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其の十五 邪眼

 声が聞こえたとき、桃次郎ももじろうは座敷牢の方を向いていた。

 その目は少女を見据え、けっしてふり返ってなどおらぬ。にも関わらず、背中には刺すような冷気。初めて和尚と対面したときの悪寒が、再び蘇っていた。


「──残念じゃ。酷く残念じゃ──」


 背後から飄々(ひょうひょう)とした和尚の声が続く。


「──こう見えて、私はお前を気に入っておった。特別に遇してきてやった。厳しく当たったのは、むしろお前を思えばこそ。辛い境遇から救い上げ、父親代わりになれるとさえ、思うておった──」


 その言葉がすべて嘘であることは理解していた。理解しているはずだった。まるで波が少しずつ岸辺を削るように、考えが分解され、形を変える。


 もしかしたらクソジジイ──

 いや、和尚って、本当は良い人──?


「──さあ、私の顔を見よ。桃次郎ももじろう。私の、顔を──」


 が、案の定、和尚の目を覗き込んでいないことが幸いした。

 以前と違い、裏の裏、さらに裏まで思考を巡らすことができる。最初の結論のとおり、やはり嘘だと腹落ちできた。


 ──すべての切っ掛け。

 洗脳のスタート地点。

 やはりあの、()()()()()()()()()()()


 桃次郎ももじろうはふり向いた。

 とうぜん、二つのまなこはしっかり閉じている。

 タンッと木の床を蹴った。声の聞こえた辺りに向かって、突進しながら拳を繰り出す。


 ふわりと空気の動く気配。拳が空を切る。

 それでも、感覚を頼りに再び突き出すと、


 バシンッ!


 拳が肉を捉え、しっかりとめり込む感触があった。


「──ぐぶッ!」


 これまでに、一度とて聞いたことのない和尚のうめき。


 ──おいおい。

 まさかこのジジイ──()()()()()()()()()()()()()──?


「──クク、ククク──」


 自分でも気付かぬうちに、口の中から奇妙な笑いが漏れていた。


 まったく馬鹿みたいな気分だ!

 恐ろしいものが出ると言われ、蓋を開けてみたら子供騙し。

 腹立ちを通り越して、憐れにすらなってくる。


「アンタと呼んだら、たしか殺すんだよな? 早くやってみせろよ──クソジジイッ!」


 逃れようとする空気の流れを読み、リーチの長いまわし蹴りを叩き込む。


 ベゴリッ!!


 刈り取るかのような軌道が何かを砕いた。

 きっと和尚の肋骨に違いない。


「──ぐおッほおッ!」


 痩せた老人の躰が土の上を転がる音。

「──やめろ。桃次郎ももじろうッ。そして目を開けるのだッ!」

 ジジイの言葉が意識を犯し、一瞬動きが止まる。頭の中に幾つもの嘘が立ち現れ、複雑な迷宮を組み上げるが、コツさえ覚えれば脱出は容易だ。


 強張った躰をぐぐぐと動かし、音のした方へ蹴りを打つ。

 けれども、足先が捉えたのは空だった。短い間に、上手く逃れたらしい。


「──桃次郎ももじろう。今すぐ目を開けよ──」


 荒い呼吸と共に、背後から和尚の声。

()()()()()()()()()()()()()()()──」

 言い終わるか終わらないかのタイミングで、少女の声が被さる。


「開けてはならぬ! 絶対に、開けてはならぬ!」


 桃次郎ももじろうはふり向き、動きを止めた。

 目はつぶったままでなので、何が起きているのか視認はできぬ。

 しかしお堂の回り縁からは、二人分の体重が立てるギシギシという音。か細い少女の躰にあの薄汚い男の腕がまわされ、捕らえられている姿が脳裏に浮かぶ。


 燃え上がる激しい怒り。自分自身さえ焼き尽くし、今にも爆発しそうだ。

 それでも今は感情を殺し、努めて反対を装う。


「ハッタリだな。アンタ、その娘を喰うんだろ? だったら殺せないはずだ」

「──すべては命あっての物種。生きてさえおれば、また肝は見つかる。さあ、どうする?」


 迷う桃次郎ももじろう。少女は必ず助ける。

 なにか、あの穢れた目を破る手だてがなければ──


「よかろう!」

 痺れを切らしたように、和尚が怒鳴った。

「さあ、女子おなごよ。()()()()()()()()()()()! 吸うことも吐くことも、絶対に許さん!」


「解った! 目を開ける。彼女の術をとけ!」


 カッと両のまなこを見開いた瞬間、飛び込んできたのは憂いをおびた少女の顔。

 首に腕をからめられつつ、強くこちらを見据えている。

 心が痛くなるような彼女の瞳──


 けれどもすぐさま、二つのどす黒い目が割り込んだ。


 まるで穢れたヘドロの沼。あるいは底なしの奈落。

 固く守られていた意識の蓋はこじ開けられ、自信と尊厳が足元からゆらぎ始める──


「──大変けっこう。では桃次郎ももじろう? 今すぐ──()()()()

 いつになく感情たっぷりな声だった。


「──なあ。ちょっと聞いていいか、クソジジイ?」


 桃次郎ももじろうは──相手に向かって踏み出しながら訊ねた。


「──()()()()()()()()?」


「──は? え?」

「そんな言葉はよくしらねえ」

「な、なんじゃとッ!」

「──()()()()()()()()()、って意味か?」

「いや! 違う! そうじゃなくて──」


 桃次郎ももじろうは駆け出した。

 強く土を蹴り、ただ一点を目指して猛然と走る。


「死ね死ね、死ねッ! 今すぐ、この瞬間に、直ちに死ぬえええええええいいッ!」


 ──ズブリ!


 桃次郎ももじろうの右腕が和尚の胴体を貫いたのは、その言葉が発せられるのとほぼ同時か、わずかに早かった。老人の口から滴り落ちる滝の鮮血。息をしようにも、漏れ出てくるのはぶくぶくとした赤い幾つものあぶくのみ。


「──ド低能の──大馬鹿、もの、が──」


 全身から力の抜け去る前、吐き出されたのはそんな辞世の言葉であった。

「ああ。お陰で助かった」

 桃次郎ももじろうはゆっくりと、未だ温かい躰から腕を引き抜いた。

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