其の二十四 刺客
「──私は始まりと、終りを告げる者です──」
──桃太郎の言
酷い息苦しさと共に桃次郎は目覚めた。辺りは漆黒の闇。
過去の記憶の走馬灯が巡り、癒えたはずの痛みがぶり返す。
心臓の鼓動が激しい。
兄の顔と声。怒りが沸き立つ。
それでも手の中には、海のもののけから奪った漆塗りの箱があった。
触れていると、だんだん自分が森の中で寝ていたのを思い出す。
ゆっくりと、深呼吸をした。
怒りは去らない。気分も悪かった。ただ呼吸だけは落ち着いた。
──桃太郎と温羅。
二人の行方は皆目見当がつかぬ。鬼ヶ島にも渡ったが、姿はなかった。
箱は何度も試しているが、どうも上手く行かぬ。
転移できそうな気配はあるが急に眩い耀きがあふれ出し、そこで止まってしまう。桃太郎の操る妖しげな光と関係があるのかもしれない。
再び眠る気にはなれなかった。
他の人間はどうか知らぬが、消えぬ記憶を持っていることが煩わしい。
良い思い出が少なすぎて、見たくもないものばかりが繰り返される。
たった一度でよい。
心安らぐ夢を見たい。
例えばそう、白月の夢を──
──ずずっ、ずっ。
暗闇の向こうから、重たいものを引きずる音がした。頭を預けていた木の根から飛び起きる。連想したのは鬼の棍棒。ついに温羅が現れた──?
音が止んだ。聞こえるのは梢を渡る風。気配は消えていない。闇の奥に途方もない塊がある。膨れ上がる嫌な予感。桃次郎は音を立てぬよう、根の先にそびえる大木の裏へ向かう。
──二歩、三歩。
次の瞬間、大木が破裂した。
正確にはよく解らぬが、木っ端が飛び散り、幾つも躰に当たったのだ。
慌てて転がり、距離を取る。メリメリという音。
人間の目では酷く不便だ。
呪言を唱え、夜目の利く三頭犬の力を借りる。
ミシミシミシ!
犬の目が捉えたのは、後方へと折れ曲がってゆく大木だった。
枝を揺すり、葉をまき散らし、ズズンと大地に倒れ込む。
裂けた切株に残っていたのは──大鉞だ。
柄を含めると、桃次郎の背丈に余裕で届くほどの──
「──オメエ。よくぞオラの斧、かわしたモンだあ」
木々の間から進み出たのは、予想に反して熊のもののけだった。
人間のような直立二足歩行。真っ黒な荒々しい毛並み。
頭上にぴょこんと立つ、二つの丸い耳。
首は存在せず、ほぼ胴体と一体化している。
身の丈は頭一つ桃次郎より小さいが、横幅は二倍も大きい。
「ももたろーさまの言ってたとおりだあ。カンタンに殺せねえってぇ」
小山のような巨体がゆっくりと近付く。音がほとんどしない。
喋り方は酷く間抜けだが、歩法は熟練している。
「ついに刺客を送り込んできやがったか──クソがッ!」
桃次郎は木の根元へ駆け戻り、大鉞に手を伸ばした。すべて金属製らしく、かなり重い。分厚い斧頭に比べ、柄は棒切れのよう。尋常でないほどにバランスが悪い。
巨体の足音が変わった。
力強く地面を踏み、振動が伝わる。なりふり構わぬ突進。
桃次郎は握る手の位置を変え、腰の力で持ち上げた。片足を下げ、大鉞の先端を突き出すように横一回転。そのまま叩き付ける。
──ぐわんッ!
手ごたえはあった。首が飛んでいてもおかしくはなかった。
しかしねじくれ曲がったのは大鉞だ。
衝突した刃先はめくれ、柄は耐えきれず急角度にそっぽを向いている。
なにかがおかしかった。
肉を断ち切れなかったことも驚きだが──
熊の体長がさっきより大きく感じる。
斧刃の命中した首の付け根も膨れて見えた。
錯覚だろうか──?
──いや。ゆっくりなので分かり難いだけだ。
今ではもう、一尺(約30cm)も向こうが高い!
がおうおお おおおぉぉ おぉおぉおぉッ!
悪臭を伴う激しい咆哮。
鼓膜が鳴り、頭からつま先まで痺れが走った。
熊の黒い腕がうなる。先端に伸びる五つの爪。ひと掻きめを柄で受けるが重すぎる。腕が笑い、骨が震えた。とても耐えきれぬ。
ふた掻きめで大鉞を弾き飛ばされ、み掻きめが肩を捉える。
焼け付くような激しい痛み。こちらが怯んだその一瞬を熊は見逃さぬ。
前足と後足で一度地面を蹴り、加速しつつの体当たり。
桃次郎は何度も地面を転がった。
まるで小石になった気分。熊は追いすがり、小動物で遊ぶように突進を繰り返す。
「──ざっけんなッ!」
起き上がりざま、火炎を吐きかけた。
目玉だけだなく、喉や気管も三頭犬のものに変形させておいたことが幸いした。
炎に巻かれた熊は呻き、跳ねるように身を退いた。
そのまま燃え上がることを期待したが、どうやら毛皮は火に耐えるらしい。ゆるゆると薄い煙を上げた後、すぐに鎮火した。
「──やるじゃねえか。クソ熊」
言いつつ、直感が告げていた。
コイツ、複数の肝を喰ったに違いない、と──




