其の三十八 失われた福音
「えでん──? なんだ、それは──?」
実に、初めて聞く名であった。
混乱する桃次郎に向け、兄が蔑んだような目を投げる。
「──やはり。お前はそんなことすら憶えていないのだな──」そして、大樹の方を見やり、「ならば、この木のことはどうだ? まさかお前は、これをただの桃の木だとは思っていまいな?」
「──そ、そんなことはない。むしろ──母だと、思っている──」
「愚かな。一体、誰の入れ知恵だ? なぜ、樹木に性別が存在する?
私の知る限り、これは『生命の樹』という。
その果実を食せば永遠の命を得ると云われるが、それだけではない。ときに大いなる意志の介入により、赤子そのものすら産み落とすことができる──ちょうど私や、お前のように──
──そして桃次郎? さてはその様子では、私たちには兄のような存在がいた事も忘れているな?」
「な、何? それは──どういうことだ?」
しばらくの間、沈黙があった。
桃太郎はまた苦しそうに血を拭い、
「──実を言えば私たちは、一番最初に樹を離れた桃ではない。
私の育ての母──つまり、川から桃を引き上げた媼は、私たち以前に流れた果実を食べてしまったのだ。
洗濯をしていて小腹が空いたのかどうか、それはよく解らない。けれども、あの女はあろうことか暴れるような食欲に負け、最初の桃をがつがつと喰らったのだ。
──それが美味であったのは言うまでもない。
なぜならその桃こそ、大いなる意志の同体にして、
男女の性交にも依らぬ最も聖なる種──本当の救世主を懐妊していたのだから。
媼は続いてこう言った。
『甘い桃っこはこっちゃ来い。苦い桃っこはあっちゃ行け』
──この意味が解るか?
媼は『甘い桃は受け取るが、苦い桃は要らない』と言った。
大罪を犯した身でありながら──救世主を喰い殺した身でありながら、さらに自分勝手な要求をした!
だから──呪いが生まれた。
桃源郷は媼の求めるとおり、再び桃を河に流した。
ただし、それはお前も知ってのとおり二つの桃だった。
媼はそのうち、手近な方の桃を取り上げ、残りは河の流れるままに任せたわけだが──果たしてたかが人間ごときに、聖なる桃の良し悪しなど解るだろうか?
──そうだ。
甘い桃はなかった。
二つとも苦い桃だった。
私たちは両方とも、
この地上に裁きを行うために送られた、
苦い桃だったのだ!
──もう解っただろう?
私は──桃太郎などではない。
私はお前の──あなたの兄ですらないのだ。
桃源郷に生えた桃の木から、果実が河に落下した順番でいえば、本当はあなたの方が先となる。つまり、正しくは私は桃三郎で、弟なのだ。
私が行おうとした役目──
罪にまみれた世界を今一度ぬぐい去る大業は、継承順位でいっても元々はあなたが為すべきもの。
──さあ、兄上。
どうか私の心臓をお食べなさい。
その身にすべての力を宿し、この忌まわしい世界を消し去って下さい。
大いなる意志のもとに完成させるのです。
父と、子と、聖霊の御名に──」
「やめろッ!」桃次郎は怒鳴った。
なにも思い出せなかった。
同じ大樹に育ち、共に河へと流れた弟が語る真実──
どれもこれも、身に覚えがない!
──いや、
本当にそうだろうか?
白月の心臓を喰らったとき、一瞬響き渡った大号令。
──人間を喰らい、殺す、真の鬼──
あれが、あれこそが、本来の俺の姿──?
「──兄上、もう時間がありません──」
滝の鮮血を吐き出し、弟が言う。
「──私の命は尽きようとしている。早く心臓を抜き出だしなさい。そして──喰らうのです!」
「──やめろ、やめてくれ」
「──何を躊躇うのです! あなたも見たでしょう、この地上に蔓延る悪徳と汚濁を? 不浄な世界に生まれ落ち、あなたは一番苦労した。どこまでも利己的で倒錯した人間どもは、常にあなたを踏み躙り、利用した! ──彼らは愛されるべきではない。救われるべきではない。灰や塵にさえ、返るべきではないのだッ!」
「──頼む! 頼むから、やめてくれッ!」
ふいに、桃三郎の残った腕が動いた。
とても半死人には思われぬ素早さだった。
太い腕が胸を突き、ミチミチと心臓が引き出される。
桃次郎のものではない。
弟が自ら、自分の心臓を抜き出したのだ!
「──あ、兄、う、──これ、を──神の、国は──近──」
こちらの掌に脈打つ心臓を握らせ、桃三郎はゆっくり崩れ落ちる。
あまりに突然の行動に、ショックを隠せぬ桃次郎──
しかしそれ以上に驚くのは光だ。
心臓が日輪のごとき耀きを発している。
月の光とは違う、温かな黄や橙──掌さえも貫通し、すべてが包み込まれて行く。
酷く、既視感があった。
これはまるで──宝珠の光!
もちろん弟の心臓は、独りでに沈み込んで肉と融合はせぬ。
それでもこの耀きを眺めていると、激しい誘惑に駆られてしまう──
──弟は母ではないと言ったが、
大樹と繋がっていた頃、俺に不安はなかった。
羊膜に包まれ、心地よい温もりを感じ、
ただいつまでも微睡んでさえいれば良かった。
戦うこと、
殺すこと、
喰らうこと、
怒りに震えることも、
憎しみに呑まれることもなかった。
──この肝を喰らうならば、きっとまた繋がれるだろう。
熱き日輪がすべてを消し去り、書き換え、作り変えるその代わりに、
不変にして原初のもの、
大いなる意志に束ねられ、一つとなる至福──
その安心感はあらゆる快楽、
あらゆる愉楽よりも尊い──
──が、しかし。
「やっぱり──俺は鬼だ。怒りも憎しみも、その内に抱え込む──真の鬼だッ!」
両の手で包み、左右からゆっくり力を込める。
潰れ、ひしゃげてゆく中、光の洪水は急速に内側へと縮み込み、
次の瞬間には大炎熱が次の大炎熱を、大焦熱が次の大焦熱を生み出す、
阿鼻叫喚の連鎖反応を引き起こす。
本来ならば、指どころか両腕も無くなっていたに違いない。
それを防いでいるのは、冷たい月だ。
まるで白月のひんやりとした掌が、一緒に重ねられているかのように──
平手同士が合わさったとき、光はただ真っ直ぐに天へと昇って消えた。
その光線を受けた大樹の枝葉は、
揺れるでもなく、枯れるでもなく、また燃え上がりもせず、
ただ絶え間なく辺りへ花の匂いを漂わせている。
桃源郷はもう、昼に近くなったのかもしれぬ。
「──終った。すべて終ったぞ──白月──」
桃次郎が自分の胸に手を当て、そう、ぽつりと呟いた瞬間──
──晴れるや──!
──晴れるや──!
──晴れるや──!
青く澄み切った遥かな天空から、大音声が響き渡った──




