其の三十一「だいだらの空牛(からうし)」
桃次郎は忙しなく、視線を動かす。
ふり向いて、後ろさえ確認した。
けれども土を固めた境内に、牛男は影も形も見当たらぬ。
実に不味い状況であった。
もし、本当に瞬間移動ならば──
果たして捉えきれるだろうか。
自在に現れ、掻き消えるものなど──?
また視界の端、
左側面からふいに何かが現れ、迫ってくる。
素早く裏拳を叩き込むが、空を切った。
瞬間、重い気配が背後に現れ、
──ドシン!
背中に蹄が打ち付けられる。
前のめりに飛ばされ、土の上を転がり、受け身を取って背後を見やった。
誰もいない。
いっそ、目を瞑ろうかと考えた。
視覚に頼るのではなく、相手の気配を──
──いや、危険だ。
気配を読んだ次の瞬間、移動されたら意味がない。
それにもし、相手に鉄の鳥のような飛び道具があった場合、命取りになる──
遥か頭上──急に影が差した。
何か大きな塊が、ぐんぐんと降ってくる。
見上げると、まるで気のせいだったかのように掻き消えた。
そして今度は右側面から、刈り取るような中段蹴り!
「ぐううッ!」
激しく肩にめり込み、呻き声が出た。
鉄化はさせたが、部分的な集中強化が間に合わぬ。
触ってみると、患部はまるで地鳴りの後のようにひび割れ、痛々しい──
「──全ク ツマラン──」
声がした。一方向からではない。
ときに点々と位置を変え、またあるときは全方位かのよう。
「──オ主 本当ニ オ館様ノ 兄弟カ? ──弱スギル!」
パチンと指でも鳴らしたみたいに、
目の前に牛男が現れ、拳を伸ばしたタイミングでまた、パチンと消えた。
──来る!
予測し、背中を集中鉄化。
しかしパチンと出現したのは、同じ目の前だ!
「──なら、これでも食らえッ!」
桃次郎は大口を開け、火炎を放った。
鉄化と同時に、喉の奥を犬に変化させていたのだ。
赤い炎にまとわりつかれ、そのうねりの中に消える牛男──
──ガッツンッ!
次に起こったのは、後頭部への苛烈な一撃だ。
右斜め後方からの、風を切るような回し蹴り。
吐き出す火炎すら折れ曲がり、桃次郎は自ら作った火の海の中に一回転してぶっ倒れる。
鬼化しているので、特別熱くは感じぬ。
その代わりに、後頭部がマグマのように沸騰している。
立ち上がりたいのに──炎の揺らめきのごとく視界が回る。
本当に、ヤバい一撃をもらったらしい──
「──オ館様ハ 仰ッタ──」
やがて火炎は消えた。
黒く焼けた土の上に寝転ぶ桃次郎──それを遠巻きに眺めて、牛男が言う。
「倒シタラ 喰ッテ良イ ト 観念セヨ──」
ぐふふ ひははは──
桃次郎の口から、笑い声が漏れた。
不思議なもので一度笑い始めると、なかなかどうして止められぬ。
「──うひひ。くく、ははは──」
「──ドウシタ? 打チ所ガ 悪カッタカ?」
「ちげえよ、バーカ。てゆうかお前──なんで火傷してねえんだ?」
牛男の表情が変わった。
ふうっと、煙のように姿が掻き消える。
桃次郎はゆっくりと躰を起こし、言う。
「お前の躰──まるで洗いたての牛みたいだったな? 一度、俺の炎に包まれたはずなのに──」
また視界の端から、牛男が迫ってきた。
桃次郎は臆することなく、そちらに向かって身を躍らせた。
──ふぁっさああ。
躰同士がぶつかり合うが、まったく感触はない。
それどころか、細かな塵か煙のように牛男が霧散してゆく──
「──瞬間移動なんかじゃねえ。お前が操ってるのは幻影を見せる力。おおかた本体である自分自身も隠すことが出来るんだろう──」
ごきりごきりと音を立て、桃次郎の肉体が変化する。
呪言の力が喉から広がり、骨を動かし、やがて頭蓋のてっ辺まで到達した。
出来上がったのは完璧な犬の顔。
さすがに頭は三つではないが──
その咽頭には半魚巨人の力を借りて、火炎放射器官を備えた三つの口が格納されている。
「──さあ、バーベキューパーティーの始まりだ!」
赤、黄、橙──各種の炎は渦を巻き、伸び広がって境内を焦がす。
どこに隠れているのか解らぬが、ならば火をばら撒くまで!
──ぶるッ ぶるるッ!
やがて、何も無いと見えた空間に手ごたえ。
火炎と共に偽物の景色が薄紙のごとく剥がれ落ち、火に巻かれる牛男の姿が現れる。
「そこかッ、クソ牛ッ!」
三方へと分割していた器官を一点集中。
合わさった三色は濃い青へと変じ、ただ真っ直ぐな業火となって襲い掛かる。
ン、モオオォォー!!
牛男が叫ぶ。が、それはほんの一瞬だった。
躰に火をまといながら、それでも猛然と突進してくる。まるで暴れ牛。
眼前に迫ると、正面に向けた二本の角を下から上に、ぐうんと突きあげた。
「見える相手なんざ──敵じゃねえッ!」
難なく両手でむんずとつかみ、力を込めて押さえ付ける。
目いっぱいに振り被り、鋼と化したこちらの額を頭頂部へと打ち下ろす。
硬い頭蓋は容易に割れぬが、がつり、がつり、と繰り返すうち、
血液とも肉片とも違う薄桃色の小片を飛び散らせ、左右の角を残してただ項垂れるのみ──
「──そっくり返すぜ。テメエは弱すぎる──」
──ころり。
鉄化した腕で心臓を引き抜くと、同時に宝珠も転がり出た。
足でぐしゃりと踏み潰し、脈動を続ける肝を喰らう。
胃の腑に収まり、ゆるやかに力が吸収され始めると面白いことが解った。
どうやら牛男が操っていたのは、実際に目に見える幻を作るのではなく、対象の頭脳に働きかけ、在るものを消し、無いものが在るかのように錯覚させる力のようだ。
長期間に渡って複雑な幻の世界に閉じ込めるなら、ある種、洗脳も可能──
ならば術者が死んだ今、白月のそれは解けているはずである。
「おい? ──大丈夫か?」
社の中に飛び込むと、白月はもう一点を見つめてはいなかった。
板間の上、まるで糸の切れた人形のように倒れ伏している。
募る不安をふり払い、腕を回して抱き起こすと、たしかな呼吸音。
息をしていない訳ではなかったことにホッとするが、今さらに気が付く。
自分の全身に付着した牛男の体液──
その滴りを拭い忘れていた。
透き通るような彼女の躰、真っ白な小袿が、触れた端から朱へと染まる。
清らかなるものを穢してしまったかのような後悔──
桃次郎は再び、酷く恥ずかしくなる。
「──も、桃次郎──? 本当に、そなたか──?」
腕の中、薄く瞳を開け、唇を震わせて白月が言う。
「──ああ。俺だ。久しぶりだな──」
──ずっと探していたんだ──
喉元まで出掛かった、そんな言葉を飲み込む。
「──そなた──雄々しくなったな。本当に──見違えるようだ──」
「なにを言ってる。お前の方だって──」
──急に、次の言葉を続けられなくなった。
そういえば最初に会ったとき、白月は肝を喰らうことを酷く嫌悪していた。
砕いて破壊せねばならぬ──そう言ったのは、他ならぬ彼女だ。
しかし今の俺は──自ら求め、幾つもの数を喰らってここまで来た。
もしかしたら俺は──あのときの和尚なのだろうか?
白月の忌み嫌う、穢れに満ちた存在──
そんな葛藤をよそに、白月が続ける。
「また──そなたに助けられた。すまない、桃次郎──」
「──気にするな。お前は自由だ。いつだって、俺が自由にしてやる──」
「──なあ。ついでにひとつ、頼まれてはくれぬか?」
「どうした? なんでも言ってみろ」
白月が、じっとこちらを見た。
その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
やがて、絞り出すように言った。
「──わたしを殺し、心臓を受け取ってくれぬか──?」




