其の三十七 あぽかりぷすなう
「──詔が勅された。すると、
血のまじった雹と火があらわれて、地上に降ってきた。
そして、地の三分の一が焼け、木の三分の一が焼け、
また、すべての青草も焼けてしまった──」
──古の語り部の言
──ズッドオォォッ!
一つ目の火球が水面を打ち、飛沫と共に高い水柱を噴き上げた。
水に触れたそれは、急激な気化現象によって爆発的な泡を生じる。
一直線に水中を進み、湖底の岩盤に突き当り、それでも気泡の放出は止まらぬ。
さらに二つ目、三つ目が水柱をあげた。
視界の中、無数の赤が肥大化し、ぐんぐんと迫ってくる。
どう見ても──岸辺へ逃れる余裕はない!
桃次郎は複数の呪言を唱え、急いで水中に身を沈めた。
完全なる愚策──そんなことは百も承知だ。
しかし、金属の躰ならば、あるいは──?
──ばばばばッばばばッばばッばばッばばッばばぁッ!
水中いっぱいに広がる、激しい轟音。
さながら蒙古の「てつはう」か、あるいは火槍の一斉投擲。
強度をあげた硬い躰に、あとからあとから熱い塊がぶち当たる。
岩石ではない。金属のつぶてだ。頭に、首に、背中に──幾つもの窪が刻まれて行く。
なにより計算外だったのは、呼吸だ。
鰓から空気を取り入れているにも関わらず、やけに苦しい。
まさか──水中の空気が減っている──?
思えば熱交換によって、水温はどんどん上昇している。
溶け込んだものが熱によって失われるなら──沸騰に達する頃には、呼吸は不可能!
慌てて躰を動かす。
鉄化しているので重く、思ったように進めぬ。
仕方なく厚みを減らし、可動域を確保するが──
そこへ衝突するつぶての痛みは、半端ではない。
水掻きを作り、足鰭をバタつかせ、必死に泳ぐ。
あと少し、たった残り五間(約9m)を、海豚のように突き進む。
まるで宙返りでもするように、桃次郎は岸に乗り上げた。
うつ伏せのまま、何度も水を吐き、また何度も深呼吸をする。
視界の向こうでは未だ、湖面に向けて火球が打ちかかり、まるで地獄絵図のよう──
「──さようなら、桃次郎──」
頭の上から、声がした。
酷く、悲しみを湛えた声だった。
勢い、鉤爪の腕が突き下ろされる。
桃次郎の背中を破り、背骨を砕き、それはむんずと心臓をつかむ。
まるで土から根菜でも引き抜くように、どきん、どきん、と脈打つ肝が──
「──馬鹿め。かかったな──」
桃次郎は熊の力で右手を肥大化させ、
鳥の力で鋭く尖らせた五指を、桃太郎の背中へ目がけて突き込んだ。
──未だ使っていなかった、最後の隠し玉!
牛男の幻を作る神通力!
岸へと上がる直前、まずは自分の偽物を先行させておいたのだ。
「──くたばり、やがれッ!!」
──するり。
桃太郎の背中を貫いた──はずだった。
一切の感触がない。空気の中に手を伸ばしたかのよう。
これは──まさか──!
「──なぜこの私に、同じことができぬと?」
左斜め前から、声。
それも──ごく、近くだ!
「──私は誰よりも喰らった──」
何もない空間から巨大な腕が伸び、桃次郎の胸にそっと潜り込む。
薄い金属の皮膚が破れ、肋骨の一部がメキリ、と砕けた。
「──楽しみのためでも、美食のためでもなく、ただ無心に──」
筋肉の層がブチブチと音を立て、五指がめり込む。
その先端からほとばしる光が、細胞を炭化させながら進んで来る。
とっさに両手で握り押さえるが、まったく止まらぬ。
「──喰らってあげます。お前のすべてを──」
──自分のことはどうでも良かった。
ただこんな男に、白月を差し出してなるものか!
熊の力で肉を盛り上げ、鳥の力で鉄化させる。
──ダメだ。
それでも指が前進する。
遂に、心臓をつかまれた。
ぞっとするほど優しく、それでいてどこまでも力強い。
最後の手段に心臓を、動脈を、毛細血管を、芯の芯まで鉄にする。
握ったまま引っ張り出そうとする、桃太郎の腕が止まった!
けれども──ここでも計算外だ。
──完全に動きを止めた心臓。
力の源である鬼の血液を、もう送ることはできぬ。
かといって、鉄化は緩められない。
あらゆる血管がまるで硬い根となって、心臓を肉体に固定している。
もし変化を解くならば、確実に引き抜かれる──
視界がぐらつき、眼球が上下左右に踊った。
頭の中が煮えた脂のように融け出し、正しい思考ができない。
すべての音がふいに無くなり、濃い闇が忍び寄る。
消えぬ記憶──思い出したくもない、塵芥のような、
常に頭の片隅にあって、ひょっこり顔を出しては行動を呪縛し、苛み、
一日の始まりを台無しにする糞のような走馬灯も、
砂のようにこぼれ落ちて行く──
絶対に忘れたくない、唯一の思い出さえも──
*
「──なあ、桃次郎? そなた、なにゆえわたしを助けたのだ?」
「──そんなこと言われても。別に、理由なんかねえよ──」
「そうか? わたしはそうは思わんぞ。きっとなにか、大いなる理由があるのだ」
「──おいおい。それってまさか、神だか仏だかが最初から決めていた、みたいな話か? 止めてくれ」
「違う。そうではない。一本の長い糸のように、あるいは回り続ける車輪のように、定めは確かにわたしたちを呪縛する。されどその中に、選択が存在せぬことにはならぬ」
「──ちょ。なに言ってるのか、よく解らねえ──」
「例えばわたしだ。わたしがそなたに託したことは、言ってみれば不変のように見える糸、あるいは回る車輪を揺るがすさざ波だ。なにもかもがただ繰り返されるように見えて、その実、まったく同じということはない──」
「──白月? お前、一体何の話を──?」
「思い出せ、桃次郎。その心臓はお前だけのものではない。
半分はこのわたしだ。あの男に差し出すな。
寺で共に見上げた、光りかがやく望月。お前の中には常に、それが宿っておるのだぞ──」
*
──深く息を吸い込むと、なぜだか呼吸ができた。
とくり、とくり──
止まったはずの鼓動が躰を伝わり、確かに耳に届いている。
戻って来た視力が捉えたのは、光だ。
自分の中心から放たれる白き耀き。
すべてを射貫くような、真っ直ぐな閃光だ。
腕を差し込み、心臓を握る桃太郎の顔が苦痛に歪んでいる。
初めて見る表情。胸からは同時に濃い黒煙が立ち上っている。
──焼け落ちているのだ。
煌々たる月光の力に圧されて、
兄の指が、手が、赤い炭のように燃え上がっている!
──独りでに涙が溢れた。
悲しいからではない。白月は死んでなどいなかった。
今でも、俺の中に生きている!
桃太郎が唸り声をあげ、腕を乱暴に引き抜いた。
そこには──何もなかった。心臓はもちろん、指の骨さえも残っていない。
手首から向こう、焼け落ちた断面は黒と灰色が入り混じり、煙をあげて燻っている。
内から発する光は、未だ衰えをしらなかった。
鬼の血の比ではない。全身に途方もない力が漲っている。
桃太郎には害となるそれが、桃次郎には光明を与えている──!
ぐうるうるるるるううるるるうるるるうるるるうるうるるうるるうるるるる!!
両の手を重ね合わせ、二つが一つになるまで鳥の力で尖らせる。
まるで名刀のような鋭さをもった手刀──その刃にはうねるような刃文の代わりに、月の雫を垂らしたような青白い耀きが躍る。
中段に構え、目いっぱいに振りきったとき、
刀身は泡立ち、増幅された放射光はさながら瞬息千里を駆け抜け、
やや遅れて超音速の荒れ狂う衝撃波を巻き起こした!
──っしゅっぱあああああああああああああああああっっーーん!
左わき腹から入った手刀が、手を無くした腕を斬り飛ばし、右わき腹へと抜ける。飛び散った鮮血は無数の玉となり、疾風に乗って光り輝く大樹の根元を真っ赤に染めた。
桃太郎の上半身が──下半身から離れて行く。
前のめりに崩れるように、ゆっくり、ゆっくり──
転がり落ちるその刹那、
桃次郎は束ねた腕を元に戻し、むんずと首を鷲掴む。
今すぐにでも、くびり殺してやりたい気持ち──
しかし、多量の血の泡を吐きながら、それでも微笑を浮かべるその顔に、不気味さと同時に疑問が浮かぶ。
「──桃太郎よ。なぜ、こんなことをした──?」
徐々に光を失いつつあるその瞳を覗き込み、桃次郎は続ける。
「──俺とて人間は好きではない。いわんや、鬼、もののけも。だからといって、すべて殺す必要はないはずだ。一体なにがお前をそうさせる? 我らの故郷──桃源郷から河に流れたあと、何があった?」
「──と、桃源、きょう──?」
口から鮮血を滴らせ、兄が言う。
「──なんだ、それは? 生まれてこの方──私はそんな呼び名は、聞いたことがない──」
「誤魔化すな。ある男が──いや、多くの人間がそう呼んでいた」
「──誤魔化してなどいない。私が知っている名前とは、違っている──」
桃太郎の目に一瞬光が戻ったかのようだった。
苦労して残った方の腕で血を拭い、言った。
「──私の知る限り、この場所の名は──『えでん』だ」




