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英雄の子レクス 〜化け物と呼ばれた山の子は名前を取り戻す〜  作者: むぎ
第1章 山から来た子

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第15話 初任務と、黒い爪跡

 ヴァルクハイン家の執務室には、朝から重い空気が落ちていた。


 机の上には、南街道の旧道で回収されたものが並んでいる。


 粗悪な封印箱の破片。黒い粉が付着した木片。鉄格子に残った黒い爪痕の写し。奴隷商人の偽装荷札。旧道周辺の魔物被害報告。


 どれも、机の上では小さなものに見える。


 けれど、血の匂いも、檻の音も、黒爪猩型魔物くろづめしょうがたまものの黒い目も、そこから離れていなかった。


 レクスは机の前に立ち、黒い粉のついた木片をじっと見ていた。近づきすぎるなとノエルに言われているから鼻を近づけはしない。けれど、布越しでも分かる。


 あの嫌な匂いが、まだ残っている。


 黒角熊型魔物くろづのくまがたまもの


 黒牙鹿型魔物くろきばしかがたまもの


 そして、黒爪猩型魔物くろづめしょうがたまもの


 全部、奥に同じ匂いがあった。


 グラントは机の向こうで、短く言った。


黒脈石(こくみゃくせき)だ」


 ユリウスの顔から、いつもの軽さが消えた。彼は報告板を抱えたまま、唇を噛む。


「黒脈石……。父上、それは王国では全面禁止の禁制素材ですよね? 所持だけでも重いのに、輸送していたとなると……」


「所持、輸送、隠匿。どれも国家反逆罪に関わる。奴隷商人の馬車一台で済む話ではない」


 その言葉に、リシアが壁際で薄く笑った。


 彼女は椅子に座っていない。壁に背をつけ、出口と窓と、部屋にいる全員の位置が見える場所に立っている。袖の下で手首の鎖跡を握り、狐耳はわずかに後ろへ伏せていた。


「私たちは、その反逆罪の荷物隠しに使われてたってことね。獣人奴隷の檻の下に、魔物を呼ぶ石。人間って本当に、商品を重ねるのが上手いんだ」


 ユリウスは言い返せなかった。


 言い返したかったのだろう。唇が動きかけ、けれど言葉は出なかった。リシアの皮肉が乱暴すぎるとは、誰も言えない。


 実際に、檻の下に隠されていたのは、魔物を呼ぶ黒い欠片だった。


 ノエルが治療鞄の紐を握り直し、静かに言う。


「黒脈石は、治療対象を増やす石です。魔物を呼び、人を傷つけ、治せる数を簡単に超えさせます。禁止されている理由としては、とても分かりやすいです」


「分かりやすいから余計に腹立つ!!」


 レクスは拳を握った。


 檻。鎖。首輪。リシアたちが閉じ込められていた馬車。その床下に、魔物を呼ぶ石が隠されていた。


「そんなものを、リシアたちの下に隠してたのかよ……! 檻に入れたうえに、魔物まで呼ぶものを置いてたってことだろ!?」


「そうだ」


 グラントはごまかさなかった。


 その短さで、逃げ道がなくなった。


 リシアは笑ったまま顔を逸らしたが、その指は袖の下でさらに強く手首を握っていた。


 グラントは地図へ視線を落とした。


「この件は終わっていない。黒脈石がどこから出て、誰が運ばせ、誰が受け取るはずだったのか。調査は続ける」


 ユリウスが姿勢を正す。


「では、俺たちはその背後を――」


「お前たちが今追うのは黒幕ではない」


 グラントの声に、ユリウスは口を閉じた。


 執務室の空気が、一段冷える。


 グラントの指が、旧道から山外縁部へ伸びる線をなぞった。


「今追うべきは、黒爪猩型魔物の痕跡だ。どこから降り、どこへ向かい、何を押し出しているのか。爪跡、足跡、逃げた魔物の流れ、作業場や村の被害。すべて拾え」


 ユリウスは小さく息を吸った。


「つまり、俺たちは討伐隊じゃなくて、危ない場所を先に見つける調査先遣隊……ということですね」


「そうだ。今必要なのは英雄ではない。次に死ぬ場所を先に見つける目だ」


 レクスは、その言葉に顔を上げた。


 英雄ではない。


 次に死ぬ場所を先に見つける目。


 ガレンならどう言うだろう。山で一番怖いのは、強い魔物ではなく、いるはずのない場所にいるはずのない魔物がいることだ。


 父の声が、頭の奥で響いた気がした。


 グラントはレクスを見る。


「レクス。お前は、あの黒爪猩型魔物をどう見た」


 レクスは黒い粉から目を離し、少し眉を寄せた。


「強かった。でも、それだけじゃない。あいつ、十二歳の時に父ちゃんと戦った黒い熊と似たにおいがした」


 ユリウスが反応する。


「ガレンが膝をついたっていう、あの魔物か?」


「形は違う。熊と猿で全然違う。でも、匂いの奥が同じだった。黒脈石の嫌なにおいが、同じくらい濃かった。鼻の奥に残る感じが、似てた」


 言いながら、レクスの指先が少し震えた。


 十二歳の時の森。黒角熊型魔物。血を流して片膝をついたガレン。あの時の父の手の震えと、「お前……も……か」という声。


 レクスは喉の奥に引っかかるものを飲み込む。


 グラントの表情もわずかに重くなった。


「黒脈石は、取り込んだ量で魔物の危険度が大きく変わる。お前の証言が正しいなら、あれはガレンが膝をついた魔物と同格に近い可能性がある」


 レクスは息を呑んだ。


「父ちゃんが……膝をついたのと、同じくらい?」


「可能性の話だ。だからこそ、遭遇しても討伐するな。前回、お前たちは勝っていない。生き残っただけだ」


 胸の奥が、悔しさで熱くなった。


 言い返したかった。


 けれど言い返せない。黒爪猩型魔物は倒れていない。あれは逃げたのではなく、戻った。レクスたちは、あいつが山奥へ戻るまでの間、どうにか生き延びただけだ。


 ノエルが淡々と続ける。


「その通りです。前回、レクスは身体強化(しんたいきょうか)の反動、ユリウスは打撲、私は魔力消費、リシアは幻惑(げんわく)による精神的負荷が残りました。あれを勝利とは呼びません」


 ユリウスが苦い顔で笑った。


「ノエル、事実を並べると俺たちの初任務前の士気が削れるんだけど」


「削れて残る程度の士気なら、現場で折れるより安全です」


「言い方が冷静すぎる! 俺の死にそうな士気を治して!」


「心の治療は担当外です」


「また置き去りにされた!」


 リシアが小さく息を漏らした。


「冷たく聞こえるけど、間違ってないのが嫌ね」


 レクスは拳を開き、息を吐く。


「分かった。追う。でも、見つけても突っ込まない。今度は、守れる形にしてから行く」


 グラントは短く頷いた。


「それを必ず守れ」


 朝の中庭には、薄い光が差していた。


 石畳には夜露が残り、門の近くでは兵士たちが装備を確認している。山の稜線は遠く、青く霞んで見えた。


 ユリウスは地図と報告板を抱え、何度も荷物を確認していた。ノエルは治療鞄の留め具を指先で確かめ、薬包の数を静かに数えている。リシアは少し離れ、門、兵士、庭木、屋敷の窓、逃げ道になりそうな場所を順に見ていた。


 レクスは振り返った。


「リシア、遠いぞ」


「近いと落ち着かないの。後ろに立たれるより、後ろにいる方がまし」


 リシアは腕を組み、そっぽを向いた。


 ユリウスが地図を抱え直し、少しだけ言葉を選ぶ。


「無理に前へ出ろとは言わない。ただ、離れすぎると魔物が出た時に連絡が届かない」


 リシアは薄く笑った。


「守るって言わないの?」


「言いたい。でも、今それを言うと軽く聞こえる気がした」


 リシアの狐耳が、小さく動いた。


「……変なの」


 レクスは真面目に頷く。


「昨日も言ってたぞ」


「変なのは何度見ても変なのよ」


「じゃあ、見慣れたら変じゃなくなるのか?」


「ならない。たぶん増えるわ」


 ユリウスが両手を広げた。


「俺たち、出発前から評価が悪化してないか!?」


 ノエルは治療鞄を肩にかけ、淡々と言った。


「少なくとも、出発前に会話が成立しているだけ前進です。任務中は勝手に離れないでください。治療対象が視界外に行くと非常に困ります」


 リシアが目を細める。


「私は治療対象じゃない」


「怪我をしたら治療対象です」


「怪我をしないようにする」


「良い方針です」


 ユリウスが肩を落とした。


「ノエル真面目! 皮肉が壁に跳ね返ってきた!」


 レクスは山を見た。


「行こう。匂いが変わる前に見たい」


 街道から山外縁部へ入った瞬間、レクスの足音が変わった。


 石と土が混じる道から、湿った落ち葉の上へ。人と馬の匂いが薄れ、草、木の皮、獣の毛、古い泥の匂いが濃くなる。レクスは自然に背を低くし、視線を地面へ落とした。土、枝、草の倒れ方、鳥の声。全部が一度に目と耳へ入ってくる。


 リシアがそれを横目で見た。


「……さっきまで肉の焦げ方に騒いでた人と同じ?」


 ユリウスが小声で答える。


「残念ながら同じだ。山に入ると急に頼れる。俺もまだ慣れない」


 ノエルも声を抑えた。


「集中している時は、余計な声をかけない方がいいです。足元と周囲の変化を同時に見ています」


「声は聞こえてる」


 レクスは土を見たまま言った。


 ユリウスがびくりとする。


「聞こえてるなら、俺の扱いが少し雑じゃないか?」


「山ではうるさいやつから見つかるぞ」


「俺、今すでに危険判定されてる!?」


「声は小さくなった。少しましだぞ」


「まし判定をもらった! 嬉しいような悔しいような!」


 リシアが小さく呆れた顔をし、ノエルが「静かに」と短く言う。ユリウスは慌てて口を押さえた。


 しばらく進んだところで、レクスが足を止めた。


 木の幹に、深い爪跡があった。


 ただ裂けているのではない。太い幹が横からえぐられ、木の皮がめくれ、内側の白い部分が抉れている。爪跡の端には、黒い粉のようなものが薄く残っていた。封印箱の破片に残っていたものと、同じ匂いがする。


 周囲の土には、小型魔物の足跡がいくつも重なり、どれも山奥から街道側へ逃げるように乱れている。


 レクスはしゃがみ、指先で土に触れた。


 鼻を近づける前に、ノエルの視線が来る。


「直接触った指を口元に近づけないでください」


「分かってる。嗅がなくても少し分かる」


 レクスは指先を見て、眉を寄せる。


「ここを通ってる。あいつじゃないかもしれない。でも、同じ匂いが残ってる」


 ユリウスの顔が引き締まった。


「黒爪猩型魔物の痕跡か?」


「深い方から降りてる。しかも、周りの魔物が逃げてる。ここで何かを探したんじゃない。通っただけで、周りが逃げた」


 ノエルが報告板へ記録する。


「押し出された魔物が、街道側へ流れている可能性があります。作業場や小屋があるなら、早急に確認が必要です」


 リシアは山奥側を見ていた。


 馬車の時の黒い筋。長い腕。鉄格子をねじ曲げる黒い爪。彼女の肩がわずかに固くなる。


「あれを追うの?」


 レクスはすぐには答えず、リシアを見た。


 怖がっているだけなら、目はもっと泳ぐ。リシアの目は、山奥と退路を同時に見ていた。


「今は奥へ行かない。痕跡を見るだけだぞ」


「本当に?」


「グラントにも言われた。ノエルにも怒られる。ユリウスもうるさい」


 ユリウスが片手を上げる。


「最後だけ扱いおかしくないか!? 俺は重要な安全確認をしているだけだぞ!」


「うるさく安全確認してる」


「言い方!」


 リシアの口元が、ほんの少しだけ動いた。


 笑うほどではない。けれど、張り詰めていた空気が一瞬だけ緩む。レクスは何も言わなかった。言えばきっと怒ると思ったからだ。


 その時、風向きが変わった。


 レクスの鼻が動く。


 焦げた木。


 荷車の油。


 干し肉。


 血。


 小型魔物の臭い。


 人の汗と恐怖。


 レクスは顔を上げた。


「あっちだ。魔物がいる。人もいる」


 ユリウスが地図を広げる。


「作業小屋だ。木材置き場と荷車の休憩所がある。今日は作業員が入っているはずだ!」


「急ぐぞ!!」


 レクスが走り出す。


 ユリウスも地図を畳みながら追う。ノエルは治療鞄を抱え直し、息を乱さずに走った。リシアは一瞬だけ遅れた。人がいる場所に近づくほど、彼女の肩に警戒が戻る。


 それでも、足は止めなかった。


 作業小屋は、街道から少し外れた木々の間にあった。


 小屋の壁には黒い爪跡が残っていた。馬車ほど深くはないが、木板が裂け、棚が倒れ、餌袋が破れている。荷車は片側の車輪が泥に沈み、干し肉を入れた袋が地面に散らばっていた。


 数人の作業員が小屋の前で固まり、年長の男が斧を持って震えている。


 ユリウスが前に出た。


「ヴァルクハイン家の者です! 状況を確認します! 負傷者はいますか!」


 男の顔に、助けが来たという安堵が浮かんだ。


 けれど、その目がリシアへ動いた。


 狐耳。伏せた尾。警戒する目。


 次に、レクスの耳を見た。


 男の顔が強張った。


「助けは欲しい。でも……獣人は近づけないでくれ」


 空気が止まった。


 リシアの狐耳がぴくりと固まる。ユリウスが息を呑む。ノエルの目が冷える。レクスは少し遅れて、自分の狼耳に触れた。


「……俺も、近づかない方がいいのか?」


 男は答えなかった。


 答えないことが、答えだった。


 レクスの胸の奥が、ぎゅっと詰まった。門前で「化け物」と呼ばれた時の感覚が、喉の奥へ戻ってくる。


 自分は魔物を倒した。


 人を助けた。


 ここでも助けに来た。


 なのに、最初に見られるのは耳なのか。


 男は斧を握りしめ、震える声で続けた。


「悪い……! でも、うちの弟は、戦争で獣人に殺されたんだ。狐も、狼の耳も、見ると……どうしても思い出すんだ。頭では、今それどころじゃないって分かってる。でも、体が……」


 リシアが薄く笑った。


「助けは欲しい。でも近づくな。人間って、お願いまで器用ね」


 男は何も言えなかった。


 ユリウスが一歩前に出かける。


「リシア、それは――」


「中に、まだ人がいるのか」


 レクスの声が割り込んだ。


 怒っていた。傷ついていた。けれど、レクスの目は小屋の奥を見ていた。血の匂い。恐怖の匂い。まだ動いている足音。


 男は視線を逸らした。


「若いのが一人、裏手に……荷を取りに行ったまま戻ってない。兵士が一人、追ってくれたけど、まだ……」


 その瞬間だった。


 小屋の裏手で、木が裂ける音がした。


 続いて、悲鳴。


「うわああっ!」


 レクスは走り出した。


 近づくな、と言われた。


 自分の耳を見られた。


 リシアも傷ついた。


 胸の奥は、まだ少し熱かった。


 それでも悲鳴がした。助けを求める声がした。


 なら、足は止まらなかった。


 小屋の裏手には、折れた木と散らばった薪が転がっていた。


 若い作業員が腰を抜かしている。その前に、辺境伯兵が一人、盾を構えて立っていた。兵士の足は震えている。けれど、下がっていない。後ろの若者を庇うように、盾を前へ押し出している。


 その向こうにいたのは、猪型魔物だった。


 ただし、普通ではない。背中に黒い爪で裂かれたような傷がある。毛は逆立ち、片方の牙が欠け、目は恐怖と興奮で血走っていた。


 黒爪猩型魔物に追われ、押し出され、逃げ場を失った個体。


 人を食うためではない。


 逃げる先に人がいて、邪魔だから突っ込む。


 ユリウスが叫んだ。


「兵士を下げろ! 正面で受けるな!」


 だが、兵士は下がれなかった。


 後ろには、まだ動けない若い作業員がいる。


 ノエルの顔色が変わる。


「あの位置では、治療に入れません!」


 リシアの指先が震えた。幻惑を使うか迷っている。けれど距離がある。猪型魔物の目は血走り、鼻は恐怖で荒れている。視線をずらせても、突進そのものを止められるか分からない。


 レクスは地面を蹴った。


 だが、魔物の方が速い。


 猪型魔物が突っ込んだ。盾が鳴る。鈍い音が裏手に響いた。次の瞬間、兵士の身体が半分浮いた。


「間に合わない……!」


 ノエルの声が、鋭く震えた。


 レクスは歯を食いしばる。


 胸の奥で、身体強化の熱が暴れかけた。犬歯の奥が疼く。足裏が地面を掴む。視界が、兵士の胸元へ迫る牙だけに狭まる。


 使えば、また誰かが減る。


 ノエルの声が頭に残っている。


 それでも、魔物の牙はもう兵士の胸元へ届きかけていた。


 レクスは、地面を抉るほど強く踏み込んだ。


 胸の奥の熱を、噛み殺しながら。

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