発毛研究を狙う大企業(6)
昼過ぎ、取材を終えた神崎たちが研究室を出ようとすると、相馬が呼び止めた。
「神崎さん。一つだけ、お願いがあるんですが」
「何でしょう」
「この研究を、“奇跡の発毛薬”にはしないでほしいんです」
神崎は足を止めた。
「わかりました。ただ、記事には、臨床試験前であることも、人への効果や安全性が確認されていないことも書こうと思ってますが」
相馬は机の上の実験資料に手を置いた。
「それはありがたいんですが、研究者は、期待だけでも潰されてしまうので。効くと報じられれば、なぜすぐに使えないのかと責められる。実験に失敗すれば、最初から嘘だったと言われる」
「期待を集めること自体が、研究を追い詰めることもあるということですか」
「ええ。私たちが守りたいのは、奇跡の新薬という物語ではありません。効くのか、効かないのか。それを最後まで確かめられる環境です」
神崎は研究室を見回した。
古い機器、限られた予算、棚を埋める菌株、何度も繰り返された実験記録。そして、偶然見つけた一本の毛を追って大学に残った若い研究者。
「研究の効果を断定する記事にはしません。研究を前へ進めるはずの資金提供が、研究の行き先を企業に渡す契約へ変わっていたことを書くつもりです」
相馬はしばらく神崎を見つめた。
「このことは、記事にする価値があると?」
「話を聞いて、そう判断しました」
「桂は否定すると思いますよ」
「否定する権利はあります。こちらは契約書と交渉の経緯を確認し、桂側にも取材を申し込みます。そのうえで、確認できた事実を書きます」
相馬は小さく息を吐いた。
「あまり大げさにしないでください。小さな研究室ですから」
「大丈夫です。控えめに書きますよ」
「記者の控えめは、研究者の言う“可能性”より信用できないんですが」
奥で朝倉が小さく笑った。
神崎も口元を緩めたが、手にした資料の重さは変わらなかった。
*
高崎から東京へ戻る新幹線の中で、森本はしばらく黙っていた。
窓の外では、山並みが少しずつ遠ざかっていく。
「どうした」
神崎が尋ねると、森本は前の座席に置いた資料へ目を落とした。
「悔しいなと思って」
「何がだ」
「結果を出しても、金がなければ次へ進めない。かといって金を受ければ、研究の行き先まで持っていかれる」
「研究に限った話じゃない」
「でも、あの人たちは何年もかけて、ようやく一本の毛を生やしたんですよ。それを契約書一枚で全部持っていかれるなんて」
神崎は車窓へ目を向けた。
「まだ持っていかれたわけじゃない」
「断れば、研究を続けられません」
「今のままならな」
森本が顔を上げた。
「記事にすれば、変わると思いますか」
「記事にすれば、別の企業が名乗り出るかもしれない」
「逆に、研究を利用しようとする連中まで集まってくるかもしれない」
神崎は鞄の中の資料を確かめた。
「だから、俺たちが書き方を間違えれば、研究を救うどころか、追い詰めることになる」
「奇跡の新薬として煽らないってことですか」
「ああ。書くべきなのは、毛が生えたという話だけじゃない。研究の行き先を、金を出す側だけが決めていいのかということだ」
森本は小さく頷いた。
「記事で、選択肢を増やすんですね」
「そうだな、ただ、増えるかどうかは、出してみなければ分からんが」
神崎は座席に深くもたれた。
「俺たちにできるのは、今の相馬教授には選択肢が一つしかないと、世間に知らせるところまでだろうな」
*
夜、編集部へ戻ると、神崎の机に白い封筒が置かれていた。
「神崎さん宛てです」
デスクにいた記者が、封筒を指した。
「桂ホールディングスの広報担当が受付に預けていったそうです。受付から政治部へ回ってきました」
封筒の表には、東都新聞政治部、神崎修司様と印字されている。裏面には桂ホールディングスの社名と、広報担当者の名刺が添えられていた。
匿名の怪文書ではない。
正式な企業文書だった。
神崎は封を切り、中に入っていた一枚の紙を取り出した。
――東央科学大学における研究への取材について。
神崎は立ったまま読み始めた。
〈同大学で進められている研究は、現時点で臨床段階になく、人への有効性および安全性は確認されておりません。過度な期待を招く報道は、社会的混乱を生じさせるだけでなく、研究活動そのものを損なう可能性があります。慎重な報道をお願いいたします〉
文末には、小さく部署名が記されていた。
桂メディカルアドバイザリー室。
神崎は文書を読み返した。
書かれている内容だけなら、相馬教授の懸念とほとんど変わらない。
違うのは、神崎がまだ桂へ取材を申し込んでいないことだった。
「俺が東央科学大学へ行ったことを、どうして知ってる」
森本が自分の机から顔を上げた。
「大学から連絡が入ったんですかね」
「それなら、こんなに早く文書は作れない」
神崎は警告文を机に置いた。
桂は研究の動きを見ている。
そして、自分たちが取材に入ったことも、すでにつかんでいる。
神崎は桂から届いた文書を森本へ渡した。
「森本、桂の広報へ質問状を送ってくれ。投資契約の目的と、研究成果を公表する権利まで桂側が求めた理由を聞く」
文書を受け取った森本が尋ねた。
「回答が来るまで、記事は止めますか」
「掲載は待つ。だが原稿は先に進める」
神崎は腕時計を確認した。
「回答期限は明日の正午だ。返事が来れば内容を反映する。来なければ、期限までに回答はなかったと書く」
「分かりました。質問状はこちらでまとめます」
「送る前に俺に見せろ」
森本が自分の席へ戻ると、神崎はパソコンを開き、新しい見出しを打ち込んだ。
――研究は誰のものか
公表前の発毛研究に、大手企業が求めた「すべての権利」
窓の外では、街の灯りがいつもと変わらず瞬いていた。
その光のどこからも、群馬の古い研究室は見えない。
だが、あの場所で生まれた一本の毛を、すでにいくつもの目が追い始めていた。




