其の三十四 大河に逆らって
──どぶん!
ゆるやかな浮遊感の後、急に躰が水面を打った。
直前まで引き延ばされた無数の光に包まれていたので、正直驚いた。
筋肉質で重い肉体が、みるみる水底へ沈んで行く。
馬鹿みたいに口を開けていた所為で水を飲み、苦しい。
それでも恐怖はなかった。
魚の呪言で鰓を作り、指の間には水掻きを生やす。
真上に向かって何度も腕を伸ばし、トビウオのように顔を出した。
実に穏やかな大河であった。
その幅、およそ五十間(約90m)。
両岸には緑を被った渓谷の岩肌が続く。真っ青な空には明るい太陽が照り輝き、反射をうけた川面は黄金色だ。聞こえるのは心地の良い水の音。
邪気は一切感じぬ。
別段、景色に見覚えはないが──
なぜだか躰の芯に、忘れがたき震えと底冷えが蘇る。
間違いない。兄と流れた──あの河だ。
この上流に向かうならば、きっとそこには生まれ故郷がある。
兄が根城にしているのかどうか──それは解らぬが、ひとまず桃次郎は箱の導きを信じることにした。
*
体感にして一刻(約2h)は泳いだ。
解ったのは、この大河の不可思議さだ。
水の流れは常に一定で、絶えることはなく、どこまでも凪いでいる。
その代わりに対岸の景色だけが目まぐるしく変わるのだ。
鬱蒼とした大森林が現れ、緑の中を見慣れぬ巨鳥がのし歩く。
かと思えば雪深い原野を全身毛だらけの群れが悠々と進んで行く。
自然ばかりではない。幾つかの人工物も見た。
すべてが石で出来ているらしいその四角錐は、まるで切り立った山のよう。
近くに双子のような小さな山も連なっている。
あるいは高台に建つ、白亜の大社──
天まで届くような螺旋状の仏塔──
実に、面妖な光景であった。
この河の流れはもしかしたら、あらゆる時間、あらゆる場所に繋がっているのかもしれぬ。
また景色が流れ、辺りが灰色の世界に変わった。
どこまでも味気ない大地に穿たれた、無数のでこぼこの穴──
その一つに光り輝くものが見える。
目を凝らすと──なんとそれは、白月の従者たちだ!
巨大な隕石孔のその縁で幾体もの従者たちが群れ集い、一つの明るい光を形成している。
流れに逆らうのを止め、彼の岸辺へと向かいたくなった。
非難され、捕えられ、八つ裂きの目に遭おうとも、もう一度白月を眺め、その葬儀に加わりたかった。
泳ぎ出そうとして──しかし、すぐに止めた。
よくよく考えれば自分はすでに白月と共にある。
片時も離れることはない。
またそれは彼女だけではないはずだ。
今まで喰らった無数の鬼、もののけ──
そのすべてが内に宿り、躰を構成し、ときに呪縛され、しかし同時に生かされている。
──きっと、俺は赦されないだろう。
正直よくは解らぬが──
もし、死後に地獄だか極楽だかが在るとして、
そのどちらかに堕ちねばならんとするならば、
確実に地獄であるのに違いない。
唯一の懸念は、白月のこと──
彼女を道連れにしてしまうのが酷く心苦しかった。




