其の十九 宝珠
全身が露わとなった大ネズミ。
頭から尻尾の先まで、なんと八尺(約2.4m)以上もある。
体毛のない躰はぶよぶよと弛んだ皮膚に覆われ、酷く醜い。
細く短い手足をがむしゃらに動かし、こちらへと迫ってくる。
桃次郎は落ち葉によって作られた腐葉土の地面を蹴り、跳躍した。
一度放り投げられ、落下した岩──その上に一旦避難するつもりであった。
──するり。
足が触れるか触れないかの瞬間、岩が逃げた。
ほんの少しではない。一間(約1.8m)の距離を、音もなく移動したのである。
「うおッ!」
土の上に着地するが、予定とは違う体勢。尻もちをついてしまった。
大ネズミはその隙を見逃さない。前足がどかどかと桃次郎の躰を踏み、圧し掛かる。開け広げられた巨大な口──上下に伸びる箸のような歯。それが桃次郎の顔面に襲い掛かった。
「クソ、がッ!」
間一髪のところで、右手で上の歯、左手で下の歯をつかむ。ぐぐぐ、と閉まりそうになる両顎を腕の力で必死に支えた。口の中には直前に食べたらしい、幾つものご飯粒。荒く激しい息が顔面に吹きかかり、酷く気持ち悪い──
急に、大ネズミが二本の前足をバタつかせた。
こちらの胸や腹が、ドカドカと踏み付けられる。
胸はマシだが、みぞおちへの深い打撃が続くうち──いかん、腕の力が抜ける!
──キキッ! チイチイッ!
相手に食らいつかれるその前に、桃次郎は渾身の力を込めてネズミの下顎に噛みついた。口の中にぶよぶよとした不快な感覚。吐きそうになるが、それでも絶対に噛むのを止めぬ。
ネズミはしばらくバタバタ暴れ、なおいっそう激しく踏み付けたが、痛みのためか腰が引けている。自分と相手との躰にできた、実にわずかな隙間──
──今だ!
足の裏を相手の下腹に押し当て、腰のバネで蹴り上げる。大ネズミはのけ反り、背中から土の上に落ちた。飛び起きて見やると、相手は未だ仰向けのまま短い手足をジタバタさせている。
「残念だったな、ネズ公ッ!」
拳を握り、叩き込もうとした瞬間──
──ドッドォ!
真横から衝撃が襲った。腕と脇腹、脚に激しい痛み。躰がねじれ、横倒しに転がる。鼻先に感じる腐葉土の匂い。頭はふらつくが、理由はすぐに理解できた。
視界の先、音もなく岩が動き回っている。
転がっているのではない。水平移動だ。腐葉土からおよそ一寸(約3cm)、ふんわりと宙に浮いている。ようやく合点がいった。
このネズ公──物体を好きに動かせるのだ!
木立の手前、積もった落ち葉の空地。
その上を縦横無尽に滑っていた岩が、ぐうんと急角度に曲がった。勢いを増し、再び桃次郎めがけて突っ込んでくる。避けられぬと思い防御を取ったが、愚策だ。弾き飛ばされたところへ岩が追い縋り、また飛ばされる。
まるで質の悪いイタズラ。痛みと共に思い出される養父の折檻。
しかしあの男が使ったのは、こんな巨大な岩ではない。
「──いい加減にしやがれッ!」
再びぶつかりそうになる刹那、岩のてっ辺に両の手を置き、馬跳びの要領で跳び越える。一度タイミングが解れば、あとは造作もない。反転して戻ってくるのを、またぴょんと跳んだ。
キイキイ! チチチ!
鳴き声。そしてバタバタ地面を駆ける音。ふり向くと、体勢を立て直した大ネズミが土を蹴立てて突進してくるところだった。一瞬考え、桃次郎は岩に向かって駆け出した。方向を修正したそれは、みるみるこちらに迫るが、もう気にも留めぬ。
背後には涎を垂らし、大口を開ける大ネズミ。
桃次郎はやや歩幅をゆるめ、最後のタイミングをしっかりと見定める。
再び、岩に手をついて跳んだ。
──グジャリ!
酷く鈍い音が響き渡った。
着地してふり向くと、実に痛々しい光景。大ネズミの口の中に岩がめり込み、顔全体が炸裂したかのよう。首も奇妙な方向へと曲がっている。
額の汗を拭い、桃次郎はその場にしゃがみ込んだ。
全身が酷く痛み、疲れ切っていた。
都の周辺は危険だとよく解ったが、コイツを殺してしまったことで謎が残った。
自分とよく似た匂いのあのお方──
それが兄のことだとすれば、このネズミはすでに一度、兄に会っていることになる。何故、妖しい力を使うバケモノを、兄は殺さずに生かした──?
そんな思考を中断させたのは、
辺りに満ち始めた刺すような光だった。
日陰からいきなり日向に出たように、酷く眩しい。手で覆いながらおそるおそる見やると、大ネズミの巨体──ぶよぶよの土手腹──から、真球が転がり出てくるところだった。
地に落ちたあとも、耀きはまったく失われぬ。それどころか、存在をアピールするかのごとく明滅すら始めていた。じっと見つめていると、妙に心の奥がかき乱される。手を伸ばして触れたい。どうしてもつかみ取りたい──
桃次郎はそれに触れた。光を発する割に熱はなく、また冷たくもない。重量は感じず、あるのはたしかな存在感だけ。しかし触れ続けている間に、なんだかぐっと重たくなってきた。
──いや、違う。
真球が手の肉と融合し、ずずず、と沈みこみ始めたのだ!
震え上がるほど恐ろしく、また快感の体験であった。
自分の内側に途方もないものが入ってこようとする恐怖。すべてを奪われ、侵され、書き換えられるその代わりに、不変にして原初のもの、大いなる何かに束ねられて一つとなる至福──
「──ぐう、うう、おおおおおおおッ!」
最終的には、恐怖が勝った。
桃次郎は渾身の力を込め、手の中の球を握り潰した。
砕け散ったそれは幾つもの光の粒子となり、辺りに金色の火花を閃かせたあと、息を吹きかけたロウソクのようにフッと消えた。
掌には未だ球の入り込もうとした、悍ましい違和感が残っていた。
桃次郎は座し、ただひたすら待ち続けたが、その感覚が消え去ることは二度となかった。




