発毛研究を狙う大企業(5)
「交渉が終わった直後、成分の精製を依頼する予定だった会社から、協力できないと連絡がありました」
「先方は、どのような理由を?」
「別の大型案件を受けることになり、こちらへ回す設備も人員もないと」
「その大型案件に、桂が関係している可能性はありますか」
「分かりません。ただ、その会社は以前から桂とも取引があるみたいなんで」
相馬は別の書類を取り出した。
「共同で毒性試験を進める予定だった企業も、ほぼ同じ時期に撤退しました。こちらは“事業化の見通しが立たない”という理由です」
「桂が何らかの働きかけをしたと考えられる証拠は残っていますか」
「桂が直接何かを命じた記録もない。二社がそれぞれの経営判断で撤退しただけかもしれません」
「ただ、桂との契約を断った直後に重なった」
「ええ。それまで進んでいた話が、急に止まり始めました」
森本が資料を確認しながら尋ねた。
「研究成果を論文や学会で公表して、ほかの企業から協力を募ることはできないんですか」
「それは、まだできません」
相馬は首を振った。
「特許を出願する前に詳しいデータを公表すれば、研究内容を世界中に知らせることになる。成分の構造や培養条件を少し変えた周辺特許を、他の研究機関に先回りされる可能性もあるんでね」
「先に特許を出願することは難しいのでしょうか」
「出願書類を作るにも金がかかります。国内だけでなく海外でも権利を守るなら、さらに必要です。それに、今のデータだけでは大学の知財部も簡単には動いてくれません」
「追加実験には協力企業が必要なのに、その企業が相次いで離れてしまった。だから特許出願にも進めないということですね」
「そういうことです」
神崎は二社から届いた文書を見比べた。
桂が研究を潰したとは、まだ言えない。
ただ、桂の提案を断ったあと、研究を次へ進めるための道が、一つずつ狭くなっている。
「だから、“潰された”ではなく“奪われかけた”なんですね」
森本が言った。
「はい、桂の条件を受け入れれば、研究はすぐに進む。断れば、ここから先へ進む手段がなくなる」
相馬は契約書の角をそろえ、ゆっくりと封筒へ戻した。
「選べるように見せて、答えは一つしか用意しない。上品な契約というのは、そういうものです」
プリンターが紙を噛んだだけで声を荒らげていた男が、桂の話になると一度も怒鳴らなかった。
神崎には、その静かな口調のほうが、よほど怒っているように聞こえた。
*
話が一段落したところで、研究室の奥から若い女性が姿を現した。
二十代後半。後ろで無造作に束ねた髪には、何度も結び直した跡が残っている。白衣の袖口には青いインクがつき、目の下には薄い隈が浮かんでいた。
「先生、培養槽の温度、戻りました。菌株への影響もなさそうです」
「ああ、助かった」
相馬は安堵したように息をつき、神崎たちへ女性を紹介した。
「朝倉美咲。ここの助教です。例のマウスに最初に気づいた、当時の大学院生でもあります」
神崎は思わず女性を見た。
「最初に発毛作用を発見した方ですか」
「発見なんて、そんな立派なものではないですよ」
朝倉は困ったように笑った。
「実験が終わったマウスを見て、この一匹だけ毛が戻るのが早いと先生に報告しただけです」
「その一言がなければ、見過ごしていたかもしれない」
相馬が言った。
「偶然は誰にでも見える。だが、それを偶然のまま通り過ぎない人間は少ない」
「先生は、いつもあとから話を大きくするんですよ」
朝倉は軽く受け流してから、神崎たちへ頭を下げた。
「朝倉です。よろしくお願いします」
「東都新聞の神崎です。こちらは森本です」
神崎が差し出した名刺を、朝倉は両手で受け取り、机の端へ丁寧に置いた。
「桂から共同開発の話が来たときは、どう思いましたか」
「もちろん最初は、うれしかったです」
朝倉は少し照れたように笑った。
「これで研究を先へ進められると思いました。大学の資金だけでは、できることに限界がありますから」
「契約条件を見て、考えが変わった?」
「はい。読んでいるうちに、少し怖くなりました」
朝倉は頬にかかった髪を耳へかけ、ガラスの向こうにある培養槽を見た。
「研究を進めるためではなく、研究そのものを渡す契約に見えたんです。何を調べるのかも、いつ発表するのかも、私たちでは決められなくなる」
「それでも、桂の資金がなければ臨床試験へ進めないかもしれない」
「分かっています。きれいごとだけでは研究を続けられません」
朝倉は素直に認めた。
「でも、まだ何も分かっていないのに、誰かに預けてしまうのは嫌なんです」
「なぜ、そこまでこの研究にこだわるんですか」
「こだわるというか、年月かけてきたというのもあるし」
「発毛に興味があった?」
「いいえ」
朝倉は小さく笑って首を振った。
「どうして、あの菌を使ったマウスだけ毛が早く生えたのか。それが分からないままなのが、どうしても落ち着かなかったんです」
培養槽の数値が変わると、朝倉はすぐに記録用紙へ書き込んだ。
「この研究が薬になって、誰かの役に立つなら、もちろんうれしいです。でも、その前に何が起きているのかを、きちんと確かめたい」
「それが、大学に残った理由ですか」
「研究者が研究を続ける理由なんて、案外そんなものだと思います」
朝倉は記録用紙へ視線を戻した。
「役に立つから調べるんじゃないんです。知りたいから調べる。その先で、誰かの役に立てたら、うれしいかなと」
神崎は、その言葉を手帳に書き留めた。
政治も企業も、すでにこの研究へ利用価値と値段をつけている。
だが朝倉が見つめているのは、まだ答えの出ていない問いだけだった。




