10億円の選択肢(5)
東京へ戻る新幹線の中で、神崎のスマートフォンが震えた。
画面には、非通知の文字が浮かんでいる。
隣では森本が座席にもたれ、目を閉じていた。神崎は着信が切れる前に立ち上がり、車両のデッキへ移動してから通話ボタンを押した。
「神崎です」
「大学は、いずれ賢明な判断をするでしょう」
聞き覚えのある低い声だった。
「随分、耳が早いですね」
「十億円は、地方大学にとって無視できる金額ではありません」
「契約案まで知っているのか」
「金額は問題ではありません。桂以外に、研究を完成させられる相手がいない。それが重要なのです」
神崎は窓の外を見た。暗い景色の中を、町の明かりが次々と流れていく。
「相馬教授は断るつもりですよ」
「教授個人は、そうかもしれません」
「大学は違うと?」
「研究室は理想で動けますが、大学は経営で動きます。設備も人件費も、理念では支払えません」
「桂に研究を渡させたいんですか」
男はすぐには答えなかった。
「研究には金が必要で、桂には金がある。双方にとって、悪い話ではないでしょう」
「そのために、ほかの選択肢を潰したのか」
受話口の向こうから、小さな笑い声が聞こえた。
「人を無理に動かす必要はありません。選択肢を一つにしておけば、自分からそこへ歩いていく」
「それを支援と呼ぶわけですか」
「選ばれた側が納得するなら、呼び方は何でも構いません」
神崎はスマートフォンを握り直した。
「桂の人間に伝えておけ。まだ研究を手に入れたわけじゃない」
わずかな沈黙があった。
「ええ。だから、まだ価値がある」
通話は切れた。
神崎はスマートフォンを耳から離し、暗くなった画面を見つめた。
桂は、契約を断られても引き下がらなかった。相馬を説得できなければ大学を動かし、大学が迷えば、断りにくいだけの金額を差し出す。
男は桂の契約内容を知り、大学がどのような判断をするのかまで読んでいる。そして、研究が桂へ渡ることを当然のように話していた。
神崎は手帳を開き、一行書き加えた。
――非通知の男。桂ホールディングス周辺。
社員なのか、顧問なのか、それとも外部から裏の仕事を引き受けている人間なのか。そこまでは分からない。
だが、法案、大学への圧力、発毛研究の買収。そのすべてが桂の周囲で動いている。
神崎は書いた一行を、ペンで囲んだ。
追うべき相手は、やはり桂ホールディングスだった。
*
深夜、神崎と森本が編集部へ戻ると、堀田部長が翌朝付の紙面見本を放ってよこした。
「神崎、見てみろ」
一面の下部に、桂ホールディングスの大型広告が載っていた。
――すべての人に、自信ある明日を。
「露骨ですね」
「広告自体は前から決まっていたらしい。よりによって、この日にぶつかった」
堀田は疲れた顔で椅子にもたれた。
「記事、どうします」
「出す」
「決まってる。出すぞ」
「広告部が怒りますよ」
「怒るだろうな。営業も騒ぐ。桂から抗議が来れば、役員にも呼び出される」
堀田は紙面を見つめ、深いため息をついた。
「俺の出世も、ここまでかもな」
「まだ上を目指してたんですか」
「少しはな。失礼な奴だな」
神崎が笑うと、堀田もわずかに口元を緩めた。
「もう、お前と心中だ」
「勝手に道連れにしないでください」
堀田は桂の広告を指で叩いた。
「ただし、外すなよ。桂が怪しいというだけの記事なら、俺一人で沈むことになる」
「契約書と証言、それに桂の回答だけで書きます」
「それで十分だ。余計な正義感は入れるな」
「部長に言われたくありませんね」
「うるさい。始末書を書くことになったら、お前が下書きしろ」
堀田は新聞を神崎へ押し戻した。
神崎は席に着いてパソコンを開き、見出しを打ち込んだ。
――十億円で研究は守られるのか
地方大学に提示された新たな契約案
キーボードの脇には、桂ホールディングスの広告が載った紙面が置かれている。
神崎はそれを裏返し、原稿を書き始めた。




