頭髪維持税(1)
法案の骨子が流出したのは、三日後の朝だった。
最初に火をつけたのは、匿名の投稿サイトだった。
「頭髪環境改善推進法案(素案)」
題名だけなら、薄毛に悩む人を支援するための法案に見えた。
だが、中身は当初の説明から大きく変わっていた。
・一定年齢以上を対象とした頭髪健康診断の実施
・薄毛の進行度を数値化した「頭髪健康指数」の導入
・基準を下回った者に対する治療および改善指導
・国が指定する育毛剤、増毛製品、ウィッグへの公的補助
・改善指導後も基準に達しない者への追加負担の検討
神崎は最後の項目を読み返した。
薄毛に悩む人を助ける制度だったはずだ。
それがいつの間にか、薄毛でいる者に改善を求め、結果が出なければ負担を課す制度へ変わっている。
そして文書の末尾には、追加負担の具体的な名称まで記されていた。
「改善指導後も頭髪健康指数が一定の基準に達しない場合、頭髪環境維持負担金の徴収を将来的な検討課題とする」
この一文が、世論を爆発させた。
正式名称は、頭髪環境維持負担金。
だが、そんな長い名前で呼ぶ者はいなかった。
テレビもネットも、すぐに別の名前を使い始めた。
――頭髪維持税。
制度が発表された当初、冗談半分に使われていた「ハゲ禁止法」という呼び名も、もう笑い話ではなくなっていた。
神崎は編集部のモニターを見つめたまま、黙ってコーヒーを飲んだ。
隣では、森本が画面を何度も読み返していた。
「これ、治療を受けても髪が生えなかったら、金を取られるってことですか」
「そう読めるな」
「努力しても駄目だった人は、どうなるんです?」
「その努力が十分だったかどうかまで、国が決めるんだろう」
森本の顔から、いつもの笑いが消えた。
「支援じゃないですね、これ」
「ああ。治す自由を与えるふりをして、治さない自由を奪おうとしている」
国は、薄毛を罰するとは書かない。
健康を守るため。社会参加を支えるため。本人の将来を考えるため。
正しい言葉をいくつも並べ、その最後に負担金を置く。
その意味を、国民に分かる言葉へ翻訳する。
それが、記者の仕事だった。
*
午前十時には、全局がこの話題一色になっていた。
ワイドショーの司会者が神妙な顔で言う。
「今、日本人の見た目が問われています」
美容評論家が頷く。
「第一印象は経済活動に直結しますから」
弁護士が眉をひそめる。
「憲法上の平等原則に抵触する可能性があります」
タレントが笑いながら言う。
「でも、ちょっと気を遣うのは大事ですよね」
スタジオが笑う。
笑いながら、人は残酷なことを言う。
*
政治部フロアでは、記者たちが一斉に電話へ飛びついていた。
「官邸のコメント、まだ取れないのか!」
「厚労省は担当者不在の一点張りです!」
「与党幹部、裏口から出たぞ!」
神崎はモニター前の人だかりを離れ、自分のデスクへ戻った。
流出した素案が本物かどうか。まず、それを確かめる必要がある。
椅子に腰を下ろすと、長年付き合いのある厚労省の官僚へ電話をかけた。
「神崎です。今出回っている素案、本物ですか」
しばらく沈黙したあと、男は声を潜めた。
「文書の内容は本物だ。ただし、まだ省内でも限られた人間しか見ていない」
「そちらから漏れたんですか」
「少なくとも、そういうことにはなっていない。今ごろ省内では、誰が持ち出したのか必死に探しているよ」
「では、政治側から?」
「法案を早く通したい連中もいれば、潰したい連中もいる。どちらかが相手を牽制するために流した可能性はある」
「どちらだと思います」
男は電話の向こうで低く笑った。
「漏れたことで、誰が得をするか考えろ。それを人に聞くようじゃ、君もまだ若いな」
通話は一方的に切れた。
四十五歳を捕まえて若いと言うのだから、官僚の世界は時間の流れが違うらしい。
神崎はメモ帳を開き、二つの言葉を書き込んだ。
――法案を通したい側。
――法案を潰したい側。
だが、本当にその二つだけなのか。
神崎は、流出した文書をもう一度見つめた。




