其の二十三 御子顕現
「──桃太郎様。この者をご覧ください」
男から温羅と呼ばれた鬼が言った。
「たしかお屋形様には、川ではぐれた御兄弟がいらっしゃるとか。この者、常ならざる腕力と生命力の持ち主。もしやと思い、お呼び立てした次第──」
「そうでしたか。よくぞ知らせてくれました」
酷く優しい声音で、桃太郎と呼ばれた男が応じる。
「褒美にたくさん人間を殺し、喰らいなさい」
「──ははっ。有り難き仕合せ」
──目の前で展開される異様な光景。
意味が解らなかった。これは──何かの間違いだ!
間近に見る男の顔は、自分とは似ても似つかぬ。整った鼻筋、切れ長の目、頬のこけたうりざね顔。身の丈こそあまり変わらぬが、それ以外は真反対。
きっと──偽物なのだ。
兄のフリをしたもののけ。
あるいは鬼が肝を喰らい、化けているのだ。
絶対に、そうであるに違いない──
温羅が一礼と共に、火炎の向こうへ消えた。
すうっと伸びてきた華奢な腕。それが桃次郎の顔を包み込む。ゴツゴツとし、幾つもマメのある自分の掌とは比べ物にならぬ。まるで女子。白月のごとき繊細さと柔らかさ。じっとこちらの目を覗き込み、男が言う。
「──久しいですね。お前と川に流れたときのこと、よく憶えていますよ。私は桃の御子にして、木を離れし者。大河の漂流者。遍く世界に光を与えんとする、日本一の桃太郎です。お前は今、なにと名乗っていますか?」
「──も──桃次郎、だ」
「なるほど。それでは桃次郎? ──人間は殺しましたか? そして──肝は食べましたか?」
「──な、何の、話だ──?」
「まさか、一度も食べていない、と? ──愚かな。
どうりであの頃と変わらず、酷く貧弱なままのはずだ。
この程度の火に焼かれ、金棒に屈し、温羅ごとき下劣な鬼に勝つことすらできない。──がっかりだ。
がっかりですよ、桃次郎。私は、失望した──」
一体、どの口がそれを言うか?
熱気と痛みによって萎えかけた心に、怒りが沸き立つ。
「──し、失望、だと? それは──俺の台詞だッ! アンタは──アンタは化物だッ!」
「──嘆かわしい。実に嘆かわしい。臍帯が切れ、羊膜が水に落下したとき、お前はメッセージを受け取らなかったのですか? 己が何者であって、何を為すべきなのか──」
「アンタは──鬼やもののけ以下だ。──俺の、俺の兄では無いッ!」
桃太郎の柔らかな手が、急に離れた。
支えを失った顎は地面を打ち、痺れる痛みが脳内を駆けぬける。
「私の後に従えぬのなら、いさぎよく火に巻かれて果てよ。
あるいはそれすら叶わぬなら、黙って私の大業を眺めているがいい。
失敗作のお前には──それがお似合いだ」
屈めていた背を伸ばし、桃太郎は幾つかの言葉を発した。聞きなれぬ言語であった。燃え盛る町の火の向こうから現れたのは、たくさんの鬼だ。温羅のような赤だけではない。
──青、緑、黄、黒。
全部で五色の鬼の軍勢。
ある者は巨大な棍棒を握り、ある者は人間を担ぎ、またある者は略奪品を背負っている。誰一人として桃次郎より小さい者はいない。
膨れ上がり、幾重にも形成される鬼の隊列。
火をまとい、咆哮を発し、大地を震わせながら行進を開始した。
先頭に立つのは──桃太郎だ。
「ま──待ち、やがれ!」
とっさに腕を動かすが、言うことをきかぬ。
身をよじり、少しずつ離れて行く兄に叫んだ。
「この──クソ野郎、があッ」
一瞬、桃太郎がこちらを見た。
口元には実に優しい微笑み。ふいに聞こえた。爆ぜる火の粉と鬼たちの足音に交じって、
「──ふふっ」という声が。
無邪気なようでいて、しかし嘲りの籠った笑い。
怒りが痛みを忘れさせ、這ってでも追いかける。一間(約1・8m)も進むことはできなかった。幾つもの鬼の足が、躰を踏み潰し始めたからだ。
最後に憶えているのは、頭の中で鳴り響く嘲りのこだま。怒りなのか火なのか解らぬ熱気だけだった。
*
桃次郎が救助されたのは、それから七日後。
鬼の軍勢から逃れ、一度は堺を離れた行商の一団。せめて骨だけでも拾ってやろうと、皆で戻ってきたところを発見された。
意識が戻るのに五日。すべての傷が癒えるまでには、果たしてどのくらいの時間が必要だったかよく思い出せぬ。躰こそ元通りだが、心は未だ膿んだままのような気もする。
あのあと桃の御子は都に攻め上り、あらゆるものを焼いた。
ときを同じくして、大地のそこかしこ、空と海のそこここにもののけが蔓延り始めた。人々はただ恐れ、隠れるように暮らしたが、桃次郎は逆にそれらを追った。
手始めに、かつて倒した化け鼠のような、弱いもののけ。
やがては鬼──
肝さえ喰らえば、幾らでも強くなれると解ったからである。




