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英雄の子レクス 〜化け物と呼ばれた山の子は名前を取り戻す〜  作者: むぎ
第1章 山から来た子

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1/31

プロローグ お前もか

 湿った土の上に、小さな足跡が残っていた。


 朝の山は冷えていた。木々の葉から落ちた雫が草の先で震え、苔の匂いを含んだ風が斜面を下りてくる。遠くでは鳥が鳴き、沢の音が薄く重なり、山はいつもの朝の顔をしていた。


 レクスはその足跡の前に膝をつき、鼻が土につきそうなくらい顔を近づけていた。腰には短めの剣。背中には小さな荷袋。十二歳の身体には少し大きい装備だったが、本人はまるで気にしていない。


 むしろ、見つけたものを誰より早く言いたくて仕方ない顔をしていた。


「見つけた! 小さい魔物(まもの)だろ! 足跡が浅いし、軽いやつだ!」


 少し離れた木の根元で、ガレンが腕を組んでいた。


 広い肩。使い込まれた大剣。無精ひげの残る顎。山の冷たさなど気にしていないような顔で、息子の背中を見ている。レクスが得意げに振り返った瞬間、ガレンは腹の底から笑った。


「ガハハ! 半分外れだ、レクス!」


「半分!? じゃあ半分は当たりだろ!」


「そういうところだけ前向きだな、お前は! 浅いんじゃねえ。逃げ急いでるんだ。足の沈みは浅いのに、爪先だけ引っかかってる。獲物を追った足じゃねえ。何かから逃げてる足だ!」


 レクスはもう一度、土を見た。


 言われてみれば、足跡の先だけが乱れている。ただ軽いだけの歩き方ではない。前へ前へと急ぎ、爪で土を掻いた跡が残っていた。


 分からないことを見つけると、レクスの目はすぐに輝く。


「逃げてる……? じゃあ、追ってるやつもいるってことか!」


「おう。そこに気づけりゃ上等だ。だが、お前、最初に“食えるか”って顔してたな?」


「……食えるかは大事だろ!」


「大事だ! だが、食う前に食われるな、馬鹿野郎!」


 ガレンは大きな手で、レクスの頭を雑にかき回した。


 レクスは「やめろよ!」と声を上げながらも、本気では嫌がっていない。褒められたことが嬉しくて口元が緩みかける。けれど、それを見られるのが悔しいのか、すぐに頬を膨らませて足跡へ視線を戻した。


 ガレンはその顔を見て、また笑った。


「足跡だけ見るな。周りの音も拾え。木の傷、草の倒れ方、鳥の逃げた向き。山はな、一つだけ見てるやつから食われる」


「山って面倒だな。足跡だけで全部教えてくれればいいのに」


「ガハハ! 山が親切に看板立ててくれると思うな! “こっちに危険な魔物がいます”なんて書いてあったら、俺だって楽だ!」


「父ちゃんでも楽したいのか?」


「当たり前だ! 楽して肉が取れるなら最高だろ!」


「じゃあ俺と同じじゃん!」


「違う! 俺は楽をするために苦労して覚えた。お前はまだ、肉の匂いに釣られて走るだけだ!」


 レクスはむっとした顔で立ち上がった。


 けれど、すぐに足跡の先を見る。木の幹の低い位置に、細い爪で削ったような跡があった。草は一方向に倒れ、鳥の声は左の斜面から少しずつ遠ざかっている。


 レクスは指を差した。


「こっちじゃない。逃げたのは沢の方だ。木の傷もそっち向いてる。鳥もあっちへ逃げてる!」


 ガレンは少しだけ目を細めた。


 すぐには褒めない。だが、口元がわずかに上がっている。


「まあ、お前にしちゃ悪くねえ。足跡を見つけて、逃げてるってところまで考えた。昨日よりはましだ」


「……昨日よりは?」


「一昨日よりもましだ!」


「もっと褒めろよ!」


「褒められたいなら、生きて帰って、肉を無駄にしねえ殺し方を覚えろ。食える殺し方をしろ。食えねえ殺し方は下手だ!」


 レクスはぱっと顔を明るくした。


「じゃあ、今日ちゃんとできたら肉多めな!」


「まったく……お前の頭ん中は胃袋に繋がってんのか!」


「腹が減ったら動けないって父ちゃんが言った!」


「言った! だが教えを全部飯に繋げるな!」


 ガレンの笑い声が山に響いた。


 その声は、レクスにとって山の音の一つだった。鳥の声や風の音と同じくらい当たり前で、聞こえていれば大丈夫だと思える音だった。


 だから、その笑いが消えた瞬間、レクスは息を止めた。


 さっきまで鳴いていた鳥が、一斉に黙った。


 虫の音も消えた。風は吹いている。葉も揺れている。けれど、山全体が息を潜めたように静かになった。濡れた土と苔の匂いの奥に、鉄のような、血のような、焦げた石のような匂いが混じる。


 ガレンの手が、レクスの肩を強く掴んだ。


「レクス、動くな」


「……父ちゃん?」


「声も小さくしろ。息を浅くしろ。俺の後ろにいろ」


 レクスの喉が鳴った。


 ガレンが笑っていない。


 それだけで、胸の奥が冷たくなった。


「何がいるんだよ……?」


「まだ分からねえ。分からねえから、動くな」


 木々の奥で、太い枝が折れた。


 一つではない。二つ、三つ。重いものが木を押し分けてくる音だった。地面がわずかに震え、落ち葉が跳ねる。獣臭が一気に濃くなり、レクスは思わず鼻を押さえた。


 そして、それは現れた。


 熊に似た巨体。黒く分厚い毛皮。額から歪んだ黒い角が突き出し、岩を削るような爪が地面を裂いている。口元には古い血がこびりつき、背中の毛の下では、黒い筋のようなものがわずかに脈打っていた。


 空気そのものが重くなったようだった。


 レクスは動けなかった。


 大きい。怖い。けれど、それ以上に怖かったのは、ガレンの声だった。


「……何でこいつが、こんなところにいる」


 父ちゃんが驚いている。


 そんな顔を、レクスは見たことがなかった。


 黒角熊型魔物くろづのくまがたまものが低く唸る。喉の奥からこぼれる音だけで、胸の骨が震えるようだった。


 ガレンはレクスを背中の後ろへ押しやり、大剣を抜いた。いつもの豪快さは残っている。だが、剣を握る手に、いつもより強い力がこもっているのを、レクスは見てしまった。


「俺の後ろにいろ。絶対に前へ出るな」


「父ちゃん、勝てるよな……?」


 ガレンは一瞬だけ黙った。


 その沈黙が、レクスの心臓を強く掴んだ。


 けれど次の瞬間、ガレンは歯を見せて笑った。いつものように、山ごと揺らすような声で。


「ガハハ! 誰に聞いてやがる。お前の父ちゃんだぞ!」


「……うん!」


「ただし、俺が走れって言ったら走れ。振り返るな。肉のことも考えるな!」


「今は考えてない!」


「ならいい!」


 黒角熊型魔物が動いた。


 巨体からは想像できない速さだった。太い腕が横から振るわれ、黒い爪が木の幹を削る。ガレンは正面から受けなかった。大剣の腹で爪の角度をずらし、足場を変え、巨体の横へ滑り込む。


 刃が脚を裂いた。


 黒い毛皮の下から血が飛ぶ。


 レクスは思わず声を漏らした。


「すげえ……!」


 やっぱり父ちゃんは強い。


 そう思った直後、レクスの声は喉の奥で止まった。


 黒角熊型魔物は止まっていなかった。


 脚を斬られても、肩を裂かれても、巨体はそのままガレンへ向き直る。大剣は確かに身体に入っている。傷もある。血も出ている。それなのに、動きが鈍らない。


 ガレンは木の根を踏み、もう一度角度を変えた。


「ちっ……硬えな!」


 爪が迫る。


 ガレンは大剣で流した。だが、衝撃が強すぎた。足元の土が抉れ、ガレンの身体が半歩押し戻される。


 レクスはその半歩を見て、胸が嫌な音を立てた。


 父ちゃんが押された。


 そんなことは、山では起きないはずだった。


 黒角熊型魔物が低く唸り、体当たりのように突っ込んだ。


 ガレンは避けきれなかった。


 大剣で受け流そうとした瞬間、魔物の肩がガレンを弾き飛ばした。大きな身体が木の幹に叩きつけられる。鈍い音がして、枝が震え、葉がばらばらと落ちた。


「……っ、がはっ!」


 ガレンが片膝をつく。


 肩口から血が流れていた。口元にも赤いものが滲んでいる。


 レクスの耳から、山の音が消えた。


「父ちゃん!!」


「来るな!!」


「血が……! 父ちゃん、血が出てる!!」


「見りゃ分かる! だから来るなって言ってんだろ!!」


「でも!!」


「でもじゃねえ!! 走れ、レクス!!」


 ガレンは立とうとした。


 だが、身体がすぐには動かない。大剣を地面に突き立て、歯を食いしばっている。あのガレンが、息を荒くしている。


 黒角熊型魔物の首が、ゆっくりと動いた。


 黒い目が、レクスを見た。


 レクスの足が震えた。


 逃げなければならない。分かっている。風下を取る。木の間を抜ける。巨体が通れない細い場所へ走る。振り返るな。父ちゃんに、何度も教わった。


 なのに、足が動かなかった。


 逃げたら、父ちゃんが残る。


 逃げたら、父ちゃんが死ぬかもしれない。


「逃げろ!! レクス!!」


 ガレンの声が裂けた。


 レクスは首を振った。涙で視界が滲む。喉が詰まり、息がうまく吸えない。怖い。死にたくない。黒い爪が近づいてくる。角が見える。血の匂いがする。


 でも、それ以上に嫌だった。


「嫌だ……!」


「レクス!!」


「嫌だ!! 父ちゃんを置いて逃げるなんて、絶対嫌だ!!」


 黒角熊型魔物が跳ねた。


 爪がレクスへ向かって落ちてくる。


 レクスは叫んだ。


「死にたくない……でも、父ちゃんが死ぬのはもっと嫌だ!!」


 胸の奥で、何かが弾けた。


「ああああああーーーーー!!!」


 叫びが喉を裂いた瞬間、世界から音が遠のいた。


 黒角熊型魔物の爪が、遅く見えた。暗い森の中で、魔物の肩口についたガレンの傷だけが、やけにはっきり見える。風の流れ、土の柔らかさ、木の根の位置、どこを蹴れば届くのか。


 全部、身体が勝手に知っていた。


 レクスは力を使おうとしたのではない。


 身体が勝手に叫んでいた。


 生きろ。


 父ちゃんを死なせるな。


 瞳が細くなる。口の中で犬歯が伸び、唇の内側を切った。血の味が広がる。指先の爪が硬くなり、土を掴む。背中と脚の筋肉が熱を持ち、呼吸が人のものではなくなっていく。


 喉の奥で、獣のような唸りが鳴った。


 レクスは地面を蹴った。


 黒い爪が空を裂く。


 レクスの身体は、その下を潜り抜けていた。考えたわけではない。避けようとした時には、もう動いていた。足裏が木の根を掴み、身体が低く沈む。ガレンが裂いた肩口の傷へ、一直線に飛び込む。


 黒角熊型魔物が咆哮した。


 レクスは短い刃を突き立てた。爪も使った。傷口を広げ、毛皮の下へ食らいつくように刃を押し込む。魔物が暴れ、レクスの身体が振り回される。


 怖い。


 怖い。


 怖い。


 それでも、離せなかった。


「離さない!! 絶対、離さない!!」


 黒角熊型魔物の腕がレクスを払おうとする。


 レクスは肩の傷から身をずらし、喉元に見えた裂け目へ飛び込んだ。そこも、ガレンがつけた傷だった。父ちゃんが作った道だ。なら、自分がそこへ行けばいい。


「父ちゃんを、殺すなあああ!!」


 刃が喉元へ入った。


 黒角熊型魔物の咆哮が途中で潰れた。巨体がよろめき、地面を削り、木の根を折りながら倒れていく。土が跳ね、黒い毛皮が地面へ沈む。


 山に、重い音が響いた。


 レクスは立っていた。


 立っているつもりだった。


 けれど次の瞬間、膝から力が抜けた。腕が震える。指先の感覚が消える。喉が焼けるように痛い。吐き気が込み上げ、視界がぐらぐら揺れた。


 牙が少しずつ戻っていく。


 爪も戻る。


 さっきまで身体の奥にあった熱が消え、芯から冷たいものが広がった。


 レクスは地面に手をつき、必死に顔を上げた。


 ガレンがいる。


 生きている。


 それが分かった瞬間、レクスは苦しいのに笑おうとした。褒めてほしかった。助けられたと、言ってほしかった。


「父ちゃん……倒した……俺、倒したよ……!」


 ガレンは片足を引きずりながら近づいてきた。


 肩から血を流している。口元にも血がある。それでも、ガレンはレクスの前に膝をついた。大きな手が伸びて、レクスの頬に触れる。


 いつもの手だった。


 熱くて、大きくて、荒っぽい手。


 けれど、震えていた。


 レクスの胸が、また冷たくなる。


 ガレンは笑っていなかった。


「父ちゃん……? 俺、何か悪いことした……?」


 ガレンは答えない。


 レクスは不安になって、震える声で続けた。


「倒したよ……。父ちゃんを、助けたよ……?」


 ガレンの喉が動いた。


 けれど、笑い声は出なかった。


 息子が生きていることへの安堵は、確かにそこにあった。だが、それより深い場所で、何かを恐れるような目をしていた。


 ガレンの手が、もう一度震える。


 そして、かすれた声が落ちた。


「お前……も……か」英雄の子レクス

〜化け物と呼ばれた山の子は名前を取り戻す〜


プロローグ【レクス】


お前もか


 湿った土の上に、小さな足跡が残っていた。


 朝の山は冷えていた。木々の葉から落ちた雫が草の先で震え、苔の匂いを含んだ風が斜面を下りてくる。遠くでは鳥が鳴き、沢の音が薄く重なり、山はいつもの朝の顔をしていた。


 レクスはその足跡の前に膝をつき、鼻が土につきそうなくらい顔を近づけていた。腰には短めの剣。背中には小さな荷袋。十二歳の身体には少し大きい装備だったが、本人はまるで気にしていない。


 むしろ、見つけたものを誰より早く言いたくて仕方ない顔をしていた。


「見つけた! 小さい魔物(まもの)だろ! 足跡が浅いし、軽いやつだ!」


 少し離れた木の根元で、ガレンが腕を組んでいた。


 広い肩。使い込まれた大剣。無精ひげの残る顎。山の冷たさなど気にしていないような顔で、息子の背中を見ている。レクスが得意げに振り返った瞬間、ガレンは腹の底から笑った。


「ガハハ! 半分外れだ、レクス!」


「半分!? じゃあ半分は当たりだろ!」


「そういうところだけ前向きだな、お前は! 浅いんじゃねえ。逃げ急いでるんだ。足の沈みは浅いのに、爪先だけ引っかかってる。獲物を追った足じゃねえ。何かから逃げてる足だ!」


 レクスはもう一度、土を見た。


 言われてみれば、足跡の先だけが乱れている。ただ軽いだけの歩き方ではない。前へ前へと急ぎ、爪で土を掻いた跡が残っていた。


 分からないことを見つけると、レクスの目はすぐに輝く。


「逃げてる……? じゃあ、追ってるやつもいるってことか!」


「おう。そこに気づけりゃ上等だ。だが、お前、最初に“食えるか”って顔してたな?」


「……食えるかは大事だろ!」


「大事だ! だが、食う前に食われるな、馬鹿野郎!」


 ガレンは大きな手で、レクスの頭を雑にかき回した。


 レクスは「やめろよ!」と声を上げながらも、本気では嫌がっていない。褒められたことが嬉しくて口元が緩みかける。けれど、それを見られるのが悔しいのか、すぐに頬を膨らませて足跡へ視線を戻した。


 ガレンはその顔を見て、また笑った。


「足跡だけ見るな。周りの音も拾え。木の傷、草の倒れ方、鳥の逃げた向き。山はな、一つだけ見てるやつから食われる」


「山って面倒だな。足跡だけで全部教えてくれればいいのに」


「ガハハ! 山が親切に看板立ててくれると思うな! “こっちに危険な魔物がいます”なんて書いてあったら、俺だって楽だ!」


「父ちゃんでも楽したいのか?」


「当たり前だ! 楽して肉が取れるなら最高だろ!」


「じゃあ俺と同じじゃん!」


「違う! 俺は楽をするために苦労して覚えた。お前はまだ、肉の匂いに釣られて走るだけだ!」


 レクスはむっとした顔で立ち上がった。


 けれど、すぐに足跡の先を見る。木の幹の低い位置に、細い爪で削ったような跡があった。草は一方向に倒れ、鳥の声は左の斜面から少しずつ遠ざかっている。


 レクスは指を差した。


「こっちじゃない。逃げたのは沢の方だ。木の傷もそっち向いてる。鳥もあっちへ逃げてる!」


 ガレンは少しだけ目を細めた。


 すぐには褒めない。だが、口元がわずかに上がっている。


「まあ、お前にしちゃ悪くねえ。足跡を見つけて、逃げてるってところまで考えた。昨日よりはましだ」


「……昨日よりは?」


「一昨日よりもましだ!」


「もっと褒めろよ!」


「褒められたいなら、生きて帰って、肉を無駄にしねえ殺し方を覚えろ。食える殺し方をしろ。食えねえ殺し方は下手だ!」


 レクスはぱっと顔を明るくした。


「じゃあ、今日ちゃんとできたら肉多めな!」


「まったく……お前の頭ん中は胃袋に繋がってんのか!」


「腹が減ったら動けないって父ちゃんが言った!」


「言った! だが教えを全部飯に繋げるな!」


 ガレンの笑い声が山に響いた。


 その声は、レクスにとって山の音の一つだった。鳥の声や風の音と同じくらい当たり前で、聞こえていれば大丈夫だと思える音だった。


 だから、その笑いが消えた瞬間、レクスは息を止めた。


 さっきまで鳴いていた鳥が、一斉に黙った。


 虫の音も消えた。風は吹いている。葉も揺れている。けれど、山全体が息を潜めたように静かになった。濡れた土と苔の匂いの奥に、鉄のような、血のような、焦げた石のような匂いが混じる。


 ガレンの手が、レクスの肩を強く掴んだ。


「レクス、動くな」


「……父ちゃん?」


「声も小さくしろ。息を浅くしろ。俺の後ろにいろ」


 レクスの喉が鳴った。


 ガレンが笑っていない。


 それだけで、胸の奥が冷たくなった。


「何がいるんだよ……?」


「まだ分からねえ。分からねえから、動くな」


 木々の奥で、太い枝が折れた。


 一つではない。二つ、三つ。重いものが木を押し分けてくる音だった。地面がわずかに震え、落ち葉が跳ねる。獣臭が一気に濃くなり、レクスは思わず鼻を押さえた。


 そして、それは現れた。


 熊に似た巨体。黒く分厚い毛皮。額から歪んだ黒い角が突き出し、岩を削るような爪が地面を裂いている。口元には古い血がこびりつき、背中の毛の下では、黒い筋のようなものがわずかに脈打っていた。


 空気そのものが重くなったようだった。


 レクスは動けなかった。


 大きい。怖い。けれど、それ以上に怖かったのは、ガレンの声だった。


「……何でこいつが、こんなところにいる」


 父ちゃんが驚いている。


 そんな顔を、レクスは見たことがなかった。


 黒角熊型魔物くろづのくまがたまものが低く唸る。喉の奥からこぼれる音だけで、胸の骨が震えるようだった。


 ガレンはレクスを背中の後ろへ押しやり、大剣を抜いた。いつもの豪快さは残っている。だが、剣を握る手に、いつもより強い力がこもっているのを、レクスは見てしまった。


「俺の後ろにいろ。絶対に前へ出るな」


「父ちゃん、勝てるよな……?」


 ガレンは一瞬だけ黙った。


 その沈黙が、レクスの心臓を強く掴んだ。


 けれど次の瞬間、ガレンは歯を見せて笑った。いつものように、山ごと揺らすような声で。


「ガハハ! 誰に聞いてやがる。お前の父ちゃんだぞ!」


「……うん!」


「ただし、俺が走れって言ったら走れ。振り返るな。肉のことも考えるな!」


「今は考えてない!」


「ならいい!」


 黒角熊型魔物が動いた。


 巨体からは想像できない速さだった。太い腕が横から振るわれ、黒い爪が木の幹を削る。ガレンは正面から受けなかった。大剣の腹で爪の角度をずらし、足場を変え、巨体の横へ滑り込む。


 刃が脚を裂いた。


 黒い毛皮の下から血が飛ぶ。


 レクスは思わず声を漏らした。


「すげえ……!」


 やっぱり父ちゃんは強い。


 そう思った直後、レクスの声は喉の奥で止まった。


 黒角熊型魔物は止まっていなかった。


 脚を斬られても、肩を裂かれても、巨体はそのままガレンへ向き直る。大剣は確かに身体に入っている。傷もある。血も出ている。それなのに、動きが鈍らない。


 ガレンは木の根を踏み、もう一度角度を変えた。


「ちっ……硬えな!」


 爪が迫る。


 ガレンは大剣で流した。だが、衝撃が強すぎた。足元の土が抉れ、ガレンの身体が半歩押し戻される。


 レクスはその半歩を見て、胸が嫌な音を立てた。


 父ちゃんが押された。


 そんなことは、山では起きないはずだった。


 黒角熊型魔物が低く唸り、体当たりのように突っ込んだ。


 ガレンは避けきれなかった。


 大剣で受け流そうとした瞬間、魔物の肩がガレンを弾き飛ばした。大きな身体が木の幹に叩きつけられる。鈍い音がして、枝が震え、葉がばらばらと落ちた。


「……っ、がはっ!」


 ガレンが片膝をつく。


 肩口から血が流れていた。口元にも赤いものが滲んでいる。


 レクスの耳から、山の音が消えた。


「父ちゃん!!」


「来るな!!」


「血が……! 父ちゃん、血が出てる!!」


「見りゃ分かる! だから来るなって言ってんだろ!!」


「でも!!」


「でもじゃねえ!! 走れ、レクス!!」


 ガレンは立とうとした。


 だが、身体がすぐには動かない。大剣を地面に突き立て、歯を食いしばっている。あのガレンが、息を荒くしている。


 黒角熊型魔物の首が、ゆっくりと動いた。


 黒い目が、レクスを見た。


 レクスの足が震えた。


 逃げなければならない。分かっている。風下を取る。木の間を抜ける。巨体が通れない細い場所へ走る。振り返るな。父ちゃんに、何度も教わった。


 なのに、足が動かなかった。


 逃げたら、父ちゃんが残る。


 逃げたら、父ちゃんが死ぬかもしれない。


「逃げろ!! レクス!!」


 ガレンの声が裂けた。


 レクスは首を振った。涙で視界が滲む。喉が詰まり、息がうまく吸えない。怖い。死にたくない。黒い爪が近づいてくる。角が見える。血の匂いがする。


 でも、それ以上に嫌だった。


「嫌だ……!」


「レクス!!」


「嫌だ!! 父ちゃんを置いて逃げるなんて、絶対嫌だ!!」


 黒角熊型魔物が跳ねた。


 爪がレクスへ向かって落ちてくる。


 レクスは叫んだ。


「死にたくない……でも、父ちゃんが死ぬのはもっと嫌だ!!」


 胸の奥で、何かが弾けた。


「ああああああーーーーー!!!」


 叫びが喉を裂いた瞬間、世界から音が遠のいた。


 黒角熊型魔物の爪が、遅く見えた。暗い森の中で、魔物の肩口についたガレンの傷だけが、やけにはっきり見える。風の流れ、土の柔らかさ、木の根の位置、どこを蹴れば届くのか。


 全部、身体が勝手に知っていた。


 レクスは力を使おうとしたのではない。


 身体が勝手に叫んでいた。


 生きろ。


 父ちゃんを死なせるな。


 瞳が細くなる。口の中で犬歯が伸び、唇の内側を切った。血の味が広がる。指先の爪が硬くなり、土を掴む。背中と脚の筋肉が熱を持ち、呼吸が人のものではなくなっていく。


 喉の奥で、獣のような唸りが鳴った。


 レクスは地面を蹴った。


 黒い爪が空を裂く。


 レクスの身体は、その下を潜り抜けていた。考えたわけではない。避けようとした時には、もう動いていた。足裏が木の根を掴み、身体が低く沈む。ガレンが裂いた肩口の傷へ、一直線に飛び込む。


 黒角熊型魔物が咆哮した。


 レクスは短い刃を突き立てた。爪も使った。傷口を広げ、毛皮の下へ食らいつくように刃を押し込む。魔物が暴れ、レクスの身体が振り回される。


 怖い。


 怖い。


 怖い。


 それでも、離せなかった。


「離さない!! 絶対、離さない!!」


 黒角熊型魔物の腕がレクスを払おうとする。


 レクスは肩の傷から身をずらし、喉元に見えた裂け目へ飛び込んだ。そこも、ガレンがつけた傷だった。父ちゃんが作った道だ。なら、自分がそこへ行けばいい。


「父ちゃんを、殺すなあああ!!」


 刃が喉元へ入った。


 黒角熊型魔物の咆哮が途中で潰れた。巨体がよろめき、地面を削り、木の根を折りながら倒れていく。土が跳ね、黒い毛皮が地面へ沈む。


 山に、重い音が響いた。


 レクスは立っていた。


 立っているつもりだった。


 けれど次の瞬間、膝から力が抜けた。腕が震える。指先の感覚が消える。喉が焼けるように痛い。吐き気が込み上げ、視界がぐらぐら揺れた。


 牙が少しずつ戻っていく。


 爪も戻る。


 さっきまで身体の奥にあった熱が消え、芯から冷たいものが広がった。


 レクスは地面に手をつき、必死に顔を上げた。


 ガレンがいる。


 生きている。


 それが分かった瞬間、レクスは苦しいのに笑おうとした。褒めてほしかった。助けられたと、言ってほしかった。


「父ちゃん……倒した……俺、倒したよ……!」


 ガレンは片足を引きずりながら近づいてきた。


 肩から血を流している。口元にも血がある。それでも、ガレンはレクスの前に膝をついた。大きな手が伸びて、レクスの頬に触れる。


 いつもの手だった。


 熱くて、大きくて、荒っぽい手。


 けれど、震えていた。


 レクスの胸が、また冷たくなる。


 ガレンは笑っていなかった。


「父ちゃん……? 俺、何か悪いことした……?」


 ガレンは答えない。


 レクスは不安になって、震える声で続けた。


「倒したよ……。父ちゃんを、助けたよ……?」


 ガレンの喉が動いた。


 けれど、笑い声は出なかった。


 息子が生きていることへの安堵は、確かにそこにあった。だが、それより深い場所で、何かを恐れるような目をしていた。


 ガレンの手が、もう一度震える。


 そして、かすれた声が落ちた。


「お前……も……か」

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