第3話 父ちゃんは帰ってこなかった
黒牙鹿型魔物を倒した翌朝、ガレンはいつもより早く起きていた。
洞穴の前には、火を囲む石組みがあり、その少し先には干し肉を吊るす木組みが並んでいる。朝露を含んだ空気の中で、肉の匂いと煙の匂いが薄く混ざっていた。広げた毛皮はまだ少し湿っていて、刃こぼれした小刀と、空に近い塩袋が石の上に置かれている。
山の朝は静かだった。
昨日よりも、さらに音が少なかった。
遠くで鳥が鳴いてはいる。けれど、いつものように騒がない。小さな獣が藪を揺らす音も薄い。火のはぜる音と、ガレンが荷物をまとめる革袋の音だけが、洞穴の前に妙にはっきり残っていた。
レクスは毛皮の寝床から顔を出し、その光景を見た瞬間に眉を寄せた。
「父ちゃん、もう行くのか?」
ガレンは黒牙鹿型魔物の毛皮を丸め、干し肉を包みに押し込みながら振り返った。大剣はすでに背にあり、腰には小刀と古い革袋。いつもの狩りよりも、荷物が少しだけ街向きだった。
「おう。塩が切れかけてる。小刀も刃が欠けた。ついでに、昨日の封印箱の欠片のことも聞いてくる」
「じゃあ俺も行く!」
「駄目だ!!」
返事が早すぎて、レクスは思わず口を尖らせた。
「なんでだよ! 昨日の黒牙鹿型魔物だって、干し場に通さなかっただろ! 俺も戦える!」
「戦えるのは知ってる。だが、街は魔物みたいに正面から来ねえ。笑って近づいて、値段をふっかけて、知らねえ言葉で縛ってくる!」
レクスは少し考え、真面目な顔で頷いた。
「それ、魔物より面倒だな」
「だから言ってんだろうが! 街は魔物より面倒だ!」
「でも、道具はいるんだろ? 塩もいる。あと……道具って食えないのか?」
「ガハハ! 食うな! 歯が欠けるぞ!」
「硬い肉も噛めば味が出るぞ」
「道具に味を求めるな! お前の基準はなんで全部胃袋から始まるんだ!」
ガレンがガハハと笑うと、洞穴の前の空気が少しだけ明るくなった。レクスもつられて笑いかけたが、すぐに昨日の黒牙鹿型魔物を思い出す。
山奥の泥。逃げる足跡。黒い筋の走った身体。獣の中に刺さっていた、黒く焦げた封印箱の欠片。
ガレンが街へ行くのは、ただの買い出しではない。
「山の異変のこと、聞きに行くんだろ?」
レクスが言うと、ガレンの手が一瞬止まった。
それから、ゆっくり頷く。
「ああ。街道に魔物が出てりゃ、街の連中が騒ぐ。素材の流れが変わってりゃ、商人が知ってる。昨日も言っただろ。山だけ見て全部分かった気になるなって」
「その商人って、父ちゃんが塩を買う相手か?」
「ああ。あいつなら、妙な素材が流れた時も、変な噂が出た時も耳に入る」
「俺も聞けるぞ」
「お前はまず、人の話を最後まで聞く練習をしろ」
「聞いてる!」
「聞いてる途中で“それ食えるか”って聞くだろ?」
「必要な情報だ!」
「必要な時もあるが、街で最初に聞くな!」
レクスはむっとしたが、反論はできなかった。自分ならたぶん聞く。知らない物を見たら、食えるかどうかは大事だと思うからだ。
ガレンは荷物を背負い直し、洞穴の前に立った。
いつもならそこで「肉を焦がすなよ」と笑って終わる。だが今日は、洞穴の奥へ一度だけ目を向けた。火の位置。水筒。干し肉の残り。壁際に積んだ薪。 その全部を、いつもより長く確認している。
レクスは首を傾げた。
「父ちゃん、今日は確認が多いぞ」
「お前が雑だからだ」
「俺は雑じゃない!」
「肉の前だと雑になる」
「それは肉が悪い!」
「肉に責任を押しつけるな!」
ガレンはそう笑ったが、声の奥にほんの少しだけ硬さが残っていた。レクスには、それが何なのか分からない。
ガレンは指を折るように言った。
「留守番の間、火は絶やすな。干し肉は焦がすな。罠は西側だけ見ろ。東の沢には近づくな。山奥にも行くな」
「多い!」
「多くねえ。お前が肉を見ると他のことを忘れるから、先に言ってんだ」
「忘れない! ……たぶん」
「今、たぶんって言ったな?」
ガレンは呆れたように目を細め、それから声を少し低くした。
「それと、身体強化は使うな」
その言葉だけ、空気が変わった。
レクスは自分の手を見た。昨日、黒牙鹿型魔物が干し場へ抜けそうになった時、胸の奥が熱くなりかけた。使おうとしたわけじゃない。勝手に来そうだった。
けれどガレンは、それを嫌がる。
三年前も、今も。
「……使わない。父ちゃんがいない時に、勝手に来そうになっても、止める」
「止められねえと思ったら、逃げろ。勝つより先に生きろ。いいな」
「分かった。でも、父ちゃんが早く戻ればいいだろ」
「ガハハ! 結局俺任せか!」
「だって父ちゃん、強いし」
レクスは当たり前のように言った。
ガレンは一瞬だけ黙った。
その沈黙は短かった。けれど、朝の風が干し肉を揺らす音だけが妙にはっきり聞こえた。
ガレンはレクスの頭に手を置いた。いつもみたいに乱暴にぐしゃぐしゃにするかと思ったが、その手は少しだけ長くそこに残った。
「父ちゃん?」
「……強いだけじゃ、どうにもならねえ場所もある」
「街のことか?」
「そうだ」
「でも、父ちゃんは帰ってくるだろ?」
ガレンは口元を歪めた。
「当たり前だ。俺が塩を買い忘れたら、お前がうるせえからな!」
「うるさくないぞ! ただ、肉に塩は大事だって言うだけだ!」
「それをうるせえって言うんだよ! ガハハ!」
ガレンはようやくいつものように笑い、レクスの頭を乱暴に撫で回した。髪がぐしゃぐしゃになる。レクスは嫌がって身を引いたが、完全には避けなかった。
「すぐ戻る。肉を焦がすなよ」
「焦がさない!」
「前に焦がした!」
「あれは火が強かった!」
「火を強くしたのはお前だろうが!」
ガレンは笑いながら歩き出した。
レクスは数歩だけついて行った。洞穴から少し離れると、木々の間から下へ続く山道が見える。そこを降りれば街道がある。さらに下れば、ガレンが言う“魔物より面倒な街”がある。
「父ちゃんの“すぐ戻る”も、信用ならないかもしれない」
レクスが言うと、ガレンは立ち止まった。
ほんの一瞬、笑みが薄くなる。ガレンは山の奥を見た。昨日、黒牙鹿型魔物が逃げてきた方角だ。風に木々が揺れ、鳥の声が遠くで途切れた。
けれど、ガレンはすぐにレクスへ向き直った。
「すぐに戻る! 塩と道具を見て、少し話を聞いてくるだけだ!」
「早く帰ってこいよ! 塩、忘れるなよ!」
「俺をおつかいの子ども扱いするな!」
「じゃあ肉も見てきてくれ!」
「買わねえぞ! 山の肉があるだろうが!」
「うまい肉なら別だろ!」
「ガハハ! このままだと本当にお前を連れていけねえな!」
ガレンの笑い声が山道へ消えていく。
レクスはその背中が木々の間に隠れるまで見ていた。大剣の柄が最後に少しだけ光り、それも枝葉の向こうへ消える。足音はしばらく聞こえていたが、やがて風と葉の音に混ざった。
洞穴の前に戻ると、急に広くなったような気がした。
ガレンがいないだけで、石組みも、薪の束も、干し肉を吊るした木組みも、昨日と少し違って見える。レクスは火に薪を足し、吊るされた肉を見上げた。
ガレンが街へ行くのはいつものことだ。塩や道具が必要な時、素材を交換する時、何度か山を下りたことがある。
だが今回は、山の異変を聞きに行く。
それでも、レクスはガレンが誰かに負けるとは思わなかった。
魔物でも簡単には倒せない父ちゃんが、人間に負けるはずがない。
レクスは干し肉を裏返した。
ガレンがいない洞穴の前は、思ったより静かだった。いつもなら、肉に近づけば「つまみ食いするな!」と怒鳴られる。薪の置き方が雑なら「湿るだろうが!」と飛んでくる。剣を磨きながら少しでも手を抜けば「刃が死ぬぞ!」と小突かれる。
今日は、どれもない。
「怒鳴られないと、楽だな」
レクスはそう言って、干し肉へ手を伸ばしかけた。
その瞬間、頭の中にガレンの声が響いた。
お前は干してる途中の肉を食うな。
レクスはぴたりと手を止めた。
「……食ってないからな」
返事はない。
風が洞穴の前を通り抜け、吊るされた肉がわずかに揺れた。レクスは少しだけ口を尖らせ、それから西側の罠を見に行った。
罠は無事だった。小さな獣の足跡が近くを通っているが、かかってはいない。東の沢へ向かう道が見えたが、レクスは行かなかった。山奥の方も気になったが、そこへも向かわない。
ガレンに言われたことは、守る。
帰ってきた時に怒鳴られるのは嫌だ。いや、少しくらいなら怒鳴られてもいい。でも、本気で怒られるようなことはしない。そう決めていた。
昼になった。
レクスは火のそばで剣を磨いた。刃こぼれはない。けれど、ガレンがいれば「油が足りねえ」と言うかもしれない。だから、古い布で何度も拭いた。干し肉を確かめ、水を汲み、薪を割る。
昼を過ぎても、ガレンの足音は戻らなかった。
「街って、そんなに遠いのか?」
レクスは空を見上げた。太陽はまだ高い。ガレンなら、歩くのも速い。商人と話して、塩を買って、肉は買わないとしても、道具を選ぶくらいなら戻ってきてもよさそうな時間だった。
でも、まだ戻らない。
たぶん、街で商人と揉めているのだ。値段をふっかけられて、ガレンが怒鳴っているのかもしれない。知らない言葉で縛ってくるやつに、ガレンが「分かるように言え!」と大声を出しているのかもしれない。
想像すると、少し笑えた。
ガレンなら、街でも山みたいに怒鳴る気がする。
夕方になっても、山道にガレンの姿はなかった。
レクスは洞穴の前に座り、火の向こうにある山道を見た。
「遅いな。塩って、そんなに選ぶものなのか?」
風が冷たくなり始めた。
吊るした肉を取り込み、火に薪を足す。ガレンの分の肉も残しておく。きっと帰ってきたら、腹が減ったと言う。街で食べてきても、山の肉の方がいいと言うかもしれない。
レクスはその肉を火のそばに置き、焦げないように少し離した。
「焦がしてないぞ、父ちゃん」
やはり返事はない。
夜になった。
その夜、レクスは火を絶やさなかった。
木が爆ぜるたびに顔を上げ、洞穴の外へ出て山道を見た。夜の山は慣れている。風の音も、草の擦れる音も、遠くの獣の気配も分かる。けれど、ガレンの足音だけはなかった。
それでもレクスは、まだ深く心配していなかった。
父ちゃんは夜の山でも帰ってこられる。魔物がいても、迷うことはない。帰ってこないなら、帰ってこない理由があるだけだ。
そう思って、火の前で剣を抱えた。
翌朝、ガレンはまだ帰っていなかった。
レクスは火に薪を足し、水を汲み、干し肉を確かめた。西側の罠を見る。東の沢には行かない。山奥にも行かない。身体強化も使わない。
ガレンに言われたことを、ひとつずつ守る。
昼になっても、帰ってこない。
レクスは洞穴の前の石に座り、山道を見た。
「父ちゃん、話が長いぞ」
声は軽く出したつもりだった。
けれど、返事のない山に吸い込まれると、少しだけ変な感じがした。
二日目の夜も、火は消さなかった。
眠ってしまいそうになるたび、レクスは顔を上げた。薪を足し、熾火を見て、ガレンの分の水を置く。大きな足音が近づけばすぐに分かる。そう思っていたのに、聞こえるのは風と、遠くの獣の声だけだった。
三日目の夜、レクスはガレンの分の肉を火の横に置いた。
最初の夜は、帰ってきたらすぐ食えるようにと思って置いた。
二日目の夜は、冷めても食えるからと思って置いた。
でも今は、なぜ置いているのか、自分でも少し分からなくなっていた。
それでも、置いた。
父ちゃんが帰ってきて、肉がなかったら怒るかもしれないからだ。いや、本当は怒ってほしかった。肉を勝手に食うなと、火を強くしすぎだと、塩を振りすぎるなと、いつものように怒鳴ってほしかった。
けれど、洞穴の前には火の音しかなかった。
四日目の朝。
レクスは、干し肉を数え直した。
塩袋を見た。
小刀の刃こぼれを見た。
ガレンが街へ持っていった革袋の置き跡を見た。
石組みも、薪も、干し肉も、昨日と同じ場所にある。なのに、ガレンだけがいない。
火は一度も消えなかった。
干し肉は焦げなかった。
罠は西側だけ見た。
東の沢にも、山奥にも行かなかった。
身体強化も使わなかった。
レクスは、ガレンに言われたことを全部守った。
それでも、ガレンは帰ってこなかった。
四日目の朝、レクスは洞穴の前に立ち、山道を見た。
変だ。
さすがに変だ。
胸の奥が少しだけざわつく。けれど、レクスが最初に考えたのは、怖い、ではなかった。
父ちゃんが負けたとは思わなかった。
レクスは、ガレンが倒れたところを一度だけ見ている。
三年前。黒角熊型魔物からレクスを守った時、ガレンは血を流し、膝をついた。それでも、最後までレクスの前に立っていた。倒れたのは弱かったからじゃない。レクスを守ったからだ。
だからレクスは知っている。
父ちゃんは、弱いから倒れる男じゃない。
誰かを守るために倒れても、負けたままで終わる男じゃない。
「普通の人間に、父ちゃんが負けるわけないよな」
レクスは独り言のように言った。
街は魔物より面倒だと、ガレンは言っていた。なら、きっと面倒なことに引っかかっているのだ。知らない言葉で縛られているのかもしれない。値段をふっかけられて怒っているのかもしれない。封印箱の欠片について、商人と長く話しているのかもしれない。
迎えに行けばいい。
そう思うと、怖いより先に、足が前へ出そうになった。
初めて、一人で山を下りる。
初めて、一人で街へ行く。
ガレンが魔物より面倒だと言った場所を見る。
塩がある。道具がある。食えるものも、たぶんある。どんな匂いがするのか、どれくらい人がいるのか、山とは何が違うのか。
そして、そこに父ちゃんがいるかもしれない。
レクスはすぐに動いた。
干し肉を袋に詰める。水筒を持つ。剣を腰に下げ、小刀を差す。残りの肉は高い場所へ吊るし、獣が届かないように縄を強く結んだ。
火は完全には消さない。
灰の中に熾火を残し、上から石で風を避ける。ガレンが先に帰ってきた時、火が消えていたら怒られる。いや、怒鳴られる。
その怒鳴り声を聞くためにも、ちゃんと残しておく。
レクスは洞穴の中を見回した。
毛皮の寝床。壁に立てかけた古い道具。干した皮。ガレンがいつも座る石。どれも昨日と同じなのに、ガレンだけがいない。
レクスは少しだけ口を結び、それから山道へ向き直った。
「山奥には行くなって言った」
レクスは指を折るように確認した。
「身体強化も使うなって言った」
そこで、少しだけ目を細める。
「でも、街へ行くなとは言ってない」
ガレンが聞いたら、絶対に怒鳴る。
屁理屈こねるな、馬鹿野郎。
そんな声が聞こえた気がして、レクスは少し笑った。
「怒るなよ、父ちゃん。迎えに行くだけだぞ」
レクスは山を下り始めた。
いつもはガレンの背中を見て歩いていた道だ。今日は前に誰もいない。朝露で湿った土が靴の下で柔らかく沈み、木々の隙間から差す光が白く揺れる。
下へ行くほど、匂いが変わった。
山の匂いが薄くなり、知らない匂いが混じってくる。煙。鉄。人。荷車の車輪が削った土。乾いた布。動物の糞。食べ物らしい匂いもある。山とは違う音が、ずっと遠くから微かに聞こえた。
レクスは鼻を動かし、目を輝かせた。
「匂い、多いな……街って、こんなにいろいろ混ざってるのか」
少し怖い。
でも、それ以上に気になる。
どんな場所なのか見てみたい。ガレンが面倒だと言ったものを、自分の目で確かめたい。そして、ガレンを見つけたら言ってやるのだ。
火は消さなかった。
肉も焦がさなかった。
東の沢にも行かなかった。
だから、少しは褒めろ、と。
山道の先が開け、遠くに街道が見えた。
レクスは腰の剣を確かめ、息を吸った。
「待ってろよ、父ちゃん。俺が迎えに行くからな!」
そう言って、レクスは笑った。
父ちゃんが帰ってこない山を背に、初めて一人で山を下りた。




