10億円の選択肢(1)
神崎修司 東都新聞記者(主人公)
森本亮太 東都新聞記者(後輩)
堀田部長 東都新聞部長 (上司)
桂木道隆 桂ホールディングス会長
鬼塚剛 ハゲ解放同盟代表
金は、いつも露骨な顔をして近づいてくるわけではない。
政治家に渡る封筒のように、誰の目にも分かる形を取ることもあれば、官僚に用意される再就職先や、メディアへ差し込まれる広告費、大学に交付される研究助成金のように、正当な制度の顔をして現れることもある。
それ自体が、ただちに悪いわけではない。企業にも広告は必要で、大学も研究費がなければ何も生み出せない。
問題は、金を受け取ったあとだった。
言うつもりだった言葉を少し弱める。公表するはずだった事実を、もう少し調べてからと先送りする。断ることもできたはずなのに、いつの間にか、断らない理由ばかりを探している。
金には、人の言葉を少しだけ変えさせる力がある。
東央科学大学で神崎が見た契約書も、違法なものではなかった。桂ホールディングスは資金と設備を提供し、その対価として研究成果に関する権利を求めただけだ。
契約書には、脅迫も命令も書かれていない。
ただ、受け入れれば研究を続けられ、断れば先へ進めない。その二つが、同じテーブルの上に並べられていた。
*
翌日の正午前、桂ホールディングスから質問状への回答が届いた。
〈大学側との協議は、双方の合意を前提とした通常の投資交渉です。当社が研究活動の妨害、または研究成果の公表を不当に制限した事実はありません〉
独占販売権と知的財産の移管を求めた理由については、こう記されていた。
〈多額の研究開発費を負担し、製品化に伴う責任を負う企業として、適切な権利の確保を求めたものです〉
書かれていることは間違っていない。
だからこそ、神崎は回答をほぼそのまま記事へ載せた。相馬教授の主張だけでなく、桂側の理屈も読者に示したうえで、誰が研究の行き先を決めるべきなのかを問うことにした。
正午を十五分過ぎたところで、記事は東都新聞のウェブ版に掲載された。
――研究は誰のものか
公表前の発毛研究に、大手企業が求めた「すべての権利」
記事では、菌株や成分、培養条件など、研究を特定できる情報は伏せた。人への有効性と安全性が確認されておらず、薬として使用できる段階ではないことも明記している。
そのうえで神崎は、桂が提示した契約条件と、相馬たちが修正を求めた経緯を書いた。
研究を実用化するには企業の資金が必要になる。しかし、その対価として企業はどこまで研究の支配権を持つべきなのか。開発を中断したまま権利だけを保持することまで、資金を出した側の自由なのか。
記事が提示したのは、奇跡の新薬ではなく、研究に値段がつく瞬間だった。
*
掲載から一時間もたたないうちに、記事はSNSで拡散され始めた。
発毛研究そのものに期待する声がある一方で、臨床試験前の成果を騒ぎ立てるべきではないという批判もあった。桂の契約条件を当然の投資判断だと擁護する者もいれば、大学から研究を取り上げる行為だと非難する者もいる。
「本当なら救われる」
「企業が金を出さなければ薬にはならない」
「大学の研究を買いたたくな」
「まだマウスの段階だろ」
「ハゲ界の半導体が来た」
期待と警戒、応援と嘲笑が、同じ画面の中で入り交じっていた。
森本は増え続ける投稿を眺めながら言った。
「思っていたより、みんな真剣ですね」
「髪の話だからじゃない」
神崎は記事の閲覧数を確認しながら答えた。
「自分にも関係するかもしれない話だからだ」
「今は薄毛じゃない人も?」
「髪は減る。病気にはなる。年も取る。自分だけは選別される側に回らないと、いつまでも思ってはいられない」
森本は画面へ視線を戻した。
「この記事で、相馬教授の選択肢は増えますかね」
「増えるかもしれない」
神崎は答えた。
「だが、選択肢を与えるふりをして、研究そのものを狙う連中も集まってくる」
記事の共有数は、今も勢いを増していた。
群馬の古い研究室で、マウスの背に生えた黒い毛は、もう相馬と朝倉だけの秘密ではなかった。
希望として見る者も、商品として見る者も、その存在に気づき始めていた。




