第15話 初任務と、黒い爪跡
ヴァルクハイン家の執務室には、朝から重い空気が落ちていた。
机の上には、南街道の旧道で回収されたものが並んでいる。
粗悪な封印箱の破片。黒い粉が付着した木片。鉄格子に残った黒い爪痕の写し。奴隷商人の偽装荷札。旧道周辺の魔物被害報告。
どれも、机の上では小さなものに見える。
けれど、血の匂いも、檻の音も、黒爪猩型魔物の黒い目も、そこから離れていなかった。
レクスは机の前に立ち、黒い粉のついた木片をじっと見ていた。近づきすぎるなとノエルに言われているから鼻を近づけはしない。けれど、布越しでも分かる。
あの嫌な匂いが、まだ残っている。
黒角熊型魔物。
黒牙鹿型魔物。
そして、黒爪猩型魔物。
全部、奥に同じ匂いがあった。
グラントは机の向こうで、短く言った。
「黒脈石だ」
ユリウスの顔から、いつもの軽さが消えた。彼は報告板を抱えたまま、唇を噛む。
「黒脈石……。父上、それは王国では全面禁止の禁制素材ですよね? 所持だけでも重いのに、輸送していたとなると……」
「所持、輸送、隠匿。どれも国家反逆罪に関わる。奴隷商人の馬車一台で済む話ではない」
その言葉に、リシアが壁際で薄く笑った。
彼女は椅子に座っていない。壁に背をつけ、出口と窓と、部屋にいる全員の位置が見える場所に立っている。袖の下で手首の鎖跡を握り、狐耳はわずかに後ろへ伏せていた。
「私たちは、その反逆罪の荷物隠しに使われてたってことね。獣人奴隷の檻の下に、魔物を呼ぶ石。人間って本当に、商品を重ねるのが上手いんだ」
ユリウスは言い返せなかった。
言い返したかったのだろう。唇が動きかけ、けれど言葉は出なかった。リシアの皮肉が乱暴すぎるとは、誰も言えない。
実際に、檻の下に隠されていたのは、魔物を呼ぶ黒い欠片だった。
ノエルが治療鞄の紐を握り直し、静かに言う。
「黒脈石は、治療対象を増やす石です。魔物を呼び、人を傷つけ、治せる数を簡単に超えさせます。禁止されている理由としては、とても分かりやすいです」
「分かりやすいから余計に腹立つ!!」
レクスは拳を握った。
檻。鎖。首輪。リシアたちが閉じ込められていた馬車。その床下に、魔物を呼ぶ石が隠されていた。
「そんなものを、リシアたちの下に隠してたのかよ……! 檻に入れたうえに、魔物まで呼ぶものを置いてたってことだろ!?」
「そうだ」
グラントはごまかさなかった。
その短さで、逃げ道がなくなった。
リシアは笑ったまま顔を逸らしたが、その指は袖の下でさらに強く手首を握っていた。
グラントは地図へ視線を落とした。
「この件は終わっていない。黒脈石がどこから出て、誰が運ばせ、誰が受け取るはずだったのか。調査は続ける」
ユリウスが姿勢を正す。
「では、俺たちはその背後を――」
「お前たちが今追うのは黒幕ではない」
グラントの声に、ユリウスは口を閉じた。
執務室の空気が、一段冷える。
グラントの指が、旧道から山外縁部へ伸びる線をなぞった。
「今追うべきは、黒爪猩型魔物の痕跡だ。どこから降り、どこへ向かい、何を押し出しているのか。爪跡、足跡、逃げた魔物の流れ、作業場や村の被害。すべて拾え」
ユリウスは小さく息を吸った。
「つまり、俺たちは討伐隊じゃなくて、危ない場所を先に見つける調査先遣隊……ということですね」
「そうだ。今必要なのは英雄ではない。次に死ぬ場所を先に見つける目だ」
レクスは、その言葉に顔を上げた。
英雄ではない。
次に死ぬ場所を先に見つける目。
ガレンならどう言うだろう。山で一番怖いのは、強い魔物ではなく、いるはずのない場所にいるはずのない魔物がいることだ。
父の声が、頭の奥で響いた気がした。
グラントはレクスを見る。
「レクス。お前は、あの黒爪猩型魔物をどう見た」
レクスは黒い粉から目を離し、少し眉を寄せた。
「強かった。でも、それだけじゃない。あいつ、十二歳の時に父ちゃんと戦った黒い熊と似たにおいがした」
ユリウスが反応する。
「ガレンが膝をついたっていう、あの魔物か?」
「形は違う。熊と猿で全然違う。でも、匂いの奥が同じだった。黒脈石の嫌なにおいが、同じくらい濃かった。鼻の奥に残る感じが、似てた」
言いながら、レクスの指先が少し震えた。
十二歳の時の森。黒角熊型魔物。血を流して片膝をついたガレン。あの時の父の手の震えと、「お前……も……か」という声。
レクスは喉の奥に引っかかるものを飲み込む。
グラントの表情もわずかに重くなった。
「黒脈石は、取り込んだ量で魔物の危険度が大きく変わる。お前の証言が正しいなら、あれはガレンが膝をついた魔物と同格に近い可能性がある」
レクスは息を呑んだ。
「父ちゃんが……膝をついたのと、同じくらい?」
「可能性の話だ。だからこそ、遭遇しても討伐するな。前回、お前たちは勝っていない。生き残っただけだ」
胸の奥が、悔しさで熱くなった。
言い返したかった。
けれど言い返せない。黒爪猩型魔物は倒れていない。あれは逃げたのではなく、戻った。レクスたちは、あいつが山奥へ戻るまでの間、どうにか生き延びただけだ。
ノエルが淡々と続ける。
「その通りです。前回、レクスは身体強化の反動、ユリウスは打撲、私は魔力消費、リシアは幻惑による精神的負荷が残りました。あれを勝利とは呼びません」
ユリウスが苦い顔で笑った。
「ノエル、事実を並べると俺たちの初任務前の士気が削れるんだけど」
「削れて残る程度の士気なら、現場で折れるより安全です」
「言い方が冷静すぎる! 俺の死にそうな士気を治して!」
「心の治療は担当外です」
「また置き去りにされた!」
リシアが小さく息を漏らした。
「冷たく聞こえるけど、間違ってないのが嫌ね」
レクスは拳を開き、息を吐く。
「分かった。追う。でも、見つけても突っ込まない。今度は、守れる形にしてから行く」
グラントは短く頷いた。
「それを必ず守れ」
朝の中庭には、薄い光が差していた。
石畳には夜露が残り、門の近くでは兵士たちが装備を確認している。山の稜線は遠く、青く霞んで見えた。
ユリウスは地図と報告板を抱え、何度も荷物を確認していた。ノエルは治療鞄の留め具を指先で確かめ、薬包の数を静かに数えている。リシアは少し離れ、門、兵士、庭木、屋敷の窓、逃げ道になりそうな場所を順に見ていた。
レクスは振り返った。
「リシア、遠いぞ」
「近いと落ち着かないの。後ろに立たれるより、後ろにいる方がまし」
リシアは腕を組み、そっぽを向いた。
ユリウスが地図を抱え直し、少しだけ言葉を選ぶ。
「無理に前へ出ろとは言わない。ただ、離れすぎると魔物が出た時に連絡が届かない」
リシアは薄く笑った。
「守るって言わないの?」
「言いたい。でも、今それを言うと軽く聞こえる気がした」
リシアの狐耳が、小さく動いた。
「……変なの」
レクスは真面目に頷く。
「昨日も言ってたぞ」
「変なのは何度見ても変なのよ」
「じゃあ、見慣れたら変じゃなくなるのか?」
「ならない。たぶん増えるわ」
ユリウスが両手を広げた。
「俺たち、出発前から評価が悪化してないか!?」
ノエルは治療鞄を肩にかけ、淡々と言った。
「少なくとも、出発前に会話が成立しているだけ前進です。任務中は勝手に離れないでください。治療対象が視界外に行くと非常に困ります」
リシアが目を細める。
「私は治療対象じゃない」
「怪我をしたら治療対象です」
「怪我をしないようにする」
「良い方針です」
ユリウスが肩を落とした。
「ノエル真面目! 皮肉が壁に跳ね返ってきた!」
レクスは山を見た。
「行こう。匂いが変わる前に見たい」
街道から山外縁部へ入った瞬間、レクスの足音が変わった。
石と土が混じる道から、湿った落ち葉の上へ。人と馬の匂いが薄れ、草、木の皮、獣の毛、古い泥の匂いが濃くなる。レクスは自然に背を低くし、視線を地面へ落とした。土、枝、草の倒れ方、鳥の声。全部が一度に目と耳へ入ってくる。
リシアがそれを横目で見た。
「……さっきまで肉の焦げ方に騒いでた人と同じ?」
ユリウスが小声で答える。
「残念ながら同じだ。山に入ると急に頼れる。俺もまだ慣れない」
ノエルも声を抑えた。
「集中している時は、余計な声をかけない方がいいです。足元と周囲の変化を同時に見ています」
「声は聞こえてる」
レクスは土を見たまま言った。
ユリウスがびくりとする。
「聞こえてるなら、俺の扱いが少し雑じゃないか?」
「山ではうるさいやつから見つかるぞ」
「俺、今すでに危険判定されてる!?」
「声は小さくなった。少しましだぞ」
「まし判定をもらった! 嬉しいような悔しいような!」
リシアが小さく呆れた顔をし、ノエルが「静かに」と短く言う。ユリウスは慌てて口を押さえた。
しばらく進んだところで、レクスが足を止めた。
木の幹に、深い爪跡があった。
ただ裂けているのではない。太い幹が横からえぐられ、木の皮がめくれ、内側の白い部分が抉れている。爪跡の端には、黒い粉のようなものが薄く残っていた。封印箱の破片に残っていたものと、同じ匂いがする。
周囲の土には、小型魔物の足跡がいくつも重なり、どれも山奥から街道側へ逃げるように乱れている。
レクスはしゃがみ、指先で土に触れた。
鼻を近づける前に、ノエルの視線が来る。
「直接触った指を口元に近づけないでください」
「分かってる。嗅がなくても少し分かる」
レクスは指先を見て、眉を寄せる。
「ここを通ってる。あいつじゃないかもしれない。でも、同じ匂いが残ってる」
ユリウスの顔が引き締まった。
「黒爪猩型魔物の痕跡か?」
「深い方から降りてる。しかも、周りの魔物が逃げてる。ここで何かを探したんじゃない。通っただけで、周りが逃げた」
ノエルが報告板へ記録する。
「押し出された魔物が、街道側へ流れている可能性があります。作業場や小屋があるなら、早急に確認が必要です」
リシアは山奥側を見ていた。
馬車の時の黒い筋。長い腕。鉄格子をねじ曲げる黒い爪。彼女の肩がわずかに固くなる。
「あれを追うの?」
レクスはすぐには答えず、リシアを見た。
怖がっているだけなら、目はもっと泳ぐ。リシアの目は、山奥と退路を同時に見ていた。
「今は奥へ行かない。痕跡を見るだけだぞ」
「本当に?」
「グラントにも言われた。ノエルにも怒られる。ユリウスもうるさい」
ユリウスが片手を上げる。
「最後だけ扱いおかしくないか!? 俺は重要な安全確認をしているだけだぞ!」
「うるさく安全確認してる」
「言い方!」
リシアの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑うほどではない。けれど、張り詰めていた空気が一瞬だけ緩む。レクスは何も言わなかった。言えばきっと怒ると思ったからだ。
その時、風向きが変わった。
レクスの鼻が動く。
焦げた木。
荷車の油。
干し肉。
血。
小型魔物の臭い。
人の汗と恐怖。
レクスは顔を上げた。
「あっちだ。魔物がいる。人もいる」
ユリウスが地図を広げる。
「作業小屋だ。木材置き場と荷車の休憩所がある。今日は作業員が入っているはずだ!」
「急ぐぞ!!」
レクスが走り出す。
ユリウスも地図を畳みながら追う。ノエルは治療鞄を抱え直し、息を乱さずに走った。リシアは一瞬だけ遅れた。人がいる場所に近づくほど、彼女の肩に警戒が戻る。
それでも、足は止めなかった。
作業小屋は、街道から少し外れた木々の間にあった。
小屋の壁には黒い爪跡が残っていた。馬車ほど深くはないが、木板が裂け、棚が倒れ、餌袋が破れている。荷車は片側の車輪が泥に沈み、干し肉を入れた袋が地面に散らばっていた。
数人の作業員が小屋の前で固まり、年長の男が斧を持って震えている。
ユリウスが前に出た。
「ヴァルクハイン家の者です! 状況を確認します! 負傷者はいますか!」
男の顔に、助けが来たという安堵が浮かんだ。
けれど、その目がリシアへ動いた。
狐耳。伏せた尾。警戒する目。
次に、レクスの耳を見た。
男の顔が強張った。
「助けは欲しい。でも……獣人は近づけないでくれ」
空気が止まった。
リシアの狐耳がぴくりと固まる。ユリウスが息を呑む。ノエルの目が冷える。レクスは少し遅れて、自分の狼耳に触れた。
「……俺も、近づかない方がいいのか?」
男は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
レクスの胸の奥が、ぎゅっと詰まった。門前で「化け物」と呼ばれた時の感覚が、喉の奥へ戻ってくる。
自分は魔物を倒した。
人を助けた。
ここでも助けに来た。
なのに、最初に見られるのは耳なのか。
男は斧を握りしめ、震える声で続けた。
「悪い……! でも、うちの弟は、戦争で獣人に殺されたんだ。狐も、狼の耳も、見ると……どうしても思い出すんだ。頭では、今それどころじゃないって分かってる。でも、体が……」
リシアが薄く笑った。
「助けは欲しい。でも近づくな。人間って、お願いまで器用ね」
男は何も言えなかった。
ユリウスが一歩前に出かける。
「リシア、それは――」
「中に、まだ人がいるのか」
レクスの声が割り込んだ。
怒っていた。傷ついていた。けれど、レクスの目は小屋の奥を見ていた。血の匂い。恐怖の匂い。まだ動いている足音。
男は視線を逸らした。
「若いのが一人、裏手に……荷を取りに行ったまま戻ってない。兵士が一人、追ってくれたけど、まだ……」
その瞬間だった。
小屋の裏手で、木が裂ける音がした。
続いて、悲鳴。
「うわああっ!」
レクスは走り出した。
近づくな、と言われた。
自分の耳を見られた。
リシアも傷ついた。
胸の奥は、まだ少し熱かった。
それでも悲鳴がした。助けを求める声がした。
なら、足は止まらなかった。
小屋の裏手には、折れた木と散らばった薪が転がっていた。
若い作業員が腰を抜かしている。その前に、辺境伯兵が一人、盾を構えて立っていた。兵士の足は震えている。けれど、下がっていない。後ろの若者を庇うように、盾を前へ押し出している。
その向こうにいたのは、猪型魔物だった。
ただし、普通ではない。背中に黒い爪で裂かれたような傷がある。毛は逆立ち、片方の牙が欠け、目は恐怖と興奮で血走っていた。
黒爪猩型魔物に追われ、押し出され、逃げ場を失った個体。
人を食うためではない。
逃げる先に人がいて、邪魔だから突っ込む。
ユリウスが叫んだ。
「兵士を下げろ! 正面で受けるな!」
だが、兵士は下がれなかった。
後ろには、まだ動けない若い作業員がいる。
ノエルの顔色が変わる。
「あの位置では、治療に入れません!」
リシアの指先が震えた。幻惑を使うか迷っている。けれど距離がある。猪型魔物の目は血走り、鼻は恐怖で荒れている。視線をずらせても、突進そのものを止められるか分からない。
レクスは地面を蹴った。
だが、魔物の方が速い。
猪型魔物が突っ込んだ。盾が鳴る。鈍い音が裏手に響いた。次の瞬間、兵士の身体が半分浮いた。
「間に合わない……!」
ノエルの声が、鋭く震えた。
レクスは歯を食いしばる。
胸の奥で、身体強化の熱が暴れかけた。犬歯の奥が疼く。足裏が地面を掴む。視界が、兵士の胸元へ迫る牙だけに狭まる。
使えば、また誰かが減る。
ノエルの声が頭に残っている。
それでも、魔物の牙はもう兵士の胸元へ届きかけていた。
レクスは、地面を抉るほど強く踏み込んだ。
胸の奥の熱を、噛み殺しながら。




