10億円の選択肢(4)
午後、大学本部棟で、学長を交えた緊急協議が開かれた。
出席するのは副学長、財務担当理事、産学連携部門の責任者、それに大学の法務顧問だった。桂から届いた契約案を検討するため、相馬も呼び出された。
「終わるまで、ここにいてください」
会議室へ入る前、相馬は神崎たちにそう言い残した。
二人が通されたのは、廊下の奥にある来客用の待合スペースだった。古い長椅子と低いテーブルが置かれ、壁には歴代学長の写真が並んでいる。
窓の外では、正門前に集まった報道陣がまだ動き回っていた。
森本は何度も立ち上がって窓を見に行き、そのたびに長椅子へ戻ってきた。
「桂の契約を受けろって言われると思いますか」
「大学が見るのは契約だけじゃない。未発表の研究が記事になったこと、報道陣が押しかけていること、特許もまだ取れていないこと。その全部だ」
森本が隣に座った。
「神崎さんの記事も、問題にされますかね」
「されるだろうな」
「随分、平気そうですね」
「平気な顔をしてるだけだ」
神崎は会議室の扉を見た。
記事にしなければ、研究は桂との閉ざされた交渉の中に置かれたままだった。しかし記事にしたことで、相馬たちは別の圧力にさらされている。
書いたことが正しかったかどうかは、まだ結果が出ていなかった。
「大学は相馬先生を守ってくれますかね」
森本が尋ねた。
「守ろうとはするだろう」
「なら——」
「ただし、大学は研究者だけを守ればいいわけじゃない。学生も、職員も、大学そのものも残さなきゃならない」
「そこへ十億円ですか」
「だから話が難しくなる」
その金があれば、古い実験機器を更新できる。若い研究者を雇い、特許を取り、臨床開発へ進むこともできる。相馬の研究室だけでなく、経営の苦しい大学全体を立て直せるかもしれない。
契約を断ることが、必ずしも研究を守ることになるとは限らなかった。
一時間近くたったころ、会議室の扉が開いた。
最初に職員が二人出てきた。そのあとから現れた相馬は、眼鏡を外し、眉間を指で押さえていた。
神崎と森本が立ち上がる。
「どうなりました」
相馬は眼鏡をかけ直してから、二人の前まで歩いてきた。
「桂との交渉を、大学として正式に始めるそうです」
「契約を受けるんですか」
森本が聞くと、相馬は首を横に振った。
「今すぐ受けるとは言っていません。知的財産の帰属や公表の自由について、大学の法務を入れて条件を詰める。それまでは、私個人で返答するなと言われました」
「交渉を断る選択肢は?」
神崎の問いに、相馬は苦く笑った。
「それが、会議の最後まで出てこなかった」
相馬は長椅子へ腰を下ろした。
「学長は研究を守ると言いました。財務担当は、十億円があれば大学を守れると言った。どちらも嘘ではないんでしょう」
「先生は、どうしたいんですか」
「条件が変わらないかぎり、渡すつもりはありません」
相馬はそう答えたが、その声には研究室で見せた強さがなかった。
「ただ、もう私一人が断れば済む話ではなくなりました。菌株も、実験設備も、特許を出願する権利も、大学と無関係ではありませんから」
神崎は閉ざされた会議室の扉を見た。
桂は相馬を説得できなかった。
桂は相馬一人を説得できないと見ると、十億円という金額を大学側に見せた。
研究者個人の判断だったはずの契約を、大学全体の経営問題へ変えたのだ。
「回答期限は、明日の正午でしたね」
森本が確認した。
「ええ」
相馬は疲れた顔で頷いた。
「別の企業を探したり、契約内容を十分に検討したりするには短すぎます。でも、大学が十億円の存在を知り、私を会議へ呼び出すには十分な時間だった」
「そこまで計算して、期限を切ったんでしょうか」
「少なくとも、桂にとって都合の悪い期限ではありません」
相馬はそう言って、閉ざされた会議室の扉を見た。
地方私大にとって、十億円は単なる研究費ではない。
理念と現実の境界を、曖昧にする金額だった。
会議を終えた相馬とともに、神崎たちは生命工学棟へ戻った。
研究室では、朝倉が騒ぎを避けるように、黙々と培養槽を確認していた。
神崎は、培養槽の前で作業を続ける朝倉をしばらく見つめていた。
「教授。一つ、謝らせてください」
相馬が神崎を見る。
「最初に話を聞いたとき、研究を特定できる情報は伏せて、控えめに扱うと言いました。それが、この騒ぎです」
窓の外から、報道陣の声がかすかに聞こえてきた。
「ここまで大きくなるとは読めませんでした。研究室を余計に追い詰めてしまった。すみません」
相馬はすぐには答えなかった。
「困っていないと言えば、嘘になります。問い合わせへの対応で実験は止まり、大学も桂との交渉に動き出した。この研究がこれからどうなるのかも分かりません」
相馬は朝倉へ目を向けた。
「ただ、記事が出なければ、私たちに手を差し伸べようとする相手は桂だけでした。今は少なくとも、ほかの企業や大学にも、この研究の存在を知ってもらえた」
「問い合わせが来ただけで。桂に代わって研究を支援してくれる相手が現れたわけではないんですが」
「分かっています。それでも、桂の条件を受け入れるしかなかった昨日よりはましです」
神崎は机の上に置かれた契約書へ目を向けた。
「こんな状況で、さらに聞くのは心苦しいですが、この契約案の内容も記事にして構いませんか」
「構いません。金額だけでなく、桂が研究と引き換えに何を求めているのかまで書いてください」
相馬は神崎へ向き直った。
「ここまで世に出したのなら、この研究が誰の手に渡り、何に使われるのか。最後まで見届けてください」
「もちろん、そのつもりです」
神崎は立ち上がった。
「何か動いたら、連絡をください」
「ええ。今度はこちらから連絡します」
神崎は短く頷き、森本とともに研究室を出た。




