其の二十五 熊男
「──むかし、ある山奥にとても力持ちな子供がいました。
森に入っては木こりの真似事をし、
野生動物たちと相撲をとれば、必ず勝ってしまうほどでした──」
──古の語り部の言
肩に深々と走る五本の傷。
あとからあとから鮮血が溢れ、腕へと伝っていた。
桃次郎は熊を見据えたまま、呪言を唱える。
──そこまで力比べがしたいなら、やってやる!
──ぐううるうるるるうううううう!
ビキビキと全身の筋肉がみなぎる。
五本の傷はすぐさま埋まり、細長い瘡蓋となった。
鬼の血液が身長を押し上げ、二尺(約60cm)は余裕で追い越す。さすがに驚いたのか、つぶらな瞳を何度もしばたたかせる熊男。
「いまさらビビんじゃねえぞ、クソ熊ッ!」
桃次郎は大股に駆け、跳んだ。
目標は大きい。体重を乗せた右の正拳。
当たればどんな肉体も壊れるに決まっている。
繰り出した瞬間、それまで前傾姿勢だった熊がぐっと背筋を伸ばし、黒い左腕で巻き取るようにそれを払った。獣というより──武道の心得のある者の動作だった。崩れるこちらの重心。ぐらりと躰が右に逸れたところに、右手の鋭い爪が振り下ろされる。
顔面に食らいそうになるのを左腕で防いだ。
鬼の皮膚にダメージは少ない──はずだったが、衝撃が激しい。岩山が降ってきたかのよう。腕の芯に爆発的な痺れが走り、前のめりに回転して地に倒された。
いまだ腕が、ビリビリと疼いていた。
コイツ、元人間か──?
ふとそんな予感。とはいえ悠長に考える暇などない。
四つん這いになった熊。太い二本の前足、獰猛な口をふり乱し、襲い掛かってくる。寝転んだ姿勢のまま、左右の足で交互に蹴った。
一撃入れる間に、向こうは二撃三撃を繰り出す。まったく分が悪い。
危険なのは歯だ。顎の筋力も相当だろう。噛みつかれれば肉を貫き、骨まで届くに違いない。
──いっそ、食いつきやがれ!
桃次郎はあえて動きをゆるめた。
熊はすかさず、開いた大口を突き出す。
ガキンッ!
甲高い金属音。
低い呻き声と共に、熊が桃次郎から離れた。
鳥の力を使い、片足を中心まで鉄に変えていたのだ。
ざあまみろ──と思ったのも束の間、よくよく見れば足には歯型ならぬ、物凄い力で加えた凹みができている。鬼の肉体に戻した瞬間、激しい圧迫と痛み。危うく叫びそうになる。
相手を見やると、どうやら同じらしい。
ぬらぬらとした赤い血が口元から滴り、毛を伝って胸を染めあげていた。
「──おい、クソ熊」
努めて痛みが声に現れぬよう、桃次郎は言った。
「お前、どのくらい喰った? 絶対一つじゃないだろ?」
「──おぼえてねえ」
丸い手で口を拭いながら、熊男が答える。
「なんせ山ん中ひとつがカラッポになるくれえ、喰っただあよ」
──マジか。どおりで厄介なはずだ。
「──ももたろーさまが言っただ。オメエをコロし、喰ってイイ。そしたらもっと、ツヨクなれるってえ──」
ニッタリと熊が笑う。奇妙だ。さっきから目線の高さが合わない。
やけに上から見下ろされているような──
はたと気付いた。
コイツ、さっき一度デカくなった。どんな肝の力かは知らぬが、あれで終りだと思っていた。しかし実際は──ゆるやかに大きくなり続けていたのだ!
桃次郎は背後に広がる木立の中へと駆け出した。
最後の隠し玉。未だ実戦では試していない、半魚巨人の能力。あれに頼る他ない。ただし、一つ問題がある──
躰が巨大過ぎるゆえに、変化が簡単に終わらぬ。
その最中を狙われれば──命取りだ。
がおうおお おおおぉぉッ!
迫り来る、咆え声。
同時に聞こえる地鳴りの音。太い四つ足が地面を打つ度に、足元が揺れる。ふんふんという荒い鼻息。まるでうなる旋風のよう。ふり返りたくなる衝動を抑え、ただ足を出す。疎らに生えた木々を右に左に避け、ぐっと腰のバネで跳んだ。
鬼の手がつかんだのは、巨木の枝だった。およそ百尺(約30m)はあろうかというミズナラ。縦に横に、ねじれながら広がる太い一本だ。両の腕に力を入れよじ登った瞬間、激しい横揺れ。勢い込んだ熊の躰が幹に衝突したのだ。
桃次郎はさらに腕を伸ばし、幾本もの枝が作る木の股へと移動する。
その間も、断続的に揺れが続いた。下を覗くと熊が幹に跳び付き、体重を掛けてよじ登ろうとしている。鋭い爪を立て、駆け上がろうとする。
しかしあまりの重量。樹皮が破れ、その度に失敗している。
二度目の落下で、熊は作戦を変えた。
体重の乗った掌底。あるいは張り手で巨木を打つ。二打、三打と続くうち、目に見えて速度があがった。揺れの中に交じる嫌な軋み。白い内側が剥き出しとなり、巨木の悲鳴は高まる。
間に合うかどうか解らなかった。
桃次郎は早口に呪言を唱え始めた。




