其の十三 弁天堂
クソジジイの命令は強力で、邪悪だ。
意識や躰は自然に反応し、やがてどうしてもやらなくてはならなくなる。
しかし桃次郎は寺で過ごすうち、完璧ではないが一つの攻略法を見つけていた。
命令に従いつつ、しかし命令を破る方法。
あるいは、上手く誤魔化す方法。
──それは、解釈を変えるのだ。
つまり、「片づける」=「殺す」ではなく、「クソジジイの目の届かぬ場所に移す」と考え直す。これが実に上手くいった。
全員を石段の下まで運び、人買いたちの意識が戻ったところで二度と近付かぬよう脅しつける。痛めつけられた後の彼らは実に素直。なんと大男からは、涙ながらに感謝されたほどだった。
本当は彼らに対してジジイの正体を洗いざらい話したかった。そうすれば人買いは近寄らなくなるし、もしかしたら大きな力が働いて討伐隊が組織されたかもしれぬ。けれども和尚は抜け目がなかった。「私のことは、絶対部外者に話すな」と厳しく命令されていたのだった。
*
「さっきの連中はどうなった? ちゃんと片づけたか?」
夕食の時間。
方丈の炊事場の隅で飯を食っていると、現れた和尚がそう尋ねた。
桃次郎は正しい言葉を探した。「解釈を変えました」とは、とても言えぬ。
端的で、無駄がなく、かつ嘘ではない言葉──
「ちゃんと片づけた。あいつらはもう居ない」
へどろのような視線が桃次郎にまとわりつく。表情が飄々としている分、余計に怖い。まるで永遠にも思われる、長い沈黙──
「──そうか。ごくろう」和尚は出て行った。
──やった。バレてない。
その小さな成功は、桃次郎の気分を良くした。
なんだかもう、クソジジイをぶっ殺せる。そんな気さえした。
けれども続く数日間で、限界が露呈した。
たとえば「食え」とか「寝ろ」といった風に、命令が単純である場合、それを別の意味に解釈するのは難しい。だからどうしても素直に従ってしまう。
ジジイを倒すためにはもうあと一手──何かが必要だった。
*
ある晩のこと。
桃次郎は寝所をこっそり抜け出すと、境内に出た。
辺りは月明かりに照らされ、どこまでも明るく、建物の影さえほの白い。
向かった先は、和尚が弁天堂と呼んだ小さな建物。奴があれだけ声を荒げたからにはきっと秘密がある。そう踏んでのことだった。
音を立てぬように小路を進み、仏殿を横切ってさらに先へ。とはいえ、クソジジイからは事前に「立ち入りを禁ずる」と言われている。そこで、解釈を変えた。
「立ち入り」=「立ったまま入る」。
ならば、地面に伏し、這って進めばこれには当たらない。
張り出した瓦屋根の弁天堂は四角い敷石の上に建っており、堂内へは数段の階段で繋がっている。そこまで四つん這いで進んだものの、目の前には内側を見通せぬ板戸。
悩んだ末、ほんのちょっとだけ開けてみる。
──暗くてよく見えない。
もしこの中に和尚がいたら、そのときはそのときだ。
手にぐっと力を入れ、板戸を引き開けた。
瞬間、月明かりが差し込み、堂内の様子が解った。狭い内側には、なにやら木の格子で作った牢屋のようなもの。その向こうに──誰かが居る!
桃次郎は息を飲んだ。
少女だ。牢屋の床にまで伸びる長い黒髪。
透き通りそうなほど白い衣をまとっている。同じくらい、その肌も白い。
どこまでも整った顔かたち、身体つきはたおやか。
まるで同じ人間とは思えぬ、なんとも可憐な生き物──
「──そなたは、誰だ?」
ふいに、少女が口を聞いた。
桃次郎ははっと我に返り、
「──お前こそ、誰だ? 名前は何という?」
「──今は、よく解らぬ」
しばらく沈黙したあと、少女が呟いた。
正直、意味が解らなかった。記憶が混乱しているのだろうか?
「なんにしても、あのクソジジイ──和尚が、お前を閉じ込めたんだろう? 思い出せることはないか? どんなことでも良い。どこで生まれ、どこから来た、とか──」
「──それなら解っておる」
少女がその細い腕を持ち上げ、格子の隙間から背後を指さした。「あそこだ──」
ふり向いた桃次郎の視線の先にあったもの。
──墨色の夜空に白い耀きを放つ、満月であった。




