて最初に聞くのがそれか! お前の頭ん中は胃袋から始まってんのか!」
「大事だろ! 干しすぎたら硬くなる。硬くなりすぎると、噛むのに時間がかかる。戦う前に食うなら、ちょうどいい硬さが大事だぞ!」
「理屈をつけりゃ何でも許されると思うな! それは昼用だ。朝は昨日の残りを食え!」
「昨日の残りはもう食った!」
「いつだ!?」
「起きてすぐ。冷めても脂が残ってた。悪くなかった!」
「感想を聞いてんじゃねえ! 勝手に食うなって言ってんだ!」
「でも、置いておいたら獣が来るかもしれないだろ。先に食った方が安全だぞ!」
「その理屈で干し肉まで食おうとしてただろうが!」
ガレンは斧を地面に突き立て、大股でレクスの前まで来た。レクスは干し肉を守るように一歩横へ動く。ガレンの眉がぴくりと動いた。
「おい。今、隠したな」
「隠してない。風から守った」
「干してんだよ! 風に当てるための肉だ! 肉を心配する前に、自分の修行を心配しろ!」
その言葉に、レクスの顔が少しだけ引き締まった。
「今日もやるのか?」
「当たり前だ。昨日、お前は突進を流す時に足を滑らせた。あれは猪型魔物なら腕が痺れる程度で済むが、黒牙鹿型魔物なら肩ごと持っていかれる」
「昨日のは土が思ったより柔らかかったんだぞ」
「それを見抜けなかったのが悪い! 山は言い訳を聞かねえ。土が柔らかかった、風が変わった、足場が悪かった――そんなことを死んでから言っても、誰も聞いちゃくれねえ!」
ガレンの声は荒いが、そこに冷たさはなかった。レクスは口を尖らせながらも、ちゃんと聞いていた。ガレンが怒鳴る時は、だいたい生き残るための話をしている。
それが分かっているから、レクスも完全には反発しない。
「じゃあ、今日は足場を見る!」
「足場だけじゃねえよ! 匂いも、風も、獲物の腹の減り具合も見ろ!」
「腹の減り具合?」
「腹を空かせた魔物は突っ込み方が雑になる。逆に追われてる魔物は逃げ道を選ぶ。どっちも同じ突進に見えるが、狙う場所が違う!」
レクスは少し考え、それから干し肉を見た。
「腹が減ると雑になるのは分かるぞ」
「お前で実感すんなよ!」
ガレンは呆れたように言ったが、口元には笑みが残っていた。レクスも少し笑う。朝の洞穴には、煙の匂いと肉の匂いと、親子の声が混ざっていた。
レクスは干し肉を見上げたまま、ふと思い出したように言った。
「父ちゃん。街にも、こういう肉はあるのか?」
ガレンの笑いが、ほんの一瞬だけ止まった。
薪を割っていた時よりも短い沈黙だった。けれど、レクスには分かった。父ちゃんが山の獣を見つけた時と同じように、少しだけ気配を読んだ顔になっていた。
「ある。肉も、塩も、布も、鉄もある」
「じゃあ、街っていい場所なんじゃないか?」
「いい物がある場所と、いい場所は違う!」
レクスは首を傾げた。
「どう違うんだ?」
ガレンは大剣の方へ一度だけ目を向け、それからいつものように口元を歪めた。
「山の魔物は腹が減ったら襲ってくる。分かりやすい。だが街には、腹が減ってなくても笑って近づいてくるやつがいる」
「笑ってるなら危なくないだろ」
「ガハハ! お前はまだそう思ってりゃいい。ただ覚えとけ。街で腹を見せるな。肉も、名前も、力も、持っていかれる時は一瞬だ」
「名前も?」
「ああ。街じゃ、自分で名乗る前に、誰かが勝手にお前の呼び方を決める。そういう場所だ」
レクスは干し肉から視線を外し、少しだけ真面目な顔になった。
「勝手に呼ばれるのは嫌だな」
「だったら、持っていかれねえように立て。名前も、力も、腹もな」
「腹も?」
「お前の場合、そこが一番心配だ」
「腹は大事だろ!」
「だから心配なんだよ!」
ガレンはそう言って笑った。
だが、笑い終える前に、ふと山の方へ目を向けた。斧を持つ手が止まる。レクスもその変化に気づき、干し肉から顔を上げた。
「父ちゃん?」
「……少し下の斜面だな」
「何かいるのか?」
「いる。鼻を鳴らす音がする。土を掘る音と、泥の匂いも混じってる。猪型魔物だ」
レクスの目が輝いた。
「猪型魔物!」
「喜ぶな。修行相手だ!」
「でも食える!」
「だから喜ぶなって言ってんだろ!」
ガレンは壁に立てかけていた大剣を背負い、レクスへ顎をしゃくった。
「来い。今日の修行は、足場を見ることと、食える殺し方だ」
レクスはすぐに剣を確かめた。さっきまで干し肉に向いていた顔が、山へ向いた瞬間に少し引き締まる。まだ明るさは残っている。けれど、目だけは真剣だった。
「食える殺し方なら得意だぞ!」
「いやいや、昨日、余計な傷を入れたやつが言うことじゃねえな! 昨日の肉に謝れ!」
「あれは猪が暴れたからだ!」
「暴れさせたお前が悪い!」
「今日は暴れさせないぞ!」
「ガハハ! その言葉、肉の前でもう一回言えるようにしろ!」
ガレンは笑いながら歩き出した。レクスはその背中を追う。洞穴の前に吊るされた干し肉が、朝の風でまた小さく揺れた。
山道を下るにつれて、土の匂いが濃くなる。洞穴の周りは踏み固められていたが、少し離れると木の根が地面を持ち上げ、湿った落ち葉が足元に溜まっていた。レクスは歩きながら、さっきガレンに言われたことを思い出す。
土。風。匂い。腹の減り具合。
そして、食える殺し方。
しばらく進むと、二人は斜面上の岩場に出た。木々の隙間から、下の開けた場所が見える。湿った土の近くで、一体の猪型魔物が鼻先を地面につけていた。
普通の猪より一回り大きい。肩は岩のように盛り上がり、左右に伸びた牙が朝日を受けて白く光っている。前脚で土を掘り返すたびに、湿った泥が跳ねた。
レクスは身を乗り出した。
「でかいな……あれ、脂がのって絶対うまいぞ!」
ガレンが隣で、豪快に笑う。
「ガハハ! 食える! だが食う前に、お前が食われねえか試してみっか!」
レクスの表情が固まった。
「……父ちゃん? 今の言い方、すごく嫌な感じがするんだけど」
「いい勘してんじゃねえか!」
次の瞬間、ガレンの手がレクスの革帯をがしっと掴んだ。
「じゃあ、レクス! これから修行だ! ガハハ!」
「待て待て待てー!! それは修行って顔じゃない!!」
「着地も修行だ!! おりゃーー!!」
「うわああああああーーー!! 父ちゃーーーん!!」
レクスの身体が、朝の山へ放り出された。
風が耳元で鳴った。視界の端で木々が流れ、斜面の土と木の根が一気に近づく。レクスは空中で必死に身体をひねり、腰の剣が鞘の中で揺れる音を聞いた。
落ちる先は湿った泥ではなかった。木の根が張った硬い場所だ。猪型魔物との距離も、即座に牙が届くほど近くはない。剣を抜く時間がある。ガレンは、それを全部見切った上で投げている。
分かるからこそ、腹が立った。
レクスは木の根の横へ着地し、勢いを殺しきれず片膝をついた。土が跳ね、手のひらに冷たい感触が広がる。顔を上げると、猪型魔物が鼻先をこちらへ向けていた。
「……父ちゃん。猪がこっち見てるぞ」
「ガハハ! そりゃそうだ! 目の前に人が降ってきたら見るだろうが!!」
「自分で言うな!!」
「正面で止めるなよ! お前の剣じゃ押し返せねえぞ!」
「分かってる!! でも投げる前に言え!!」
猪型魔物が地面を蹴った。
低い突進だった。太い牙が土を削り、肩の筋肉が波打つ。真正面から受ければ、レクスの身体ごと弾かれる。剣で止める相手ではない。曲げる相手だ。
レクスは剣を抜き、左へずれようとした。
その瞬間、足元の土が沈んだ。
「っ!」
湿った土が靴裏を滑らせる。レクスの身体が一瞬傾き、猪型魔物の牙が腹の前を掠めた。服の端が裂け、腹の皮膚に熱い線が走りかける。
胸の奥が、一瞬だけ嫌な熱を持った。
勝手に身体が前へ出ようとする。視界が狭くなり、猪型魔物の喉元だけが妙に近く見えた。だが、レクスは歯を食いしばり、その熱を押し込めた。
あの力は、今は使うな。
レクスは剣の腹を牙に当て、必死に角度をずらす。腕に鈍い衝撃が走り、肩まで痺れた。猪型魔物はレクスの横を抜け、木の根に前脚を取られて体勢を崩す。だが、倒れない。
岩場の上から、ガレンの怒鳴り声が飛んだ。
「バカが!! そっちは滑る!! 足を置く前に土を見ろって何回言わせんだ!」
「見てる! でも思ったより滑った!」
「それを見てねえって言うんだよ! バカたれが!!」
「投げられた直後に全部見れるか!!」
猪型魔物は太い首を振り、怒ったように土を蹴った。
レクスは痺れた腕を振った。悔しさで歯を食いしばる。今のは危なかった。投げられたからではない。土を見切れなかった自分が悪い。
「もう一回だ!」
低く言うと、岩場の上のガレンが笑った。
「おっ! その顔は悪くねえ! 今度は胃袋じゃなく足元を見てるな!」
「最初から見てるよ!」
「じゃあ今度は滑るなよ!?」
猪型魔物が再び突っ込んでくる。
今度は、レクスは左へ逃げなかった。湿った土を避け、木の根が地面から盛り上がっている場所へ足を置く。硬い。滑らない。突進の真正面には立たず、半歩だけ早く横へ入る。
「今度は滑らない!!」
「口じゃなく足で証明しろ!!」
猪型魔物の牙が迫る。
レクスは剣の腹を添え、力で止めずに流した。牙の向きが少し逸れる。巨体は勢いを殺せず、木の根へ前脚を乗せる。その瞬間、身体がわずかに浮いた。
今だ。
レクスは横へ回り込み、脚の付け根を狙った。肉を裂きすぎない。深く切りすぎると血抜きが面倒になる。動きを止める場所だけを切る。
刃が入った。
猪型魔物が悲鳴を上げ、前脚を崩す。それでも暴れようとするが、レクスはもう一歩踏み込み、首筋の薄い部分へ剣を入れた。
巨体が数歩よろめき、湿った土の上へ倒れ込んだ。
地面が重く鳴る。
レクスはすぐには近づかなかった。剣を構えたまま息を整え、猪型魔物の脚、耳、腹の動きを見る。まだ動くか。反撃はあるか。完全に力が抜けたか。
しばらくして、猪型魔物の身体から力が抜けた。
レクスの顔がぱっと明るくなる。
「よし! 倒した!! 食えるぞ!!」
「まず生きてるか確認しろ! 食えるかどうかはその後だ!」
「確認した!」
「なら次は自分の怪我だ!」
ガレンが岩場から降りてきた。大剣を背負ったまま、大股で近づく。レクスは胸を張って褒められる準備をしたが、ガレンは猪型魔物ではなく、真っ先にレクスの腕を掴んだ。
「腕、動くか! 腹は裂けてねえな! 足は!?」
「大丈夫だって!」
「大丈夫かどうかは俺が見る! お前は自分の怪我より肉の傷を先に見るバカたれだからな!」
「父ちゃんが投げたんだろ!!」
「投げた先で生き残るのも修行だ!!」
ガレンは乱暴に見える手つきで、しかし傷の有無だけは正確に確認していく。腕を回させ、足を踏ませ、腹を見て、呼吸の乱れを見る。掴む手は荒いのに、傷を探す指先だけは驚くほど慎重だった。
レクスは口を尖らせていたが、ガレンの目が本気なのは分かっていた。
心配している時ほど、父ちゃんは怒鳴る。
「……怪我はないな」
「当たり前だ! 俺はちゃんと着地したぞ!」
「半分転がってただろうがよ!」
「着地の一部だぞ」
「ガハハ! 口だけは一人前だな!」
ガレンはようやく猪型魔物へ目を向けた。倒れた魔物の首筋、脚、腹を見て、太い眉を寄せる。
「殺し方はまだ雑だ。肉に余計な傷が入ってる」
「倒したのに怒るのか!?」
「怒る! 生きてるから怒れるんだ。死んでたら怒鳴れもしねえ! 肉にも申し訳ねえ!」
「……それは、まあ」
「それに、食える殺し方をしろ。食えねえ殺し方は下手だ。山じゃ、命を取るなら無駄にするな」
ガレンの声は少しだけ低くなった。
レクスは猪型魔物を見た。さっきまで突っ込んできた魔物。自分を弾き飛ばそうとした牙。暴れる脚。血の匂い。
倒したら終わりではない。
肉を食べる。皮を使う。骨も、牙も、捨てられるものは少ない。
命を取ったなら、無駄にするな。 それが山で生きるということだと、ガレンはいつも言っていた。
ガレンは傷口を見ながら、ふっと口元を緩めた。
「……だが、昨日よりはマシだな」
レクスの目が一気に輝いた。
「今、褒めたか!? 父ちゃん、今褒めたよな!?」
「うるせえ! “昨日よりは”って言ったんだ!」
「でも褒めた!! 今のは絶対褒めた!!」
「ガハハ! そういう時だけ耳がいいな、お前は!」
レクスは満面で笑った。さっきまでの痛みも、投げられた怒りも、腕の痺れも、その一言で少し軽くなる。ガレンは呆れたように笑いながら、背中の大剣を抜いた。
「喜んでる暇があるなら、よく見とけ。ここからが大事だ!」
ガレンは猪型魔物の脚を押さえ、大剣を構えた。
その剣は大きい。レクスの剣とはまるで違う。普通なら振り回すだけで周りの枝を折り、肉を潰し、骨を砕くような重さだった。
だが、ガレンの刃は迷わなかった。
骨と骨の継ぎ目へ正確に入り、硬い皮の下を滑り、余計な肉を潰さずに切り分けていく。力任せではない。重い剣なのに、細かい。
レクスは思わず身を乗り出した。
「父ちゃんの剣、でかいのに細かいこともできるんだな!」
「ガハハ! 剣がでかいから雑でいい、なんてことはねえ! 雑なやつは肉も命も無駄にする!」
「肉も命も?」
「同じだ。どっちも戻らねえ。だから雑に扱うな!」
ガレンはそう言って、血のついた刃を軽く振った。
その横顔は、いつもの豪快な父親のものだった。荒っぽくて、声が大きくて、すぐ笑う。レクスを投げるし、怒鳴るし、からかう。
けれど、命を無駄にすることだけは許さない。
レクスは、自分の手を見た。
戦闘中、ほんの一瞬だけ身体の奥が熱くなりかけた。三年前、黒角熊型魔物を倒した時のような、あの熱。牙が伸びる前の、爪が変わる前の、身体の奥から何かが起き上がる感覚。
レクスは少し迷ってから言った。
「父ちゃん」
「あ?」
「さっき、少し身体が熱くなりかけた」
ガレンの手が止まった。
大剣についた血を拭っていた布が、刃の上で止まる。さっきまで笑っていた口元から、笑みが消えた。
山の空気が、少し冷たくなった気がした。
「……使うな」
低い声だった。
怒鳴り声ではなかった。だからこそ、レクスは動けなくなった。猪型魔物に向けた声でも、修行で叱る時の声でもない。もっと深いところから出た、父の声だった。
ガレンの手は、大剣を握っていないのに、刃を受けた時みたいに強く固まっていた。
レクスは眉を寄せた。
「使おうとしたんじゃない! 勝手に来そうだったんだ」
「勝手に来るなら、来る前に終わらせろ。あれは切り札じゃねえ。お前を壊すもんだ」
「でも、あれが出たら強いだろ! 三年前だって、あれで父ちゃんを助けた!」
言った瞬間、レクスは少しだけ後悔した。
ガレンの目が、ほんのわずかに揺れたからだ。
三年前のことを、ガレンはあまり話さない。レクスが黒角熊型魔物を倒したことも、その後に倒れて動けなくなったことも、最後にガレンが何を呟いたのかも。
お前……も……か。
その言葉の意味を、レクスはまだ知らない。
ガレンは大剣をゆっくり拭い、声を押さえて言った。
「強いから、いいわけじゃねえ!」
「……でも」
「レクス」
名前を呼ばれただけで、レクスは口を閉じた。
ガレンの声は怒鳴っていなかった。だから余計に重かった。いつものように「馬鹿野郎」と笑ってくれた方が、ずっと楽だった。
「最初は生きるために使う。次は勝つために使う。そのうち周りが、それを待つようになる」
「周りが?」
「ああ。お前ならできる。お前なら勝てる。お前なら大丈夫だ。そう言われ続けると、いつの間にか、お前自身より先に力の方が呼ばれる」
ガレンは、そこで少しだけ声を低くした。
「力が先に呼ばれるようになったら、人間の方は置いていかれる」
「……よく分からない」
「今は分からなくていい。だが覚えとけ。あれを出さずに勝てるなら、それが一番強い」
レクスは自分の指を握った。
あの力が出た時、自分は父を助けられた。黒角熊型魔物を倒せた。死なずに済んだ。
なのに、ガレンは一度も喜ばなかった。
三年前も。今も。
「俺、もっと強くなりたいだけだぞ」
レクスが小さく言うと、ガレンはしばらく黙った。
それから、大きな手でレクスの頭を乱暴に撫でた。
「なら、まずは足を滑らせるな」
「……それは、分かってる」
ガレンはわざとらしく口元を歪めた。
「分かってねえから滑ったんだろ?」
「今そこに戻すのかよ!」
「戻す! 強くなりたいなら、目の前の土から見ろ! ガハハ!」
ガレンの声に、いつもの調子が戻った。レクスは頬を膨らませたが、どこかほっとしていた。
その時、ガレンが猪型魔物の脚に付いた泥を見て、表情を変えた。
黒っぽい、重い泥だった。
この辺りの湿った土とは違う。もっと奥、木が深く、陽が入りにくい場所の泥。土と獣の匂いに混じって、ほんのかすかに、冷えた石を濡らしたような嫌な匂いがした。
レクスは鼻をひくつかせた。
「……変な匂いがする」
ガレンの目が細くなった。
「覚えとけ。その匂いは、山の腹の奥にある匂いだ。普通は、ここまで下りてこねえ」
「山の腹の奥?」
「ああ。この辺の泥じゃねえ。もっと奥だ」
「奥のやつが、こっちに来たのか?」
ガレンは答えず、猪型魔物の脚を見た。細かい傷がある。牙でつけたものではない。木の枝で擦っただけでもない。逃げる途中で何度も転び、岩に腹を打ち、木の根に脚を取られた跡だ。
猪型魔物は、前へ進みたくて走ったのではない。
後ろを見ずに、逃げた。
足跡も乱れていた。
レクスは、ガレンの横顔を見た。
さっきまで笑っていた父の顔が、また消えている。
「父ちゃん」
ガレンは山の奥を見た。
風が吹いた。
その風に乗って、遠くの鳥が一斉に飛び立つ音がした。枝が揺れ、葉がこすれ、山の奥だけが少し暗く見えた。
ガレンの手が、大剣の柄に触れる。
「来た、じゃねえ」
「え?」
ガレンは低く言った。
「逃げてきた」
それだけ言って、ガレンは山の奥を見た。
その横顔を見て、レクスは初めて思った。
父ちゃんは、魔物を怖がっているんじゃない。
もっと別の何かを、思い出している。
ガレンの手は、大剣の柄を握ったまま離れなかった。
レクスには、その意味がまだ分からなかった。
けれど、ガレンはもう笑っていなかった。
山の奥から吹く風だけが、やけに冷たかった。




