其の三十五 桃源郷
幾つかの急流、崖のような滝を登った。
流れは細く激しくなり、それに合わせて川面の上を滑るように濃霧が覆って行く。邪気は感じぬが、なんだか不安をもよおし、落ち着かぬ。
桃次郎は水の中、必死に腕を動かす。
利かぬ視界を物ともせず、水掻きの指で水を手繰り、ただ前へ進む。
ふいに、鰭の足に何かが当たった。
沈み込むほどに柔らかい、きめ細やかな砂──交互に踏み、さらに水を掻くと、
やがて砂の下の地面に足がついた。
丸一日──もしかしたら数日ぶりの陸地に桃次郎は身を横たえた。
自分で解るほどに体温が下がっている。
躰の節々が強張り、悲鳴をあげていた。
果たして俺はどこまで来たのだろう?
未だ、中継地点──それとも──
──ふわり。
どこからともなく、絹のように柔らかい一陣の風が吹き寄せた。
甘く、瑞々しく、不思議と心が落ち着く。
嗅いだことはないはずなのに、なぜだか酷く懐かしい。
そのそよぎに合わせ、桃次郎を覆う濃霧はみるみる川下へと押し流されて行く──
明瞭となった視界──
飛び込んできたのは、どこまでも極彩色の世界だ。
見渡す限りの平らかな原野──枝の先に桃色の花を茂らせた樹木の群れが、地平線の先の先まで続いている。その間を縫うのは鏡面のような河川の流れだ。
遥か遠く、青い峰の麓には光り輝く大樹──また、ごうごうと流れ落ちる瀑布があった。巻き上げられた飛沫はうねるような霧となり、放たれた光を浴びて小さな宝珠のごとくに煌めている──
──生まれはきっと、桃源郷──
かつて手にかけた人買いの一人、
括り袴の言葉が思い出される。
桃次郎はしばらくの間、その艶やかな光景にただ見入った。
感動が無かった──といえば嘘になる。
かつては俺もこの大地の一部だった。
母のように大いなる存在──
原初の幹──
一つに束ねられ、理と共にあった。
けれども今は明確に違う。
俺は──兄と同じではない。
一度深く息を吸い込み、
桃次郎は樹木の間へと踏み出す。
咲き乱れる桃の花は、みんな目の醒めるような珊瑚色で、
そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂いが、
絶え間なく辺りへ溢れ出している。
もしかしたら桃源郷は、ちょうど朝なのかもしれぬ。
霧を吹く瀑布の袂──
その巨大な桃の木は、さん然と光を放ち、そびえ立っていた。
岩壁のような幹はどこまでも太く、張り出した樹枝は天を突くかのよう。一千尺(約300m)など優に超えているのではないか。どれだけ見上げても、その樹冠は望めぬ。
いわゆるこれが、「母」であることは直感的に解った。
けれども、久しい再会になど浸れぬ。
桃次郎は見つけた。
瀑布の真下に広がる大湖──その岸辺に、
あの男が座している!
長髪を頭のうしろで結い、それを肩の辺りまで垂らし、
まとっているのは紅き陣羽織と、直垂の袴。
大皿ほどもある真っ赤な盃を掲げ、悠々と酒を食らっている!
──ぎりり。
怒りが沸き立ち、全身の骨が鳴る。
それでも駆けて行って飛び掛からなかったのは、女人だ。
桃太郎の傍、単衣を着込んだ若い女が傅き、銅の提子で酌をしている。面相も好い。武家か公家──きっとどこかのやんごとなき姫君であろう。
桃次郎は熊の歩法を真似る。
音もなく、しかし確実に、一歩ずつ近付く。
「──おかえりなさい、桃次郎──」
十歩も行かないうちに声がかかった。
遥かな天上へと伸び広がる、耀きに満ちた桃の枝先を眺めながら桃太郎が続ける。
「──お互いに、永い旅路でしたね。特にお前は──苦労した。誰よりも苦労した。私はよくよく、解っていますよ──」
真っ赤な酒器が投げ捨てられた。
その同じ腕が疾風のごとく、女人の胸をずぶりと突く。
引き出される心の臓──しかし鮮血に染まった兄の顔はどこまでも優しく、朗らかだ。
「──テメエ。なんてことを──」
「まったく問題はありません」
肝と女人の亡骸を交互に眺め、桃太郎が言う。
「なぜなら、世界はやがて終る。私が終らせる。今死ぬるはむしろ幸運だ。──それより桃次郎?」
どくり、どくりと脈を打ち、生き血の滴る心臓を真っ直ぐにこちらへと突き出してみせる。「この肝を喰らいなさい」
「ふざけるんじゃねえ──」
「──いいえ。ふざけてなどいません。明瞭に解っていますよ、桃次郎。
確かにお前はヒトの肝を喰らった。内に宿る気配で、口から漂う残り香で、私は知っている。にも関わらず──未だお前は目覚めていない。
もし悪ふざけがあるとすれば、それはお前以外にない。──最後のチャンスです。今すぐ、この肝を、喰らいなさい──」
ダダンッ!
桃次郎はただ強く大地を蹴った。
そしてただ一点──兄に向かって突進した。




