終 さたん丸や
「──わたしはまた、一匹の獣が海から上って来るのを見た。
この獣は鬼に似ており、足は熊の足のようで、
その口は獅子、また海蛇のようでもあった──」
「──『だれが、この獣に匹敵し得ようか。
だれが、これと戦うことができようか』──」
──古の語り部の言
──意識を取り戻したとき。
桃次郎は淡く打ち寄せる波間に浮かんでいた。
躰を洗うような流れは酷く痛く、痺れすら感じられる。
きっと真水ではなく、海水だからかも知れぬ。
視界の先──黒い海面の向こうには白い砂浜の湾が見渡せ、
続く山々の稜線もなだらかで青い。
浜の奥の平野には、丸太を組んで並べた壁があった。
山の端から山の端まで、どこまでも続くような大壁──
そこで気付いた。
──ここは伊勢だ。
人間を誘い込むため、鬼たちが築いたあの砦だ。
一体どこをどう落ち、ここへ辿り着いたものかよく思い出せぬ。
早く水から上がりたいが──まったく躰は動かせない。
落下の衝撃で、あらゆる器官が壊れてしまったかのように──
「──なにゆえぞ? なにゆえこの鬼、未だ生き長らえておる──?」
赤子の声がした。
けれどもその姿はどこにも見えぬ。
「──天照す光明を浴び、なにゆえかくも形体を保ち得るや──?」
「──解せぬ。解せぬ──」
「──いと妖し。いと妖し──」
「──もしや、もしや貴様──月の化身! 女神の元型を喰らいしかッ?」
「──あな恐ろしッ! いと、汚らわしッ!」
「──嗚呼、なんたる所業! まこと赦されざる大罪なり! 汝は地の表、天つ空に息づく万物のうち、最も呪われる! 惨めにも腹這いにて過ごし、終の世まで塵を食みて生きるべし! まこと忌々しき『さたん丸や』めッ!」
声は無数のやまびこのように鳴り響き、やがて天へと昇って消えた。
耳に届くのはただ淡い波の音。
潮に舐められた躰は酷く痒く、同時に針で刺されているみたいだ。
けれども、そのお陰で頭はやけにはっきりとしてきた。
自分の内側に、未だ薄っすらと感ぜられる冷たい月の気配──
しっかりと噛み締めながら、桃次郎は語りかける。
「──次にぶっ殺して喰らう相手は決まった。──なあ、白月?」
(完)




