異変(5)
夜、駅裏の古い居酒屋。
暖簾は色褪せ、木のカウンターには長年の染みが残っている。こういう店だけが、人の本音を少し持っている。
店主の佐野がビールを置いた。
「今日は、みんな頭を触りながら入ってくるよ」
「ニュースの影響ですか」
「そうらしい。国会で話題になっただけで、急に自分の頭が心配になるんだからな」
そこへ、遅れて森本がやってきた。
「神崎さん、もう飲んでるじゃないですか」
「髪で風を切ってたら遅れたか」
「そのいじり、今日だけで七回目です」
佐野が笑った。
「仲いいな」
「悪いです」
二人同時だった。
*
そのとき、森本のスマートフォンが震えた。
画面を確認した森本の表情から、笑いが消える。
「神崎さん、編集部からです。厚労省内のメモが入ったそうです」
「何が書いてある」
「公的支援の対象を、治療薬だけでなく、増毛製品やウィッグにまで広げる案が検討されています」
神崎はグラスを置いた。
「桂の商品も対象になるな」
「今日発表されたばかりですよ」
「なのに、役所ではもう支援する準備が進んでいる」
神崎は残っていたビールを飲み干し、立ち上がった。
「おいきたばかりだろ。もう帰るのか」
佐野が尋ねる。
「ええ。すいません。ちょっと調べ物ができて」
神崎たちは、居酒屋を飛び出した。
*
深夜の編集部は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
聞こえるのは、神崎と森本がキーボードを叩く音だけだった。
二人は机の上に、国会の答弁記録、政治献金の一覧、桂ホールディングスの株価推移、審議会資料、新製品発表会の案内状を並べていた。
「並べてみると、露骨ですね」
森本が二本の缶コーヒーを机に置いた。
「薄毛への公的支援が国会で明らかになった日に、桂が新しい増毛製品を発表。その裏では、増毛製品やウィッグまで支援対象に加える案が進んでいる」
「そのうえ、桂の株価は急騰した」
神崎は資料の日付を見比べた。
「偶然なら、ずいぶん気の利いた偶然だ」
森本は缶コーヒーを開けながら、神崎の頭へ目を向けた。
「僕も当事者になる前に、決着をつけたいですね」
「気づいてないのか。お前はもう始まってるぞ」
森本は慌てて頭頂部を押さえた。
「嘘ですよね?」
「ほら、調査を続けろ」
森本がスマートフォンのカメラで自分の頭を確認し始め、神崎は小さく笑った。
まだ笑える。
だが、机の上に並んだ資料は、これが笑い話では終わらないことを告げていた。
その時、机の上のスマートフォンが震えた。
表示番号なし。
神崎は手を止め、画面を見つめた。
この時間の非通知は、たいてい碌でもない。
数秒置いてから通話ボタンを押す。
「……はい」
「神崎修司さんですね」
低く、よく通る声だった。落ち着いている。だが、どこか温度がない。
「どちら様ですか」
「あなたに少し興味のある者です」
「営業なら間に合ってます」
「安心してください。売り込みではありません」
一拍置いて、男は続けた。
「今回の件、深入りはおすすめしません」
神崎は椅子にもたれた。
「名乗りもしない相手に忠告されるほど、信用がないもので」
「警戒心が強い。結構です」
「で、何の件です」
「もう動いておられるでしょう」
「質問に質問で返す人は嫌われますよ」
男は気にした様子もなかった。
「あなたが担当になったと聞きました」
神崎の眉がわずかに動く。
「……誰から」
「人は、思うよりよく喋るものです」
「新聞社の人間が?」
「組織の人間が、です」
神崎は無言だった。
編集部のざわめきが、少し遠く聞こえる。
「それで、何の用です」
「これは頭髪の話ではありません」
男は落ち着いた声で言った。
「表に出ているのは薄毛政策ですが、裏では別のものが動いている。あなたが思うより、大きな話です」
神崎は鼻で笑った。
「便利な言い方ですね。中身を言わずに深刻ぶれる」
「中身は、いずれ分かります」
「営業ですか。宗教ですか」
「どちらでもない。助言です」
「ありがたい話だ」
「そうでもありません」
一拍置いて、男は続けた。
「あなたは勘のいい人だ。だから余計なところまで掘る。今回は、見送った方がいい」
「断ったら?」
「あなたの自由です。ただ、断る方だと思っていました」
神崎は少し笑った。
「誰だ、お前は」
短い沈黙のあと、男は静かに答えた。
「あなたにとって、まだ名乗るほどの者ではありません」
通話は切れた。
悪戯電話にしては、妙に手際がよかった。
神崎はしばらくスマートフォンを見つめていた。
だが、妙に引っかかる。
なぜ、自分が担当になったことを知っている。
そして、なぜ調査が始まる前から止めようとするのか。
神崎はパソコンを開き、新しい記事の見出しを打ち込んだ。
――薄毛支援は誰を潤すのか 公的支援の裏で動く巨大市場
国民の悩みを救うための制度なのか。それとも、増毛製品を売るために作られた市場なのか。
まだ答えは出ていない。
だが、調べるべき相手は見え始めていた。




