朝倉の失踪(2)
東央科学大学の正門前には、前日よりも多くの報道陣が集まっていた。
地方局の中継車に加え、全国放送の腕章をつけた記者もいる。大学は朝倉と連絡が取れないことしか発表していないが、ニュースサイトにはすでに見出しが出ていた。
――発毛研究に携わる女性助教、失踪か。
事件なのか、自分の意思で姿を消したのかも分かっていない。それでも、世間が求める物語だけは先に出来上がり始めていた。
生命工学棟の入口では、相馬教授が二人を待っていた。
眼鏡の奥の目は赤く、昨日から同じ白衣を着ているように見えた。
「連絡は?」
神崎が尋ねると、相馬は力なく首を横に振った。
「ありません。電話もつながらない。警察と大学が、ご家族にも確認してるんですが」
「最後に会った時のことを、順番に聞かせもらっていいですか」
相馬は記憶を確かめるように、ゆっくりと話し始めた。
「昨夜は二人で実験データを整理していました。私が研究室を出たのは、二十一時半ごろです。朝倉は、あと一時間ほど作業してから帰ると言っていました」
「普段と違う様子は?」
「疲れてはいたんですが。報道陣への対応もありましたから。ただ、取り乱していたわけでも、どこかへ行くような話をしていたわけでもなかったです」
相馬はそこで口を閉じた。
何かを思い出したというより、言うべきか迷っているように見えた。
「実は、」
神崎が促すと、相馬は眼鏡を外して目元を押さえた。
「昨日の夕方、研究棟の入口で、朝倉が知らない男に呼び止められたそうです」
神崎は手帳を開いた。
「私は学長室に呼ばれていて、その場にはいませんでした。男は、生命科学分野への投資を検討していると話したそうです」
「会社名は?」
「名乗らなかったそうです。名刺も渡さなかった」
「朝倉さんとは、どんな話を?」
「この発毛作用に最初に気づいたのは誰なのか、今も実験の中心にいるのは誰なのかと聞かれたそうです。それから、研究が企業へ移ることになった場合、朝倉自身も大学を離れる意思があるか、と」
「研究より、朝倉さんに関心があった?」
「今になって考えれば、そう聞こえますね」
相馬の声が低くなった。
「ただ、そのときは企業からの引き抜きだと思いました。朝倉も、ずいぶん曖昧なスカウトだったと笑っていた」
「男の特徴は?」
「四十代くらいで、灰色のスーツを着ていたとしか。話したのも数分だったそうです」
「大学の受付は通っていますか」
「記録にはありません。朝倉が研究棟から出てくるのを、入口の近くで待っていたようです」
相馬は眼鏡をかけ直した。
「昨日のうちに、もっと詳しく聞いておくべきでした」
「その男が関係しているとは、まだ分かりません」
神崎は手帳を閉じた。
「ただ、朝倉さんが研究の中心人物かどうかを確認していた可能性はある。今の話は、推測を加えず警察へ伝えてください」
*
相馬研究室の前には、大学職員と二人の警察官が立っていた。
室内では、捜査員が机や棚を確認しながら写真を撮っている。神崎と森本は入室を断られ、廊下で待つことになった。
しばらくして、相馬と五十代ほどの刑事が出てきた。刑事は水野と名乗った。
「何かなくなっていますか」
神崎が尋ねると、相馬は首を横に振った。
「無くなったものはなさそうです。実験データも、菌株も、外付けのSSDも残っています。実験ノートもそのままです」
「我々も室内を探した形跡もありません」
水野が付け加えた。
「入退館記録と防犯カメラも確認しましたが、相馬先生が帰られたあと、研究室へ入った第三者は確認されていません」
「朝倉さんは?」
「二十二時すぎ、一人で研究棟を出ています。少なくとも、建物の中から無理に連れ出された様子はありません」
相馬の表情が強張った。
「では、朝倉が自分から消えたと言うんですか」
「そう断定しているわけではありません。ただ、現時点では事件を示す痕跡がない。本人の意思で大学を出た可能性も含めて調べています」
「電話にも出ず、家にも帰らずに?」
「携帯電話の位置情報については、照会を進めています」
「昨日、身元の分からない男が朝倉に接触しているんです」
「その件も聞いています。ただ、その男が失踪に関係している証拠はまだありません」
相馬の声が大きくなった。
「証拠が見つかるまで、朝倉が勝手に消えたことにするつもりですか」
「教授」
神崎が静かに呼んだが、相馬は止まらなかった。
「六年です」
その声が廊下に響いた。
「あいつが大学院生だった頃から、六年も一緒に研究してきた。無断で研究室を休んだことも、連絡せずに帰ったこともない。そんな人間が、何も言わずに消えるわけがないでしょう!」
森本が驚いて顔を上げた。
プリンターが紙を噛んだだけで声を荒らげた男だった。だが今の怒りは、機械に向けたものとはまるで違っていた。
「何も盗まれていないなら、朝倉だけが狙われた可能性だってある。研究室に誰も入っていないことが、誰にも連れ去られていない証拠になるんですか」
水野は声を荒げず答えた。
「その可能性も排除していません。我々は、朝倉さんが自分の意思で移動した可能性と、研究棟を出たあと第三者と接触した可能性、その両方を調べています」
「だったら、早く見つけてください。事件かどうかを決めるのは、そのあとでいい」
「もちろん、そのために、ここにいますので」
相馬はまだ何か言おうとしたが、神崎がそっと腕を押さえた。
「教授。朝倉さんが自分から消えるはずがないと思う理由を、全部話してください。普段の行動も、研究への考え方も、昨日の様子も」
「そんなものが、証拠になるんですか」
「少なくとも、朝倉さんを知らない人に、彼女がどんな人なのかを伝えることはできます」
相馬は荒い息を整えながら、水野を見た。
「分かりました。何でも話します。だから、朝倉を捜してください」
水野は頷き、手帳を開いた。
研究室の奥には、朝倉の机が見えた。
実験ノートが開いたまま置かれ、その横には飲みかけの紅茶が残っている。椅子の背には薄いカーディガンが掛かり、机の端には蓋の閉まっていないハンドクリームがあった。
「帰る準備をしていたようには見えませんね」
森本が小さな声で言った。
室内でカメラのシャッター音が鳴った。
侵入の痕跡も、盗まれた研究もなかった。
警察にとって、それは誘拐を示す材料がないということだった。
ただ、相馬にとっては、研究ではなく朝倉だけが狙われたようにしか思えなかった。




