10億円の選択肢(2)
翌朝、東央科学大学の正門前には報道陣が群れていた。
地方局の中継車。週刊誌。ネットメディア。美容系インフルエンサー。見物人まで混じっている。
大学広報の職員が顔を青くして叫んでいた。
「研究内容については確認中です」
「個別取材はご遠慮ください」
「敷地内撮影は禁止です」
神崎と森本が到着した時には、もう祭りだった。
「記事が出て、まだ一日もたっていませんよ」
「発毛研究だからな。食いつく連中は多い」
「それにしても、集まりすぎでしょう」
神崎も同じことを感じていたが、答えは口にしなかった。
代わりに報道陣の向こうへ目を向けると、門の脇に一台の黒塗りの車が停まっていた。
都内ナンバーの大型セダンだった。磨き上げられた車体には、騒ぎ立つ報道陣の姿が歪んで映っている。
エンジンは切られているが、運転席には男が一人、背筋を伸ばして座っていた。
後部座席の窓には濃いスモークフィルムが貼られ、誰かが乗っているのかさえ分からない。
それでも、車の周囲だけ空気が違っていた。
学生たちは気にしながらも足早に通り過ぎ、大学職員は遠くから何度も車を確認している。警備員も近くまで行くが、移動を求めようとはしなかった。
普通の来訪者なら、車を降りて受付へ向かう。
だが、この車からは誰も降りてこない。正門前に停まったまま、大学側が動くのを待っている。
神崎は目を細めた。
あの車は、迎えを待っているのではない。
大学側が出向いてくるのを待っていた。
*
生命工学棟の入口にも報道陣が押し寄せていた。
警備員と大学職員が扉の前に立ち、建物へ入ろうとする記者たちを押し戻している。
相馬研究室の扉だけが固く閉じられている。
そこへ大学事務局の男が小走りで現れた。
四十代半ば、額に汗を浮かべ、首から下げた職員証が胸元で揺れている。朝から報道陣に追われ続けている顔だった。
「東都新聞の神崎さんですか」
「はい、そうですが」
男は周囲を気にするように一度振り返り、声を落とした。
「相馬先生が、東都新聞なら通してほしいと」
森本と神崎は顔を見合わせた。
「ただ、次の呼び出しまで五分ほどしかありません。学長室や広報から、ひっきりなしに呼ばれているんです」
男は申し訳なさそうに眉を下げた。
「それでも、先生の話を聞いていただけますか。かなり参っています」
神崎は頷いた。
「分かりました」
「ありがとうございます。こちらへ」
男は報道陣の視線を避けるように二人を職員用の通路へ導いた。
「先生は昨夜から、ほとんど休めていません。話を聞いてあげてください」
その声には、混乱への疲れだけでなく、相馬を気遣う響きがあった。
*
研究室に入ると、相馬隆之は昨日より十歳ほど老けて見えた。
机の上には、飲みかけの缶コーヒーと、印刷されたメールの束が積まれている。
固定電話が鳴った。
相馬は画面で相手を確認しただけで、受話器を取らなかった。呼び出し音が止まった直後、パソコンに新着メールの通知が現れる。
「朝から、ずっとこんな調子ですか」
神崎が尋ねると、相馬は疲れた顔で頷いた。
「研究成果に関心があるのか、騒ぎに乗りたいだけなのか。読んでいるうちに分からなくなりました」
「どんな相手から来てるんですか」
「投資会社、製薬会社、共同研究を持ちかける大学、それから講演依頼です。発毛をうたう健康食品に、私の名前を使わせてほしいという会社までありました」
「一晩で、ですか」
「皆さん、研究そのものより商機を見つけるのが早い」
相馬は机の端に置かれた、一通の厚い封筒へ目を向けた。
「その中で、わざわざ人を使って届けてきたのが、これです」
差出人は、桂ホールディングスだった。
中には、分厚い契約書が入っていた。
神崎が中身を確かめると、以前提示されたものと同じ共同研究契約書が入っていた。
表紙には「修正案」と記されているが、相馬が赤い付箋を貼った箇所を追うかぎり、変わったのは金額と待遇だけだった。
研究費は、最大十億円。
相馬を代表とする新会社を設立し、量産設備を桂が提供する。研究チームの雇用は維持され、相馬の報酬も現在の三倍まで保証される。
そこだけ読めば、地方大学の研究室には望みようもない好条件だった。
だが、契約書の後半に進むと、前回と同じ文言が残っていた。
研究から生じる知的財産権は、新会社へ移管する。新会社の議決権の過半数は桂ホールディングスが保有し、論文発表、特許出願、第三者との共同研究には、事前の承認を必要とする。
開発を中止した場合に、権利を大学へ戻す規定はない。
森本が契約書から顔を上げた。
「これ、金額が増えただけじゃないですか」
「正確には、金額を増やして、同じ条件を呑ませに来たんです」
相馬は乾いた声で答えた。
「研究者の名前も、研究を公表する時期も、薬として世に出すかどうかも、最後に決めるのは桂です」
「返事はどうするんですか」
相馬はすぐには答えなかった。
「断るつもりです。ただ、昨日より断りにくくなった」
窓の外から報道陣の声が聞こえた。大学職員が制止する声も混じっている。
「受ければ、研究費も設備も手に入る。朝倉たちの雇用も守れる。大学も、この騒ぎから解放されるでしょう」
「その代わり、研究を渡すことになる」
「そういうことです」
相馬は契約書を閉じた。
「選べるように見せて、断った時に失うものだけを増やす。前より、よくできた契約になっています」




