其の二十六 野獣の決闘
パクパクとした奇妙な口の動き。
魚の呪言は言語というより、念を込めた開閉動作の繰り返しだ。
さながら、密教行者の結ぶ印。口の中で繰り広げられる真言。
一節ごとに全身の細胞が爆発的に増殖して行く。
筋肉という筋肉が波打ち、鳴動している。骨が音を立てて伸び広がり、肉を貫き、それでも止まらぬ。鬼の変化の比ではないほどの激痛。体内のあらゆる器官が形を変え、目まぐるしく上へ下へと離れ動いて行く。
これが理由で、死んでしまうのではないかという恐怖。
──足元の振動。巨木の軋みも聞こえているが、やけに遠い。
遥か彼方の世界の出来事──そんな錯覚すら覚える。
まるで紙を千切るように、外皮が剥がれ始めた。
奥に覗くのは、赤く潤んだ肉ではない。濡れそぼった硬い鱗だ。
一枚一枚が光沢を帯び、どこまでもひんやりとしている。
指の間には薄膜の水掻きができ、爪も貝殻のように厚さを増して行く──
──ミシミシ、メリメリメリッ!
一際、足元が揺れた。幹が斜めに傾き始めていた。
熊の打撃か、桃次郎の自重か。あるいはその両方かもしれぬ。
痛みで朦朧とする意識の中、腕を伸ばして太い枝をつかむ。不安定さを増す木の股を蹴り、宙に身を躍らせた。
轟音と共に巨木が倒れたのは、桃次郎が地面に着地したのと同時だった。ざっと全身を見やると、変化は実に中途半端。鬼の肉体のままの部分と、鱗の生え揃った部分とが奇妙に混在している。
それでも、身長差は無くなった。
肥大を続ける黒い肉塊とほぼ同じ目線の高さだ。
「さあ、クソ熊。──かかって来やがれ!」
がおうおお おおおぉぉ おぉおぉおぉッ!
滑るように飛ぶように、黒い巨体が突進を開始した。
桃次郎は逃げも隠れもせず待ち受ける。だらりと腕を下げ、余計な力を抜く。ただ自然体。
熊は濁流のごとく押し寄せ、一足ごとに大地を揺らした。肉体同士がぶつかる刹那、桃次郎は半歩下がると相手の勢いを利用する。突き出される腕をいなし、その先の肩を押しやる。自分の重さに熊は足をもつれさせ、辺りに土をまき散らしながらすっ転ぶ。
追い討ちをかけようと踏み込んだが、それがいけなかった。
寝転んだまま、熊が手足を乱暴に動かす。まるで駄々をこねる童。突き出された手の甲がこちらの脛を打ち、嫌な音を立てる。
痛みに飛び退くと、熊は黒い毬となって転がり、こちらを巻き込もうとする。さらに距離を空けると、待っていたとばかりに飛び起きた。
今までのように、力任せの突進はしてこなかった。
闇から忍び寄ってきたときのような、静かな歩法。増加した体重に音は消えぬが、戦術を変えたようだ。桃次郎は初めて拳闘の構えを取り、間合いを計る。
熊はその肉体の構造上、前足が人間ほどに長くない。
つまり、パンチで打ち合うことには向いていない。ならば、得意なのは組み付きによる攻撃。鯖折りや、押し倒しての馬乗りを狙ってくるはずだ。
桃次郎は牽制に、一番リーチの長い蹴りを打つ。
前進しようとする脚に、つま先をバチンバチンと当ててゆく。派手さは無いが正攻法。ダメージの蓄積を狙ってゆく。
急に、熊が腰を曲げた。患部を庇っている?
──と思いきや、いきなりの四足歩行。
地面に顔を擦るくらい姿勢を低くし──でんぐり返りの体当たり!
蹴りを出したが向こうの方が重く、こちらの体幹は崩される。
「──むう、いかん」
どすん、と腰から地面に倒された。
熊は踊るように転がり、見事な一回転で桃次郎に圧し掛かる。
がおうおおッッ!
膨れた肉団子のような両の掌。
右、左、右、左。
頭や顔に向かって、代わりばんこに打ち下ろされる。
一打目に気が遠くなり、二打目に痛みで意識が戻る。
幸い、腕は自由だ。鱗に覆われた右の拳をガチガチと鉄に変え、横っ腹へと叩き込む。分厚い脂肪と肉の鎧。弾力のある壁が押し返そうとするも、ひとたび突き通ればどこまでもめり込んで行く。
おおッ おおッ おおおぉッ!
熊の絶叫。両手の攻撃が止む。
さらに左を打ち込もうとした瞬間、熊が大口を開けた。
「──ぐおッ!」
杭のように太い犬歯。深々と、桃次郎の肩に突き立った。凄まじい顎の力。全身が痺れ、傷口は燃えるように熱い。噛みついたまま、黒い頭が右や左に激しく振られた。つられて躰が動く度に、肩は爆発しそうだ。
叫び出したくなるような痛みの中、患部から奇妙な音。
──ぐぐぐ、ぐぐぐ、ぐぐぐ。
桃次郎は理解する。
熊の巨大化は止まっていなかった。
それは──刺さった歯も例外ではない。
腕を振って逃れようとした。けれども黒い腕が無理矢理ねじ伏せる。
──このままでは、噛み千切られるッ!
震える唇で、なんとか魚の呪言を唱えた。再び人体構造の変わる不快感。噛まれる痛みに比べればなんということはない。ゆるやかに喉仏がせり上がり、口内に留まる。新たな筋肉が纏わりつき、軟骨は硬質化し、びきびきと歯が生える。
やがて完成した、口の中のもう一つの口。
桃次郎は咆哮を発し、ただ真っ直ぐに飛び出させた。
──ガチガチガチガチガチガチガチ!
格納された第二の口は相手の首筋を貫き、さらにその奥を食い破った。
熊が弛緩し、同時に顎も力を失う。滝の如き鮮血が辺りを湿らせ、黒い巨体は小鹿のように痙攣を始める。
一つの驚きがあった。
引き戻した第二の口──その中に、光り輝く真球。
上下の歯の間に、しっかりと納まっている。なんと桃次郎は熊の体内から、宝珠を取り出していたのだった。
嚙み砕くと、まるで硝子片かのように硬い。口の中の水分と合わさり、ざらざらの砂粒へと変じてゆく。しかしその端から粘膜にへばり付き、内へ内へと融合を試みるのだ。急いで全部吐き出す。違和感は一向消えぬ。
「──お、思い出した、だ──」
ごぼごぼと血の泡をこぼしながら、熊男が言った。
「──オラ、山ん中に──人間のトモダチが居ただ。いっしょに山あ駆けまわって、スモウとって、毎日遊んで。──オラ、そのトモダチ──喰っちまっただあよ──」
──ごめんよう ごめんよう ホントに ごめんよう──
うわ言にように呟き、熊は絶命した。
「──なんでえ。人間じゃなかったのかよ──」
躰の上に被さる巨体が急に重量を減じ、やけに小さく感じられる。
桃次郎はそれを地に横たえると、心臓を取り出し、ただ無心に喰らった。




