其の十四 名も無き月の姫
月から来たという少女の記憶は、混乱などしていなかった。
そもそも、名前というものを与えられたことがないのだという。
「──わたしを最初に見つけた翁は、酷く金子に困っておってな。
竹の細工物だけでは生きて行かれぬと、早々にわたしを手放したのだそうだ。
幾人もの人買いの手をたらい回され、やがてあの和尚に買われた。
物心がついてからは、ずっとこの中で過ごしている。
それゆえ、正式な名は無い。
和尚もただ『お前』や『女子』とだけ呼ぶのだ──」
少女の可憐さも、もちろんあったかもしれぬ。
しかし桃次郎は自分とよく似たその境遇に、酷く心を動かされた。
どの道ジジイをぶっ殺すなら、この少女も救わねばならぬ。
「待ってろ。いま出してやる。こう見えて俺は力があるんだ」
桃次郎は木でできた座敷牢の格子をつかんだ。腕と指先に力を入れ、メリメリと割ろうとしたところで、
「──よせ」
少女が桃次郎の手に、自分の手を載せた。
それははっとするほど、ひんやりしていた。
「わたしはいずれ殺される。助けようとすれば、そなたもあの忌まわしき言葉で死を命ぜられよう。ゆえに、なにもしてはならぬ」
「──待て待て。殺されるってのはどういう意味だ? というか、そもジジイは何のために珍しい童を集めている?」
少女は黙り込み、しばらく格子の内側に視線をさ迷わせた。
やがて、意を決したように言った。
「──生肝が欲しいのだ。活きたる躰より抜き出だし、いまだ鼓動の続くうちに喰らうために──」
「き、肝を喰らう、だと? なんだってそんなことを──」
「──猿の生肝に万病を癒す力がある、という話を聞いたことはないか?
もちろん、それはただの作り話だが和尚は信じておる。猿ごときの肝ゆえ、役に立たぬのだと。やんごとなく、いと珍しき肝ならば、神通力を授かるのだと──」
「ヤバいジジイだとは思ってたが、カンペキにイカレてるな」
「それがそうとも言い切れぬ。和尚はすでに、何度も試みておるのだ。あの者の穢れた目に覗かれたことはないか? あれは後天的に手に入れたもの。わたしの知らぬ、誰かの肝を喰らって──」
──なるほど。秘密が解った。
クソジジイは複数の神通力を操っていた。
まずは目の力で誘導し、続いて言葉で洗脳する。
もしかしたら、言葉の力も誰かから奪ったものかも知れぬが──それは一旦、置いておこう。
「ちょっと聞いてもいいか? 別に疑うわけじゃないが、どうしてジジイはアンタをさっさと喰わないんだ?」
「和尚の話では、わたしがその──初潮を迎える必要があるらしい。それが一番、力の満ちる瞬間だからと──」
「ちょい待ち。──しょちょう、ってなんだ?」
桃次郎の言葉に、少女はぐっと眉根を寄せた。
けれども、本当にものをよく知らないがための質問だと解ると、
「大人になった印が表れる、ということだ」と言った。
続けて、それはもうすぐであることも。
「最後にもう一つ。アンタにはどんな力がある? 和尚が喰いたがってるってことは、なにかスゲーことができるんだろう?」
「──期待を裏切るようで悪いが、わたしは光で照らすことしかできぬ。さながら闇夜に浮かぶ月のように、迷い人を導く力だ。今はそれすら和尚によって禁じられておる──」
彼女が戦いの役に立つことはなさそうだった。
それでも、桃次郎は再び腕に力を入れた。
メリメリと、格子が悲鳴をあげ始める。
「やめよ。そなたを巻き込みたくない」
「アンタは勘違いしてる。実は俺も喰われるリストの中の一人なんだ。とっくの昔に──巻き込まれてるぜッ!」
──ミシミシミシ!
木の表面が指の形に潰れる。紙くずのように格子は砕けた。
少女はあきれたような、驚いたような表情でそれを眺めていたが、そのうち月明かりの差し込む引き戸の向こうに、視線が釘付けとなった。
「──立ち入りを禁ずる。そう言わなかったかの、桃次郎?」
酷く平坦で、感情のない和尚の声が響き渡った。




