其の二十一 都からの脱出
「追え! 追えッ!」
足元のさらに下から声がする。
桃次郎は今、家屋の上にいる。幾つも連結された町家──なだらかな板屋根の連なりをただ必死に駆けている。
通りを逃げ、路地に追い詰められた結果ここへ上がった。
初めは良いアイデアだと思った。
しかし足元は酷く悪い。傾斜のためではなく石だ。
屋根には等間隔で重しの石が置かれている。歩幅の大きい桃次郎。踏まぬように進むだけでリズムが狂う。誰かが鼓か太鼓でも持ち出したのだろう、各所でタンタンという音が響いている。
それに合わせ、足元から聞こえる声はなおいっそう増えて行く。
板屋根の端が見えてきた。
向かいの町家まで、およそ二間(3.6m)。もう石など気にせず、めいっぱいに助走をつける。踏み切った瞬間、幾つもの棒が下からぬっと突き出された。槍でないだけマシだが、背中や尻に鈍痛。体勢が崩れる。
──バリン!
なんとか向かい屋根に着地できた。
しかし右手は板を突き破り、奥の天井側へ消えている。
叫び声と怒鳴り声。慌てて引き抜くと、隙間から刃物を構えた女の姿が見えた。ゾッと怖気が走る。
如何に傷の治りが早いといえど、指を取られれば元通りにはならぬ。
喚き立て、狂ったように刃物を振り回す女を無視し、立ち上がる。
「止まれ、デカいの!」
進行方向の屋根の上、よじ登るようにして現れたのは侍だった。
鎧こそ着てはおらぬが、三角の帽子、ずんぐりした袴を履き、腰には立派な太刀を下げている。桃次郎が駆け出すや鞘が払われ、陽光を浴びた刀身が光が煌めいた。
相手はいっさいの動きを止めていた。
間合いに入った瞬間斬り捨てるつもりだろうが、侍は忘れている。
動かぬ相手は格好の的。
腕を伸ばして置き石を拾い、力いっぱい投げつける。
一投目は、跳んで避けられた。幸い石は周囲にたっぷりとある。
「──ぐ。う、うおっ!」
拾っては投げ、拾っては投げ。哀れ侍は体勢を崩し、刀と共に落下した。
けれども、危機が去った訳ではない。未だ遠いが、確実に近付く馬の蹄の音。周囲の屋根の上には、別の侍たちの姿。
「ああ、面倒くせえッ!」
桃次郎は木の板を強く蹴り、また次の屋根に向かって跳躍した。
*
最終的に追手を巻くことができたのは、川のお陰だった。
都の西に伸びる深くて広い大河。飛び込んで、ただひたすらに泳いだ。
何度か矢も射かけられたが、当たることはなかった。
冷たい水の中を進んでいると、昔が思い出された。あのときは羊膜のせいで何もできず、もみくちゃにされるよりなかった。迫り来る理不尽な死に、ただ怯えていた。
今では躰を使い、自由に泳ぐことができる。
水面を掻く腕、交互に上下する脚、その動作一つ一つで方向を決定できる。
勝手に、水は怖いものだと思っていた。
そうではなかった。
自分で決められないこと。
抵抗さえ許されないこと。
運命が、独りでに決まってしまうのが怖かったのだ。
──今、俺はすべてを選んでいる!
ここに生き、自分の力で進み、兄の下へ行こうとしている。
折檻を続けた爺、見て見ぬフリをした婆もいない。
あるいは人買いも、邪な和尚も──
ふいに、ひんやりとしているのに柔らかい、白月の手の感触が蘇った。
彼女が近くに居ないこと。それが堪らなく寂しかった。
*
濡れた服は歩いているうちに乾いた。
桃次郎は田園に吹き渡るそよ風を浴びながら、真っ直ぐな古道を進んで行った。都での騒ぎは未だ届いてはおらず、農作業に勤しむ百姓たちの様子は酷く長閑だ。
親切にも彼らは堺への行き方を教えてくれたが、地理がまったく頭に入っていない桃次郎。道は整備されておらず草だらけ、ちょっと曲がりくねったところに差し掛かったり、林の中で枝分かれなどしていると、もうお手上げである。
頼りになったのは、よく古道を利用している行商の一団だ。
背中には巨大な籠、動きやすいゆったりした衣をまとった男たちである。
「お兄さん、ずいぶんとガタイが良いな。一緒に荷物を運んでくれるなら、いくらでも案内するぜ?」
彼らの荷物を順番に肩代わりしながら一団に加わったが、道々、とんでもない話を聞かされることになった。
都で自分を追った侍たち。
兄の軍勢に加わったのと、出処の同じ仲間かもしれぬというのだ。
「今、将軍に侍衆を出す余力はない。もっぱら軍事や治安は管領殿に任せてなさる。桃の御子様に手勢を貸し出したとすりゃ、きっと同じお方だろうなあ」
都で騒ぎを起こした弟が、いきなり目の前に現れる。
これでは兄の顔に泥を塗ったも同然。
逃げるのに必死だったとか、世の仕組みを知らなかったなどと、言い訳にしかならぬ。
急に酷く自分が恥ずかしくなり、会ってはいけないのでは──? と考え始める。それでも引き返す決心はつかなかった。都との間を上手く取りもってくれるとすれば、それは兄以外に考えられなかったからである。
それから三日。
幾つかの集落に寄り道した行商の一団は、川沿いの平野を進んでいた。
辺りには都の外れと同様に、見渡す限りの田園風景。男たちによれば堺は目と鼻の先らしく、嫌でも期待と不安が膨れ上がる。
──兄は未だ留まっているだろうか?
それとも行ってしまったか?
あるいはすでに本拠地を潰し、華々しく凱旋を──
「──おい。なんだ、あれ?」
一団の誰かが言った。指を差し、行く手を仰いでいる。
見上げると、空を覆い隠すように灰色の煙がもうもうと立ち上っていた。まるで伝令のための狼煙。それにしてはやけに規模が大きい。近付けば近付くほど、煙は濃さと横幅を増して行く。
やがて、風に乗って咽かえるような臭気が届いた。
とっさに鼻を押さえたが、酷く耐え難い。
燃えているのは、もしや──木や枯草などではない──?
田園を過ぎ、辺りの視界が開けたとき、すべてが解った。
なだらかな斜面の向こう、見渡す限りの砂浜。
どこまでも青い湾を囲むように建てられた、堺の港町が燃えていたのだった。




