10億円の選択肢(3)
そのとき、研究室の扉がノックされた。
入ってきたのは、黒いスーツを着た女だった。細い眼鏡に、無駄のない姿勢。グランドパレス東京の会見で見た、桂ホールディングス広報室の水瀬だった。
「失礼いたします」
神崎と森本がいることを確認しても、表情は変わらなかった。
「相馬教授。桂木会長が、正門前の車でお待ちです」
「約束した覚えはありませんが」
「承知しております。五分だけ、お時間をいただければと」
相馬は机に置かれた契約書へ目をやった。
「五分で、六年続けてきた研究の行き先を決めろと?」
「今すぐご決断を求めるためではありません」
水瀬は穏やかな口調を崩さなかった。
「では、何のために来たんですか」
「先生方が研究を続けるために、弊社が何を引き受けられるか。それを会長から直接お伝えしたいと考えています」
「たとえば?」
水瀬は窓の外へ目を向けた。正門前では、大学職員が押し寄せた報道陣への対応に追われている。
「今回の記事を受けて、大学には問い合わせが殺到しています。未発表研究の管理方法や、学外へ情報を提供した経緯について、学内で確認を求める声も出ているそうです」
相馬の表情が固くなった。
「ずいぶん詳しいですね」
「大学側から、以前の共同研究交渉について弊社にも確認がありました」
水瀬は机の上の契約書へ視線を移した。
「弊社と正式に共同開発を始めれば、報道対応や知的財産の管理も引き受けられます。先生方は研究に集中でき、大学側もこの混乱を収められるはずです」
「反対に、私が断れば?」
「大学がどのような判断をするかは、私どもには分かりません」
「研究を止められるかもしれない、と言いに来たんですか」
「いいえ」
水瀬は静かに首を横に振った。
「先生お一人で、この状況に対応し続ける必要はないとお伝えしに来ました」
「その代わり、研究を桂へ渡せと」
「支援を受ける以上、一定の権利関係を整理する必要はあります」
「都合のいい支援だ」
相馬の声が低くなった。
水瀬は相馬の言葉を受け流し、机の契約書へ目を向けた。
「今回の案では、研究費だけでなく、研究員全員の雇用も保証しています。大学との調整や報道への対応も、弊社が引き受けます。先生方は研究に集中できます」
「代わりに、研究をいつ発表するかは桂が決める」
「社会へ届けるには、適切な手順が必要です」
「世に出さないという判断も、適切な手順に含まれるんですか」
水瀬は答えなかった。
代わりに、神崎へ視線を向けた。
「神崎様にも、ご理解いただきたいことがあります」
「俺に?」
「あなたの記事によって、この研究は広く知られました。新たな支援者が現れる可能性が生まれた一方で、大学には問い合わせが殺到し、研究室は実験を続けることさえ難しくなり始めています」
「記事を書いた俺にも責任があると言いたいのか」
「記事にするなとは申しません。ただ、報道によって研究が守られるとは限らない、ということです」
「だから桂に任せろと?」
「弊社には、研究を混乱から守り、開発まで進める資金と体制があります」
水瀬の言葉は相馬に向けられていたが、神崎にも届いていた。
桂と契約すれば、研究室を守れる。断れば、この混乱が続き、研究そのものが止まるかもしれない。
そして記事を書き続ければ、その責任の一部は神崎にもある。
水瀬は相馬へ契約を迫ると同時に、神崎が次の記事を書くことまでためらわせようとしていた。
相馬が椅子から立ち上がった。
「会長に伝えてください。条件が変わったようには見えない、と」
「研究費と雇用保証は、前回より大幅に拡充されています」
「金額の話ではありません。研究を世に出すかどうかまで、そちらが決められる契約であることは変わっていない」
水瀬はしばらく相馬を見つめた。
「本日中であれば、さらに調整する余地があります」
「本日中?」
「大学側との協議が始まれば、弊社だけではお約束できないことも増えますので」
柔らかな言い方だった。
だが、期限を切られたことは誰にでも分かった。
「お引き取りください」
相馬が扉を指した。
水瀬はそれ以上迫らず、深く一礼した。
「会長は、しばらく近くでお待ちしております。お考えが変わりましたら、ご連絡ください」
扉へ向かいかけた水瀬が、足を止めた。
「なお、契約案へのご回答は、明日の正午までにお願いいたします。それ以降は、同じ条件をお約束できません」
扉が閉まったあとも、誰もすぐには口を開かなかった。
鳴り続ける電話と、培養装置の低い駆動音だけが研究室に残った。
契約書に書かれているのは金だった。
だが桂が今回持ってきたものは、それだけではなかった。
断れば何を失うのか。その現実まで、契約書と一緒に机の上へ置いていったのだ。




