其の十七 別れと旅立ち
白月から聞いた内容は、はっきりいって意味不明だった。
いったいあれが何だったのか問うても、「だから説明が難しいと言ったのだ」と答えるばかり。やがて兄に会えることは解ったが、かといってただぼんやり待っているのは性に合わぬ。
白月の話では、この山寺を反対側へ越え、さらに北に進んだ先が「都」だという。もし道に迷ったら、夜空に輝く北辰という星を目印にすると良いそうだ。
人買いに連れられ、一度通り過ぎただけだが、実にたくさんの人間が集まっている場所らしい。
「よし。とりあえずそこへ行くよ。人が多いのなら、兄の噂も聞けるかもしれん。──白月はこれからどうするんだ? 行く当てがないなら、一緒に来るか?」
「──気持ちは嬉しい。されど、わたしは一度帰ろうと思う。長らくあの和尚に囚われ、酷く疲れた──」
「帰る? それってまさか──月へ?」
「そうだ。実はそなたに術を使ったおり、彼らに居場所が知れてしまった。その意味でも、一度は戻らねば──」
「彼らって誰だ?」
「わたしの──従者たちだ」
ゆっくりと立ち上がった白月は、回り縁を下りて土の道へ出た。
桃次郎は実に不思議なものを見た。月の光の一部が耀きながら降ってきて、彼女を包み始めたのだ。
何か聞いたことのない音楽──いや、もしかしたら言葉かもしれぬ。
まるで鳥が歌うように、光が鳴く。
それに合わせ、耀きはなおいっそう増してゆく──
「おい! もう行っちまうのかよ!」
転がるように飛び出し、桃次郎は言った。
我ながら、なんとも間の抜けた台詞であった。
「──世話になったな。桃次郎──」
囀りの向こうから、白月の声。
「──そなたに宣託を授けたとき、わたしもメッセージを受け取った。
それによれば、わたしたちは再び出会う定めのようだ。
宣託を受け、わたしは心を決めたぞ。──そなたは、もう決めたか?」
平手をぱんっと打ったように、すべてが消え去った。
お堂の前の土道には依然として月光が降りそそぎ、辺りを白く塗り変えている。
けれども、白月の姿はどこにもない。
桃次郎はぼんやりと天上の月を眺め、誰にともなくつぶやいた。
「──従者だって? あいつ、お姫さんだったのかよ──」
*
一夜が明けた。
洗脳が解けた下働きの者たちは、哀れでありながらも同時に逞しく、「今までのタダ働きを全部取り返す!」などと叫び、寺への略奪を開始していた。
彼らはみな、ある種の興奮状態にあり、いまだ和尚に対する怒りに燃えていた。
特に右腕として汚い仕事をしていた桃次郎。本来なら、その矛先が向いたとしても仕方があるまい。
けれどもそろそろ背丈が五尺六寸(約1・7m)に迫ろうという姿を前にすれば、そんな気分は消え去ったとみえる。文句を言ったり、挑みかかろうとする者はなかった。
やがて米蔵が開けられた。
山と積まれた米俵の一つが運び出され、飯炊き女が巨大な竈で白いごはんを炊く。
「さあ、お兄さんもお食べよ! どうせ持ち主はくたばっちまったんだから!」
そういえば昨夜の大暴れで、ずいぶんと腹も減っている。
ありがたくご相伴にあずかり、方丈の広間でみなと食卓を囲んだ。
「桃から生まれた子供? そういえば、聞いた記憶があるような──」と飯炊き女。
「たしかあれだろ? エラく賢いガキで、都の坊さんたちと問答をして、次々に言い負かしたっていう──」そう言ったのは、掃除夫の下人だった。
「いやいや! それだけじゃねえ」
和尚の身の回りの世話係りだった別の下人が割り込んだ。
「その童、なんと相手が動物でも会話ができるんだそうだ。そして、実に簡単に手なずけちまうらしい。まったく、何がどうなってるのやら。──世も末だぜ」
彼らから聞こえてくる兄の噂は、どれも驚かされるものばかりだった。
桃次郎は茶碗の飯を食べながら、二つの気持ちの間で揺れていた。
立派に育ち、噂の中心にまでなっている兄への誇らしさ。
それに比べ、まるで自分は何物でもないようにしか思われない。
──アンタは厄介者。
──失敗作の苦い桃さねッ!
遠い昔、育ての老女に言われた言葉が頭をよぎる。
それでも、兄には会わねばと思った。
相手はこの世界にたった一人の肉親なのだ。
飯炊き女はあまった白飯でたくさんのおむすびを握ってくれた。
桃次郎は礼を述べ、それを腰にくくると、都へ向けて深い山の中へと分け入って行った。




