其の三十六 激突
母なる大樹に咲いた光る花から、甘い芳香が溢れ出していた。
桃次郎は呼気の中にそれを感じながら、兄へと迫る。
熊の筋肉が脚を動かし、鬼の心臓が血液を送り出す。
鳥の力は指先を固め、犬の喉は雷鳴のように唸り声をあげた。
──ぐうるうるうるるうるうるるうう!
鉄化した右の拳が女人の心臓を粉砕し、続いて左の拳が兄の胸を打つ。
肉がへこみ、内側の骨をへし折り、激しい衝撃が伝わる。
まるで紙細工のように、桃太郎が飛んだ。
二度、三度、地の上を跳ね、滑るように転がって行く。
土の上へ伸び、迫り出した大樹の根──激しくぶつかり、ようやく止まった。
そこへ目がけ、桃次郎は駆け寄る。
追撃の手は緩めぬ。なにがあっても拳を叩き込む──!
あと数歩で間合いに入るところ──しかし、手が止まった。
腕や脚が折れ、あらぬ方に曲がっている。
美しい顔もひしゃげ、顎もねじれている。
にも関わらず──笑っているのだ。
温かく、ただ今までどおり、微笑んでいる!
「──だいたい、解りました──」
──ごきり、ごきり──
桃太郎の躰が音を立てる。
──ぐきぐき、めきめき──
折れた部位、曲がった箇所が、元に戻って行く。
それどころか爆発的な勢いで、
肩が、腰が、胴体が──山のように盛り上がる!
──ぐううるううるるるうるうるるるうるうるるるううるうるうう!!
大木のごとき厚みの腕が、一直線に振り下ろされた。
後ろへ飛んで逃れるが、鉤爪の指が肉に食い込み、えぐり取る。
左腕に感じる鋭い痛み──噴き上がる鮮血の中、桃次郎は驚く。
鬼化した相手の姿──自分よりも一回り大きいだけではない。
その独特の厳めしい風貌には見覚えがあった。
──温羅だ!
燃え盛る堺の港──巨大な金棒を振り回し、
瀕死の重傷を負わされた──あの鬼だ!
頭が混乱する。
すでに治ったはずの火傷跡が熱を帯び、じゅくじゅくと疼く。
とても理解できぬが──考えられるのはたった一つ。
「──桃太郎。お前まさか──喰ったのか?」
「──なにを異なことを──」
爪の先に残った血肉を眺め──また、それを舐め取り──温羅そっくりの兄が言う。
「──天地に蠢くあらゆる者どもを、互いに競わせたはこれすべて、効率的に神通力を蒐集せんがため。勝ち残った者を刈り取るは──至極当然です」
ダダ、ダンッ!
強く大樹の根を蹴り、桃太郎が跳んだ。
一瞬で間合いを詰め、拳を繰り出す。
突き出される左右の腕を、順番に払うが重く、熱い。
まるで内側に、日輪が燃えているかのよう。
擦れたこちらの腕の皮膚が、どろりと剥がれ焼け落ちる。
耐火に優れる鬼の躰が──意味をなさぬ!
「──うぅッ」
あまりの苛烈さに、声が漏れた瞬間だ。
その隙を突き、下からぐうんと何かがせり上がる。
岩石のような桃太郎の膝蹴り。
桃次郎の土手っ腹へと、真っ直ぐにめり込んだ。
激しい衝撃が体内を駆け抜け、ぶはり、と吐血した。
押し潰された臓器──しかし痛みはそれだけではない。
肉に接した膝そのものが、鉄さえも融かす温度に白熱化し、光り輝いている!
辺りに黒の煙が立ち込め、得もいわれぬ臭気を発した。
圧迫と臭いで息ができぬ。逃れようとする桃次郎──
今度は脇腹にめがけ、真横から反対の膝が飛び掛かる!
──どどッどッ!
激しい風に煽られるように、躰がなぎ倒された。
地の表を飛び、二度三度とバウンドし、叩き付けられてなお滑って行く。
急に水飛沫が打ちかかり、続いてひんやりとした感覚に包まれた。
大湖に落ちたのだ。
苦労して呪言を唱え、鰓を作る。
腹の鈍痛は消えぬが、火傷にとっては好都合だ。
水底から遥か上を眺める。澄み切った湖面に望めるのは、ぼやけて歪んだ大樹の枝。不思議と兄が追撃してくる気配はない。
患部に鬼の血液を集中させつつ、ゆっくりと水を掻き、湖面に顔を出す。
果たして桃太郎は──同じ場所にいた。
大樹の下、うねるように土から飛び出した根のすぐ傍だ。
──笑っている。
鬼と化してなお、その顔は安らかで静かだ。
奇妙にも、慈悲さえ感じさせる──
──そうか。
この男には、一切の邪気がない!
鬼が、もものけが、
常にまとわせ漂わせる、殺意の一欠けらも存在しない──
「──そろそろ、本気で行きますよ。──桃次郎?」
──まるで地上に、太陽が出現したかのようだった。
桃太郎を中心に、目の眩むような光が辺りに放射している。
それは一度、ぐっと内側に収縮すると、真っ直ぐな光の柱となって天へと昇った。
貫かれた大樹の枝葉はしかし、揺れるでもなく、枯れるでもなく、
また燃え上がるわけでもない。
──やがて、天が鳴動した。
稲妻が落ちる前のように大空が唸り、咆え猛り、泣き喚く。
晴天が悍ましい赤へと変じ、続いて幾筋もの光が尾を引いて流れた。
「──マジ、かよ──」
桃次郎は逃げるのも忘れ、ただ硬直する。
燃え上がる無数の火の玉──湖面めがけ、次々と落ちかかってきたのだ!




