其の十八 裸念鼠(らねんそ)
山の道は細く、天を突くようなスギの林のせいで暗かったが、険しくはなかった。木々の間を縫うように進んでいると、今度はブナの林に出くわす。
林床にはササが広がり、やがて道はなくなった。
尖った葉に何度も脚をこすられ、酷くむず痒い。
それでも我慢して斜面を登ると、そこが頂上だった。
桃次郎は額の汗をぬぐうと、頂から眼下を眺めやった。
広がっているのは、見渡す限りの田園。
遠くの方には、幾つもの箱を組み合わせたような街並みがある。
箱の内側を埋める、無数の家々。
なかには信じられないくらい巨大な建物の輪郭もあった。きっとあれが「都」というやつに違いない──
近くにあった平たい石の上に腰かけ、桃次郎は弁当の包みを開いた。
飯炊き女の作ってくれた、幾つものおむすび。
時間が経っているのに米の粒は透きとおり、実に美味そうである。
さっそく一つを頬張ろうとして──おむすびが跳ねた。
手の中から転がったのではない。竹皮の包みの上から、独りでに飛んだのだ。
慌てて手を伸ばすが、凄まじいスピード。とても間に合わぬ。
今まで登ってきた斜面を、ぐんぐん転がり下って行く。
なにクソ!
追いかけようとして、まずは残りのおむすびを石の上に置いた。
瞬間、そのすべてが次々にジャンプ。桃次郎の眼前で一回転宙がえり、同じように斜面を転がり始めた。
「ちょ! どうなってる!」
駆け出すが、石と土と砂の斜面は思いの他、脆かった。
二、三歩までは歩めたが、そこから先はほぼ落下。
尻と背中をこすられながら、低地に広がる木立めがけて滑り落ちる。
視界の先、おむすびの姿が順番に見えなくなった。
桃次郎は顔の前で腕を組み、かつ両脚を伸ばして衝突に備える。
まずは足先、続いて両の腕に衝撃がきた。
痛みをこらえ、躰を動かしてみる。
無様にも、一本の太いブナの大木と抱き合っている格好だった。
大した怪我がなかったのは幸いだが、食い物の恨みは恐ろしい。
──絶対犯人を見つけてやる! そう意気込んで辺りを探すと、例のブナの木の根元に、ぽっかりと穴があった。大きさは桃次郎の頭くらい。手を入れてみると、ずいぶん奥まで続いている。おむすびはきっとここへ吸い込まれたに違いない。
頭を突っ込み、無理矢理進もうとしてみる。が、五尺六寸(約1.7m)の躰。広い肩幅がつっかえ、行かれるはずがない。しばらく手で穴を掘ったが、指先は痛くなってくるし、腹も減るしでついに諦めた。
けれども仕返しをせぬまま、終わらせることはできぬ。
そういえばここまである歩き通しで、厠へ行くタイミングもなかった。
これはちょうど良い。
桃次郎は、穴に向かって放尿した。
大きい方もしなかったのは、せめてもの情けであろう。
木立の中に転がっていた岩を押しては引き、ぴったりと穴を塞ぐ。
ブナの大木の前に置かれた、こんもりとした岩。
それを眺めていると、用を足したこともあって、ずいぶん気持ちがスッキリした。
さあ、先を急ごう──
ドッドドドドドドドッドドドッ!
とたんに地面の下から激しい音。同時にブナの木がブルブルと揺れ始める。
巨大ではないが、それなりに大きい岩──まるでおむすびのときのように、急にぶわりと宙を舞った。空に向かって一度小さくなったそれは、今度はぐんぐんと大きくなる。
「ヤベ!」
転がって避けると凄まじい衝撃と共に、岩が地面を打つ。
危うく、直撃を食らうところであった。
──キイキイ チチチ
鳴き声がした。
見ると、穴の口が何倍にも押し広げられ、そこから異様に大きい頭が覗いている。つぶらな丸い瞳、小さい鼻、その横に伸びる幾つもの髭。
口には上下二本ずつ、長く鋭い歯が伸びている。
顔の作りはネズミに似ているが、体毛はいっさい無い。
まるで病気にかかり、すべて抜け落ちてしまったかのよう──
呆気にとられ、桃次郎はただそれに釘付けだった。
穴から出ているのは頭部だけだが、それでも二尺(約60cm)はある。
生まれてこの方、こんな生物──いや、バケモノは見たことがない。
それとも都の周辺では、これが当たり前なのだろうか?
──キイキイ チチチ オ前 仲間ナノカ?
正直、初めはよく解らなかった。ただ変な声で鳴いているのだと思った。
それが人間の言葉だと解ったとき──桃次郎はギョッとした。
──オ前 アノ オ方ノ オ仲間 カ?
「──あの、お方? 一体誰のことだ?」
──アノ オ方ト 同ジ匂イ シタ
「ちょっと教えろ。動物ってのは、お前みたいに言葉を喋るのが普通なのか?」
──ヨク 嗅イダラ 違ウ 匂イ
「あ! てゆうかお前──俺のおむすび盗んだよな?」
──オカシイ 似テル デモ 違ウ
「──おい。すっ惚けてんじゃねえぞ、コラ?」
──似テル 違ウ 似テル 違ウ──
「おむすび返せ! ──あ、いや。やっぱりいいわ。そういえば、ションベンしたんだった──」
──キイキイッ! チチチチチチチッ!
どうやら桃次郎の放ったその一言が、相手を激昂させたらしかった。
物凄い速さで、穴から大ネズミが飛び出してきたからである。




