笑えなくなった日(1)
翌朝、神崎の記事には、まるで正反対の二つの記事を読んだようなコメントが並んでいた。
「大学の研究を金で奪うな」
「十億円も出す企業の何が悪い」
「桂は研究泥棒だ」
「金も出さない外野が口を出すな」
「地方大学に新薬開発なんて無理だろ」
「大企業に渡したら、金持ちしか使えなくなる」
同じ契約書を扱った記事なのに、読者が見ているものは違っていた。
森本がパソコンの画面をスクロールしながら、顔をしかめた。
「この人たち、本当に同じ記事を読んだんですかね」
「読んでない奴も多いだろうな」
「じゃあ、何に怒ってるんです?」
「自分が嫌いな相手にだ」
神崎は桂を批判する投稿と、大学を批判する投稿を交互に読んだ。
契約条件が妥当かどうかを論じる声は、ほとんど残っていない。いつの間にか話は、大企業を信じるか、大学を信じるかという争いに変わっていた。
「桂を疑えば、企業活動を邪魔する反市場主義者。大学を疑えば、金で研究を奪う企業の味方ですか」
「分かりやすいだろ」
「乱暴すぎません?」
「乱暴な方が、自分の立場を決めやすい」
問題を理解するには知識がいる。だが、どちらかの側に立って相手を責めるだけなら、詳しい事情を知る必要はない。
神崎が記事で問いかけたのは、研究の行き先を、金を出す側だけが決めてよいのかということだった。
しかし世間が選び始めたのは、答えではない。
敵と味方だった。
そしてテレビは、その境界をさらに分かりやすく塗り分けていった。
*
編集部の大型モニターには、朝の情報番組が並んでいた。
ある局では、人気司会者が笑顔で問いかけている。
「皆さん、正直に聞きます。見た目って大事ですよね?」
別の局では、コメンテーターが真顔で断言した。
「これは差別ではありません。自分を磨く努力の話です」
さらに別の局では、女性タレントが腕を組んでいた。
「でも、薄毛の方って、清潔感がないように見えることもありませんか?」
スタジオから、笑ってよいのか迷うような声が漏れた。
神崎はリモコンを取り、モニターの音量を下げた。
「朝からひどいですね」
森本が紙コップのコーヒーを神崎の机へ置いた。
「丁寧に話していたら、放送時間が終わるからな」
「だから刺激の強い言葉だけ残すんですか」
「その方が数字を取れる」
「それ、報道なんですかね」
「昔から、半分は興行だ」
神崎はコーヒーに口をつけた。
「残り半分が、たまに仕事をする」
*
テレビが意見を整理している間にも、SNSではさらに先まで議論が進んでいた。
午前九時のトレンド欄には、一位の「#頭髪健康支援に賛成」を筆頭に、「#ハゲ解放同盟」「#清潔感は努力」「#遺伝に課税するな」という、正反対の言葉が並んでいる。
賛成する者は「営業職なら身だしなみを整えて当然だ」「努力しない人間を税金で支えるな」と書き込み、反対する者は「次は老化税を取るのか」「遺伝に負担を課すな」と応酬する。
制度への意見だったはずの言葉は、やがて薄毛の人間そのものへ向けられ始めた。
「ハゲを甘やかすな」
「清潔感がないのは本人の責任だ」
「嫌なら治せばいい」
森本はそこで読むのをやめ、スマートフォンを机に伏せた。
「見ていると、気分が悪くなりますね」
「お前でもか」
神崎が横目で見ると、森本は苦い顔をした。
「僕が社内で神崎さんの額をいじるのと、知らない人たちが集団で人格まで決めつけるのは別ですよ」
「本当にそうか?」
森本は反論しかけたが、言葉が出なかった。
「……人数が違います」
「人数が少なければ、言われた方は傷つかないのか」
「それは」
森本は伏せたスマートフォンへ目を落とした。
「すいません。冗談で済むと思っていました」
「まぁ、俺も、笑って流せば済むと思っていたからな」
神崎は責めるでもなく答えた。
「だから、ここまで普通になったんだろうな」
森本はしばらく黙っていた。
「冗談だった言葉が、大勢の意見になると怖いですね」
「ああ。笑い話だったものが、制度を正当化する理由に変わり始めている」
神崎は大型モニターへ視線を戻した。
「でも、怖いと思えるうちは、まだ止められる」




