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他がために、禿げはなる  作者: 南 春


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朝倉の失踪(4)

 その日の夜。


 大学を出る頃には、雨が降り始めていた。

 生命工学棟の窓には、まだいくつか明かりが残っている。

 相馬も、まだ中にいるのかもしれない。

 森本が傘を差しながら言った。


「朝倉さん、戻ってきますよね」


 神崎はすぐには答えなかった。


「……そう願いたいな」


「神崎さんでも、分からないですか」


「分かるわけないだろ」


 神崎は雨の向こうにある生命工学棟を見上げた。


「だから、探してる」


 森本は何も言わなかった。

 二人は雨の中、大学を後にした。


     *


 大学近くのビジネスホテルに戻ったときには、午後十一時を回っていた。

 神崎は濡れたコートを脱ぎ、窓際に立った。

 森本はベッドの上でノートPCを開き、この二日間で集めた情報を整理していた。


「最後の更新は三日前です。ただ、もともと頻繁に投稿する人じゃないみたいで」


「じゃあ、そこからは追えないか」


「ですね。失踪する前に何をしてたのかまでは分かりません」


「その後は?」


「何もありません。大学関係者にも聞きましたけど、連絡が取れた人はいないみたいです」


「家族はどうだ」


「実家は青森なんですが、今は詳しく話せる状態じゃないそうです」


 神崎は黙った。


 朝倉の失踪。


 研究データの消失。


 そして、桂ホールディングスの株価上昇。


 それぞれを単独で見れば、説明はつく。

 だが、重なりすぎている。

 そのとき、スマートフォンが震えた。


 非通知。


 神崎は画面を見つめてから、通話ボタンを押した。


「もしもし」


「神崎修司さん」


 あの低い声だった。

 神崎の表情が変わる。


「今度は何だ」


「残念ですね」


「何がだ」


 数秒の沈黙。


「人は、見つからない方が幸せなこともあります」


 神崎は窓から離れた。


「……朝倉さんのことを言ってるのか?」


 男は答えなかった。


「お前、何か知ってるな。朝倉さんはどこにいる?」


「さあ」


「ふざけるな。何のために電話してきた」


 数秒の沈黙があった。


「朝倉さんが姿を消してから、桂ホールディングスの株価は上がりました」


「何が言いたい」


「市場は正直だということです。誰かがいなくなったことで会社の価値が上がるなら、その人物を邪魔だと思っていた人間がいる」


 神崎の脳裏に、昼間見た株価の上昇が浮かんだ。


「朝倉さんが消えたことを、市場は歓迎したとでも言うのか」


「私は、数字が示していることをお伝えしただけです」


「お前は桂の人間か?」


 男は答えなかった。


「誰なんだ、お前は」


 わずかな間を置いて、男は静かに言った。


「市場の声です」


 通話は切れた。

 時刻は、午前一時を少し回っていた。

 神崎はしばらくスマートフォンを耳に当てたまま、暗くなった画面を見つめていた。


「神崎さん……?」


 森本がベッドから立ち上がる。

 神崎はゆっくりとスマートフォンを下ろした。


「こいつ、朝倉さんのことを知ってる」


     *


 午前二時前。


 森本が自分の部屋へ戻ったあとも、神崎は眠れずにいた。

 上着を椅子の背に掛け、ベッドへ横になる。

 だが、目を閉じるたびに、男の言葉が蘇った。


 市場は正直だ。


 誰がいなくなれば喜ぶのか。数字を見れば分かる。

 男の言葉が、神崎の頭から離れなかった。

 桂には、朝倉の研究が止まることで守られる事業がある。だが、利益を得た者が、必ずしも事件を起こした者とは限らない。


 神崎は手帳を開いた。

 朝倉に接触した男の正体。

 男と桂との関係。

 研究棟を出たあとの足取り。


 どの項目にも、答えはなかった。


 桂と朝倉の失踪を結ぶ、確かな証拠が必要だった。

 いつの間に眠りに落ちたのかは分からない。


 激しくドアを叩く音で、神崎は目を覚ました。


「神崎さん!」


 森本の声だった。


 枕元の時計を見る。


 午前四時を少し過ぎていた。


 神崎がドアを開けると、森本がノートパソコンを抱えて立っていた。


「……何だ」


「メールです。さっき、政治部の共有アドレスに届きました」


 二人は部屋へ入り、テーブルの上でパソコンを開いた。

 差出人の欄には、意味のない英数字が並んでいる。

 件名も本文もない。

 添付ファイルが一件あるだけだった。

 再生すると、暗い駐車場が映し出された。

 離れた場所から撮影されたのか、画面は粗く、小刻みに揺れている。

 一台の黒い車が、ライトをつけたまま止まっていた。

 その手前に、フードを被った男が二人いる。

 二人の間には、もう一人の男がいた。


 両腕を後ろに回され、左右から身体を支えられている。足元がおぼつかず、引きずられるように車へ連れていかれていた。


 その男が、突然顔を上げた。


「朝倉……じゃないか」


 神崎が呟いた。

 間違いなかった。

 朝倉だった。


 頬には黒い痣のようなものがあり、口元が切れている。それでも意識はあるらしく、身体をよじって男たちの手から逃れようとしていた。


 朝倉が何かを叫んだ。

 だが、動画に音声は入っていない。

 次の瞬間、一人の男が朝倉の頭を押さえ、そのまま後部座席へ押し込んだ。

 そこで映像は途切れた。


「生きてる……」


 森本が青ざめた顔で呟いた。

 神崎は動画を最初から再生した。


 一度。


 もう一度。


 三度目で画面を止めた。


「待て」


「何かありました?」


 黒い車のドアが開く直前だった。

 ライトを受けた車体の側面に、銀色の印が浮かび上がっている。

 神崎は画面を拡大した。

 解像度が落ち、輪郭がぼやける。

 それでも、その形には見覚えがあった。

 桂の葉をかたどった社章。


「……桂」


 森本が神崎を見る。


「桂ホールディングスの車ですか?」


「ああ」


 ファイルに記録された撮影日時は、昨夜の二十三時五十八分。

 男から電話がかかってくる一時間以上前に、撮影された映像だった。

 場所を示す情報は消されている。

 朝倉が消えた。

 桂の株が上がった。

 そして今度は、拘束された朝倉を映した動画に桂の社章。

 偶然にしては、揃いすぎていた。


「朝倉さんの失踪に、桂が関わってる」


 森本が画面を見つめたまま言った。

 神崎は否定しなかった。


「疑いようがないな」


 ベッドに置いた上着をつかんだ。


「東京へ戻るぞ」


「今からですか?」


「始発で出る。桂と朝倉のつながりを洗う」


 神崎はもう一度、停止した画面を見た。

 電話の男は、数字を見れば分かると言った。

 今度は、数字ではなく映像が示していた。

 窓の外では、夜明け前の空がわずかに白み始めている。

 神崎には、それが明るくなる兆しには見えなかった。

 むしろ、これまで見えなかったものが、ようやく輪郭を現し始めたように思えた。


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