ハゲ解放同盟(2)
神崎は人混みの中を歩きながら、参加者の声を拾っていた。
なぜここへ来たのか。法案のどこに反対しているのか。何人かに話を聞いたが、誰に尋ねても、団体を立ち上げた人物については「鬼塚さんに聞いてくれ」と答えるだけだった。
その鬼塚が、どこにいるのか分からない。
「神崎さん!」
人混みの向こうで、森本が大きく手を振っていた。神崎と手分けして主催者を捜していたのだ。
「見つけました。あそこです」
森本が指した先、駅前広場の噴水脇に置かれた脚立の上に、一人の男が立っていた。
五十歳前後だろうか。背が高く、肩幅もある。黒いジャケットの下には白いシャツを着ているが、ネクタイは締めていない。年齢のわりに引き締まった身体つきだった。
額は大きく後退していた。残った髪を丁寧に横へ流し、頭頂部へ重ねている。いわゆるバーコードと呼ばれる髪型だった。
朝、鏡の前で時間をかけて整えたのだろう。風が吹くたびに細い毛束が揺れ、そのたびに男は無意識なのか、髪へ手を伸ばしかけて止めていた。
隠していることは、誰の目にも明らかだった。それでもまだ、隠すことをやめられない。
神崎には、その矛盾が痛いほど分かった。
だが、男の目に弱さはなかった。集まった人々を見渡し、続いて報道陣の位置を確かめる。その視線には、これから自分の言葉をどこへ届けるべきか、冷静に見定める鋭さがあった。
「元弁護士です」
隣まで戻ってきた森本が、声を落とした。
「名前は鬼塚剛。企業法務の世界では、かなり知られた人だったようです。ただ、五年前に弁護士を辞めてから、表舞台には出ていません」
「辞めた理由は?」
「まだ分かりません」
鬼塚剛。
神崎が手帳にその名を書き留めると、脚立の上の男がマイクを握った。その手が、わずかに震えている。
緊張しているだけには見えなかった。
長い間のみ込んできた怒りが、ようやく言葉になる直前の震えだった。
「皆さん、本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
声は驚くほどよく通った。騒がしかった駅前のざわめきが、次第に静まっていく。
「先に申し上げます」
鬼塚は自分の頭を軽く叩いた。
「私は禿げています」
笑いが起きたが、鬼塚は動じなかった。
「見てのとおり、中途半端に抵抗もしています」
さらに笑いが広がる。自分から先に口にすることで、他人に笑われる前に、その言葉を自分のものにしていた。
「そして、おそらく明日も禿げているでしょう」
今度は拍手が起きた。鬼塚はそこで初めて笑った。ほんの一瞬、少年のような顔だった。
「問題は、私の髪が明日も少ないことではありません」
声から笑いが消えた。
「問題は、それを国が数値にしようとしていることです。誰が薄毛で、誰が改善を必要とし、誰が負担を課されるのか。その線を、本人の知らない場所で決めようとしている」
広場が静まり返った。
「頭髪健康指数などというものに、医学的な根拠はあるのか。指定される治療や製品は、誰が選ぶのか。そこへ使われる公金は、最終的にどの企業へ流れるのか」
鬼塚は報道陣へ視線を向けた。
「政府は、薄毛に悩む人を支援すると言いました。ならば、なぜ支援を受けない者に追加の負担を求めるのですか。選ばない自由を罰する制度を、支援と呼ぶことはできません」
群衆の中から、「そうだ」と声が上がった。
「我々が求めるのは、特別扱いではありません。頭髪健康指数の撤回、追加保険料の検討中止、そして制度設計に関わった委員と企業の利害関係の公開です」
要求は明確だった。
笑われることへの抗議ではない。法案を止めるための言葉だった。
「我々は長い間、薄毛を個人の悩みとして黙ってきました。しかし国がそれを政策にするというのなら、こちらにも発言する権利がある」
鬼塚は群衆を見渡した。
「我々は、救ってもらうために集まったのではありません」
一拍置き、声を張った。
「我々は被害者ではない。有権者です」
拍手が爆発した。
*
神崎は手帳に走り書きした。
この男は、言葉を知っている。
怒鳴らず、煽らず、しかし人を動かす言葉だ。
「今日ここに、我々は組織を立ち上げます」
鬼塚は宣言した。
「名称は――」
間。
「ハゲ解放同盟!」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、笑いと歓声が同時に起きた。
うまい、と神崎は思った。
自虐を先に取ることで、相手の武器を奪う。
笑いに変えて、恥を力に変える。
神崎は手帳に走り書きした。
この男は、言葉を知っている。
怒鳴りも煽りもしない。それでも、聞く者を立ち止まらせる言葉だった。
「本日、我々は政府に三つの要求を提出します」
鬼塚は宣言した。
「頭髪健康指数の導入撤回。改善指導に従わない者への追加負担の検討中止。そして、制度設計に関わった委員と企業の利害関係の全面公開です」
広場から拍手が起きた。
笑われるために集まったのではない。何に反対し、何を求めるのかを、彼らは初めて明確な言葉にした。
「我々が戦う相手は、髪のある人たちではありません」
鬼塚の声が低くなった。
「治療を受けたい人でも、育毛剤やウィッグを必要とする人でもない。我々が止めたいのは、人の身体に国が基準を作り、その基準から外れた者に負担を課す制度です」
広場から笑いが消えた。
「国が人間の外見に点数をつければ、企業はその点数を採用に使う。保険会社は商品に使い、世間は人を選別する理由に使うでしょう」
神崎のペン先が止まった。
「これは、髪の話だけではありません」
鬼塚は、群衆の一人一人へ届けるように、ゆっくりと言った。
「誰が人間に値札をつけるのか。その権利を、国に渡していいのかという話です」
広場は静まり返っていた。
鬼塚はその沈黙を確かめるように人々を見渡し、マイクを握っていない方の拳を高く掲げた。
「だから我々は、選ぶ権利を取り戻します」
その声に、群衆の中から拍手が起こった。
「治す自由を!」
前列にいた数人が応えた。
「自由を!」
「そのままでいる自由を!」
今度は、広場のあちこちから声が返ってきた。
「自由を!」
鬼塚は、さらに拳を高く上げた。
「頭皮に自由を!」
今度は、広場のあちこちから声が返ってくる。
「自由を!」
鬼塚は拳を突き上げた。
「頭皮に自由を!」
「自由を!」
百人の声が一つになった。
「頭皮に自由を!」
「自由を!」
拳が上がり、プラカードが揺れた。最初は冗談めいて聞こえた言葉が、繰り返されるたびに熱を帯びていく。
他人が決めていた頭髪の価値を、自分たちの手に取り戻す。
その瞬間、「ハゲ解放同盟」は奇妙な名前の集まりではなく、一つの運動になった。




