発毛研究を狙う大企業(1)
世の中が騒いでいる時ほど、本当に重要なものは、誰にも気づかれない場所で動いている。
神崎修司が記者になって最初に覚えたことだった。
国会で怒号が飛び、テレビでは専門家が賛否を争い、SNSでは会ったこともない者同士が正義をぶつけ合う。その間にも、表に出ない会議で予算が決まり、名前も知られていない人間の判断が、社会の行き先を少しずつ変えていく。
今回も同じだった。
政府は薄毛を数値で管理しようとし、企業は治療薬やウィッグを売ろうとしていた。ハゲ解放同盟は、そのままでいる自由を求めて声を上げた。
国中が、「治すのか」「治さないのか」という二つの答えに分かれ始めていた。
だが、そのどちらにも属さない何かが、すでに動いていた。
都心から離れた大学の研究棟。夜になれば廊下の照明も半分まで落とされる古い建物の一室で、誰にも注目されていない実験が続けられていた。
窓の向こうでは、夜明け前の空がわずかに白み始めている。
研究員が顕微鏡をのぞき込み、息を止めた。
培養皿の中で、活動を止めていた毛包組織から、細い毛が伸びていた。
昨日まではなかった、黒い一本だった。
まだ薬ではない。人に使える保証もない。
それでも、その一本は、法案も、企業も、日本を二つに割った議論さえも、根元から揺さぶる可能性を秘めていた。
その時、神崎が知っていたのは、「桂に潰されかけた研究がある」という短い情報だけだった。
それがどこで行われ、何を生み出そうとしているのか。
そして、なぜ桂が、公表前の研究に目をつけたのか。
神崎はまだ、何も知らなかった。
*
深夜一時。
日付が変わっても、政治部の一角だけは仕事をやめていなかった。
すでに終電を諦めた者たちが、コンビニの弁当や冷めたコーヒーを机に並べている。神崎もその一人だった。
集会の記事を読み返していると、森本が自動販売機の紙コップを二つ持ってきた。一つを神崎の机に置き、近くの椅子を引き寄せる。
「例の件、相手が分かりました」
「鬼塚の過去か」
「そっちじゃありません。桂に潰されかけた研究のほうです」
神崎は原稿から顔を上げた。森本の表情から、単なる噂を拾ってきただけではないことが分かった。
「どこの誰だ」
「東央科学大学生命工学部、微生物資源研究室。相馬隆之教授です」
森本はタブレットを差し出した。
画面に表示されていたのは、地方の私立大学のホームページだった。更新の止まった研究紹介と、色褪せた研究棟の写真。話題になっている発毛研究とは、どうにも結びつかない場所だった。
「微生物の研究室が、なぜ髪を扱っている」
「最初から発毛を研究していたわけではありません。山岳地帯の苔から微生物を採取して、培養したものをライブラリーとして保存する研究を続けていたそうです」
森本が画面を切り替えると、相馬教授の経歴と論文が表示された。題名には、苔類、共生菌、培養、保存といった言葉が並んでいる。発毛や毛包という文字は一つもなかった。
「その中の一つが、発毛につながった?」
「ある微生物が作り出す成分に、予想外の作用が見つかったそうです。ただ、研究結果はまだ公表されていません」
「論文も出ていないのか」
「学会で発表する前に、桂から共同研究を持ちかけられています」
神崎はタブレットの画面を見つめた。
「公表前なら、桂はどこから知った」
「そこも含めて、電話では話せないそうです」
「教授本人とは話したんだな」
「さっき連絡が取れました。桂との交渉記録も残していると言っています」
「会えるのか」
「明日の午後なら時間を取るそうです」
公表されていない研究を、桂はなぜ知っていたのか。共同研究の打診が、なぜ「潰されかけた」という訴えに変わったのか。
確かめるべきことは多かった。
「朝一番で出るぞ。切符を二人分、取ってくれ」
「もう取りましたよ」
神崎は森本を見た。
「俺が行かないとは思わなかったのか」
「思うわけないでしょう。神崎さん、こういう話は放っておけないんだから」
森本は自分の紙コップを持ち上げた。
「だからコーヒーも二つです」
神崎も紙コップを手に取った。ひと口飲むと、まだ十分に熱かった。




