完璧な髪(3)
会見後、ロビーは名刺交換の場になっていた。
テレビ局は識者コメントを撮り、経済誌は株価への影響を聞き、美容ライターは装着感を尋ねている。
神崎は森本に、配布資料を持って先に編集部へ戻るよう伝えた。
「桂の過去の発表と、厚労省の動きを時系列に並べておいてくれ。こちらは俺が残る」
「分かりました。何か入ったら連絡します」
森本がロビーを出ていくと、神崎は壁際に移り、会場全体を見渡した。
そこへ、一人の女性が近づいてきた。
三十代後半。黒のスーツ。細い眼鏡。無駄のない所作。
「東都新聞の神崎様ですね」
「そうですが、どちら様ですか」
「桂ホールディングス広報室の水瀬と申します」
差し出された名刺は厚い紙だった。
「会長が、少しお話ししたいと申しております」
神崎は足を止めた。
「取材として受け取っても?」
「まずは非公式でお願いしたいとのことです。五分だけ、お時間をいただけませんか」
「場所は?」
「この先の控室です」
断る理由はあった。
会見を終えたばかりの桂木が、なぜ自分だけを呼ぶのか。こちらの手の内を探るつもりかもしれない。
それでも、行かない理由にはならなかった。
「分かりました。ただし、取材であることは忘れないでください」
「会長も承知しております」
*
案内されたのはホテル最上階のスイートルームだった。
会見場より静かで、ずっと金の匂いがした。
窓際に桂木道隆が立っていた。
桂木は窓際に立ち、東京の街を見下ろしていた。
「神崎さん。今朝の記事、拝見しました」
「それで、私を?」
「記事に敵意を感じた、と申し上げるつもりはありません。ただ、あなたは我々の製品を知らないまま、制度と企業の関係だけを見ている。少しもったいないと思いましてね」
桂木は振り返り、向かいのソファを勧めた。
「来月からNEO-SKINの体験モニターを募集します。装着から一年間のメンテナンスまで、費用はすべて当社が負担する予定です。よろしければ、神崎さんにも参加していただきたい」
神崎は腰を下ろさなかった。
「記事を書いた記者に、百二十万円の商品を無償で提供するんですか」
「記者だからではありません。あなた自身が、この製品を必要とする方の気持ちを理解できる立場だからです」
桂木の視線が、神崎の額へ一瞬だけ向けられた。
「実際に使えば、記事の見方も変わると?」
「見方を変えてほしいのではありません。知らないものを批判するより、知ったうえで判断していただきたいだけです」
言葉だけを聞けば、もっともだった。
だが、商品を受け取ったあとも同じ記事を書けるのか。桂木はそこまで計算している。
「申し訳ありませんが、受け取れません」
「残念です。似合うと思いますよ」
「今の頭も、それほど嫌いではないので」
桂木は小さく笑い、今度は一冊の資料をテーブルに置いた。
「では、こちらはいかがでしょう。当社の研究施設と製造工程を、東都新聞さんに独占公開します。開発担当者への取材も用意できます」
「ずいぶん親切ですね」
「我々を敵と決める前に、別の面も見ていただきたいのです」
「記事の内容は、そちらでは決められませんよ」
「もちろんです。ただし、我々にも社員と株主を守る責任があります。事実に基づく批判は受け止めますが、憶測が企業価値を傷つけるのであれば、必要な対応を取らざるを得ません」
声の調子は変わらなかった。
好意的な提案の中に、警告が一つだけ混じっていた。
「それを伝えるために、私を呼んだんですか」
「いいえ」
桂木は穏やかに微笑んだ。
「あなたを、敵にしたくなかっただけです」
神崎はテーブルの資料を手に取らず、部屋を出た。
*
ホテルの外へ出ると、夕方の雨が降っていた。
歩道橋の上に、数人の抗議者が立っている。
手書きのプラカード。
「髪で人を測るな」
「薄毛は罪じゃない」
「人間に点数をつけるな」
人数は少ない。
だが、まだ少ないだけかもしれなかった。
スマートフォンが震えた。
森本からメールだった。
『神崎さん、大学の研究者から連絡がありました』
続けて、もう一通。
『“桂に潰されかけた研究がある”そうです』
神崎は画面を見つめた。
雨粒が文字を滲ませる。
桂がすべての答えとは限らない。
だが少なくとも、ただの新商品発表では終わらない。
彼は返信した。
『分かった。重要な話かもしれない。名前と所属を確認して、直接話を聞けないか頼んでみてくれ』
送信してから、空を見上げた。
灰色の雲が、街を低く覆っていた。
その下で、見えない何かが確かに動いていた。




