頭髪維持税(2)
昼過ぎ、厚生労働大臣が緊急会見を開いた。
記者クラブの壇上で、水沢大臣は汗を拭きながら説明を始めた。
画面に映る本人も、決して髪の多い方ではない。神崎には、とても他人事を説明しているようには見えなかった。
「これはあくまで叩き台の一つであり、決定事項ではありません」
質問が飛ぶ。
「元々、頭髪維持税は検討していたのか」
「国民を容姿で評価するのか」
「薄毛を疾病扱いするのか」
大臣は答えを濁し続けた。
「様々な観点から議論している段階です」
いつもの言葉だった。
何も決めていない時にも使い、全部決めている時にも使う言葉だ。
神崎は手を挙げた。
「東都新聞です。追加負担の判断に使われる頭髪健康指数には、どのような医学的根拠があるのでしょうか」
会場が静かになった。
水沢大臣は手元の書類をめくった。
「専門家の知見を踏まえ、今後慎重に基準を検討してまいります」
「その専門家は、誰が選ぶのですか」
「人選については、現在調整中です」
「素案には、国が指定する育毛剤や増毛製品への公的補助も盛り込まれています。製品を選ぶ専門家の中に、増毛業界の関係者は含まれますか」
水沢大臣の手が止まった。
「特定の企業や業界に利益が偏ることのないよう、透明性を確保してまいります」
神崎はペンを置いた。
含まれない、とは言わなかった。
*
夕方六時を過ぎた頃、神崎は書きかけの原稿を保存した。
考えてみれば、朝からコーヒーしか口にしていない。
夕食を買うために会社を出ると、駅前では若者たちがスマートフォンを囲みながら騒いでいた。
「お前、将来課税対象じゃん」
「うるせえ、お前も来るわ」
笑い声。
ドラッグストア前には育毛剤の特設棚ができていた。
“今から始める未来対策”
商売は早い。
法案が成立する前から、棚には育毛剤や頭皮ケア用品が並び、「頭髪健康診断に備えましょう」という札まで付けられていた。
昨日までと同じ商品だ。
変わったのは、置かれた場所と売り文句だけだった。
薄毛への不安を数値にし、改善が必要だと告げ、その隣に解決策として商品を並べる。
公的補助が始まれば、利用者の負担は軽くなる。だが、企業が受け取る金まで減るわけではない。
むしろ国が支援対象に指定すれば、商品には「国が認めた」という看板まで付く。
神崎は棚に並ぶ育毛剤を見つめた。
人の髪は、一夜で変わらない。
だが、その髪を取り巻く市場は、一夜で作ることができる。
この法案で最初に救われるのは、本当に薄毛に悩む人なのか。
それとも、商品を売る側なのか。
*
夜、居酒屋のテレビでは討論番組が始まっていた。
与党議員が、頭髪維持税について説明している。
「これは徴税ではありません。国民の健康意識を高めるための制度です」
続いて、経済学者が発言した。
「頭髪関連の市場は、今後さらに拡大します。産業育成という視点も必要でしょう」
女優は、自分の髪に触れながら言った。
「私も美容のために努力しています。皆さんも、自分にできることをすればいいのではないでしょうか」
元スポーツ選手が、困ったように笑った。
「いや、それを言ったら、できない人が悪いみたいになるでしょう」
神崎は残っていたビールを飲み干した。
店主の佐野が、カウンター越しに尋ねる。
「これから、どうなるんだ」
「分かりません。まだ素案ですから」
「神崎さんは、払う側か?」
「この頭髪健康指数なら、たぶん重課税です」
佐野が吹き出し、神崎も少しだけ笑った。
笑えるうちは、まだましだった。
*
翌朝、神崎が編集部へ入ると、森本が待ち構えていた。
「神崎さん、すごいものが来ました」
「朝から騒がしいな」
「これを見たら、目も覚めますよ」
森本が差し出したのは、大手保険会社の商品企画資料だった。
「頭髪ケアサポート保険(仮称)」
・頭髪健康指数が一定基準を下回った場合の一時金給付
・指定されたウィッグ、増毛製品の購入費用補償
・植毛治療および継続的な頭髪ケアに対する特約
神崎は資料を読み終え、苦笑した。
「まだ法案も通っていないぞ」
「でも、商品設計はもう始まっています」
「通るかどうかは関係ないんだろうな。世間が不安になった時点で、保険は売れる」
森本は、もう一度資料へ目を落とした。
「保険会社も、法案作りに関わっていると思いますか」
「まだ分からない。制度の動きを先に知って準備していたのか、騒ぎが起きてから商機を見つけたのか。この資料だけでは判断できない」
神崎は企画書の作成日を探したが、表紙には年月しか記されていなかった。
「正確な作成日を調べてくれ。法案が表に出る前なら、保険会社も制度の動きを知っていた可能性がある」
「騒ぎのあとなら、単なる便乗ですか」
「その可能性が高い。日付が分かるまでは、どちらとも決めつけるな」
森本は頷き、企画書の作成部署を調べ始めた。
神崎も、薄毛に関連する企業の動きを洗い出した。
育毛剤、植毛、ウィッグ、増毛サロン、頭皮ケア用品、そして保険。人の髪はまだ一本も変わっていないのに、市場だけが先に広がっている。
そのすべてが法案作りに関与しているとは限らない。神崎が探しているのは、騒ぎのあとで群がってきた企業ではなく、制度が公表される前から準備していた者だった。
ノートを開き、中央に一つの名前を書く。
――桂ホールディングス。
その周囲に、制度が表へ出る前から動いていた企業や人物を書き加えていく。
誰が法案に便乗したのかではない。
誰が、法案ができることを知っていたのか。
追うべきなのは、そこだった。
その時、スマートフォンが震えた。
非通知だった。
「神崎修司さん」
また、あの低い声だった。
「今度は何です」
「一つ、忠告しておこうと思いまして。頭髪維持税という呼び名を、これ以上広げない方がいい」
神崎は椅子にもたれた。
「私が作った言葉じゃない。もうテレビもネットも使っています」
「あなたが記事にすれば、単なる俗称ではなくなる。東都新聞が、制度を税だと認めたことになります」
「実際、基準に届かなければ金を取る。税金と何が違う」
「正しさの話はしていません。呼び名の話をしているのです。人は制度の中身を読む前に、分かりやすい言葉へ怒りを向ける」
「法案が潰れると困るらしいな」
電話の向こうで、わずかな間があった。
「薄毛に悩む人を支援するという考えまで、否定されるのは惜しいと思いませんか」
「ずいぶん善意にあふれていますね」
「制度が動けば、救われる人がいる。新しい商品が生まれ、企業が育ち、雇用も増える。それを呼び名一つで潰す必要はないでしょう」
神崎はペンを手に取った。
「あなたが心配しているのは、薄毛の人ですか。それとも、これから育つ市場ですか」
男はすぐには答えなかった。
「市場がなければ、商品は育ちません。商品がなければ、救われる人もいない」
「桂の人間ですか」
「そう思うなら、それでも構いません」
「否定しないんですね」
「今、名前を知っても意味はありません。大切なのは、誰が正しいかではなく、何がどちらへ動いているかです」
「また流れの話か」
「ええ。流れに逆らえば、事実まで一緒に沈むことがあります」
神崎は声を低くした。
「私に、桂を追うなと言っているんですか」
「急いで結論を出さない方がいい、と言っているだけです」
「何を待てと?」
男の声が、わずかに柔らかくなった。
「今はまだ、壊す時ではありません」
「何をだ」
返事はなかった。
通話は切れていた。
神崎はスマートフォンを机に置いた。
通話が切れたあとも、男の言葉だけが耳に残っていた。
今はまだ、壊す時ではありません。
何を壊されたくないのか。
法案か。桂か。それとも、これから生まれる巨大な市場か。
神崎には、まだ分からなかった。
ただ一つ、はっきりしたことがある。
相手は、「頭髪維持税」という言葉が広がることを恐れている。
薄毛を笑われることには慣れていた。自分から冗談にして、受け流すことも覚えた。
だが今、国はその羞恥心を制度に変え、企業は市場に変えようとしている。
神崎はパソコンを開き、新しい記事の見出しを打ち込んだ。
――頭髪維持税とは何か 国家が羞恥心を財源にするとき
男が使うなと言った言葉を、神崎は見出しの先頭に置いた。




